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ギフト



    恵理子(えりこ)は、改めて家の中を見渡した。三年前に家を出たときから、何ひとつ変わっていない。
    居間のテーブル越しにキッチンを振り返ると、母の早苗(さなえ)がコーヒーを淹れている。
    シュンシュンと湯が沸く音に、何か小言のような声が重なって聞こえた。
    早苗が好んで置いている観葉植物。趣味で作ったテーブルクロス。
    統一感のまるでない家具たち。

    どれも以前と変わらず、同じ場所にある。
    ベランダの窓の向こうでは、花を終えた秋明菊の茎が、寒そうに風に揺れていた。

    慣れ親しんだはずのこの空間は、いつの頃からか、よその家の匂いがするようになっていた。

    「お父さんがね、最近、探し物ばっかりなのよ」

    少々荒めの動作で置かれたマグカップから湯気がたちのぼる。

    「あれはどこだ、これはどこだって。自分で置いたものまで、私に聞くの。いやになっちゃう」

    寒かった部屋の温度が少し上がった気がする。

    「あ、ごめんね。昼間は寒くても換気してるのよ。この部屋すぐ結露が出ちゃうから」

    家に入ってきてからいまだに上着を着たままの恵理子に、いまさら気付いたように窓を閉める。

    「いいよ、別に。それより二人とも病気とかはしてない?ちゃんとめんどくさがらずに病院行かないとダメだよ」

    歳をとっているのは何も父親だけでは無い。早苗も歳をとっているのだから。
    恵理子が結婚して子どもがいれば、二人はとっくに「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばれていた年齢だ。

    このまま実家暮らしを続けるのは危ないのではないか、と世間体を気にして、三十五歳のときに家を出た。
    二十代のうちに出ていれば、一人暮らしの楽しさももっと味わえたのかもしれない。
    けれど四十歳を目前に控えた今では、気ままな一人暮らしとも言えなくなっていた。

    何より、年に一度会う両親の隠しきれない老いが、いつも心に引っかかった。

    「二人だとクリスマスとかはどうしてるの?」

    早苗は呆れたように笑う。

    「老人二人でクリスマスもないでしょうよ。特に何もしないわよ。お正月はお節とお雑煮くらいは食べるけど…。あんた今年も年末は家で過ごすんでしょ?」

    「うん。年末くらいは人が作ってくれた料理食べたいし。でもそれなら今年はクリスマスもこっちに来ようかなぁ」

    「あんたクリスマスに一緒に過ごす人もいないの?呆れた。」

    早苗の歯に衣着せぬ物言いに恵理子は苦笑いを返す。
    早苗は決して意地悪な人間ではない。ただ一言で言えば、ドライなのだ。優しさもあるのだけど、一歩踏み込むような所がない。

    恵理子は、学生時代に親友から言われた言葉を、ふと思い出していた。

    「恵理子ってさ、情が無いよね。」

    屈託なく放たれた言葉に恵理子は傷つきもしなかったが、戸惑いを隠せなかった。
    情がないとは、どういうことなのか。
    何が足りなくて、何をすればよかったのか。
    少なくとも恵理子自身は、情を持って接してきたつもりだった相手に言われた言葉に、戸惑うばかりだった。

    私はあの子に冷たい人間だと思われていたのかな…。自分が母親に対して、時々感じるように。

    家庭自体は特別厳しかったわけでは無いと思う。ただ両親は共働きだったため、何かと制約はあったかもしれない。早苗は、恵理子を「子ども」として扱うより、どこか対等な存在として接していた。

    プレゼントは誕生日とクリスマスのみ。それ以外は、欲しがっても一切買わないと宣告されていた。
    同級生達がおねだりして買ってもらう姿を尻目に、恵理子自身もそれにわがままを言うこともなく、当然の事として受け入れていた。

    病気をしても、両親は仕事を休めなかった。
    よほどでない限り、学校に行かされた。

    「熱は三十八度から」

    その言いつけを守り、ふらふらになりながら一日を過ごしたある日。
    移動中の廊下で我慢できず嘔吐してしまい、周囲の生徒たちの悲鳴を浴びることになった。
    子供の恵理子にとって、早苗の口から出る宣告は揺るぎようがなく、絶対だった。

    _________________________


    早苗の愚痴混じりの話はなかなか終わらず、恵理子は足早に家路を急いだ。
    最寄駅から徒歩十分と書かれていた物件は、実際歩くとゆうに十五分はかかる。
    西陽がさすリビングも、どうせ日中は仕事で家にいないだろうと、大して気にもせずに決めた。

    けれどいつの日か自分以外の人間が出入りするようになると、あらゆる事が気になりだした。

    休日は明るい陽がさす南向きのリビングで、ゆっくりブランチをするのもいいかもしれない。食器も百円ショップのものではなんだか味気ない。
    バスルームもユニットバスはやっぱりダメだ。料理するならコンロも二口はあった方が便利かもしれない。

    来年の更新を前に思い切って恒一(こういち)に同棲を提案してみようかと考えていた。もうすでに一緒に暮らしてるような物だし、籍はいれずとも恒一ももう四十代なのだから、このまま一緒に生きていくことに何の疑問も無いだろうと思っていた。

    現に恒一の口からは実家の親の話がよく出ていた。
    お互い歳が近い分、親を安心させたい気持ちも一緒だろうと思っていた。
    十二月の初めだった。今年のクリスマスをどう過ごすか、恵理子は何気ない調子で恒一に聞いた。

    行きつけのレストランで外食するか、
    それとも家で、恵理子が手料理を振る舞うか。

    どちらにしても、何気ない会話のつもりだった。

    電話口の向こうで、恒一は少し間を置いた。
    考えている、というより、言葉を選んでいる沈黙だった。

    「……それなんだけどさ」

    その声のトーンで、恵理子はなんとなく察してしまった。
    嫌な予感というより、思い当たる節が、胸の奥で小さく音を立てた。

    「別れたい」

    一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
    冗談でも、悪ふざけでもない、
    確認するまでもなく、まるで決定事項のような言い方だった。

    「……急だね」

    震えそうになる声を抑えて、そう返すのが精一杯だった。
    怒りも、涙も、今はまだ出口を見つけられずにいる。

    「急っていうか……ずっと考えてた」

    恒一は、申し訳なさそうでも、取り乱す様子でもなかった。
    まるで別人のように、淡々とした声が、かえって現実味を帯びている。

    「…なんで?」

    「理由、言わないと駄目?」

    反論しようと思えば、いくらでも言葉は浮かんだ。
    年齢のこととか、
    お互いの親のこととか。

    でも、それらはすべて、
    「同じ方向を見ている」という前提の上に成り立つ話だった。

    恵理子の口から出て来たのは自分でも呆れるくらい馬鹿みたいな言葉だった。

    「…親になんて言ったらいいの?」

    通話の向こうで恒一が小さく息を吐いた。

    「ごめん」

    その一言で、すべてが終わった。

    電話を切ったあと、部屋の中は驚くほど静かだった。
    クリスマスの計画も、年明けの温泉旅行も、
    来年の更新の話も、一瞬でなかったことになった。

    _________________________



    12月24日クリスマス・イヴ。恵理子は恒一と食べる予定だったパティスリーのケーキを持って、実家へと向かった。恒一を失ったからといって、楽しみにしていた物全てを失うのは癪だった。

    玄関のドアを開けた瞬間、いつもはひんやりしているはずの空気が、今日はやけに温かい。
    早苗の作る手料理の匂いが、玄関まで漂ってきている。

    ___ビーフシチューだ。

    そう当たりをつけながら、リビングへ向かった。

    「ただいまー。すごい、良い匂い。ビーフシチュー?」

    キッチンから顔を覗かせた早苗は、笑顔で得意そうに頷く。
    テーブルの上には、ポテトサラダ、なぜか鶏もも肉ではなく手羽先、パックの刺身、豚汁。クリスマスらしさとは無縁の、恵理子の好物ばかりが並んでいた。

    「おう、恵理子。おかえり。今日は寒かっただろ」

    父の拓郎(たくろう)は部屋着のまま、リビングの床に新聞紙を敷き、爪を切っていた。

    「もー、お父さん、今から食事なのにそんなとこで爪切らないでよ」

    早苗は顔をしかめてご飯をよそう。
    恵理子は自分の部屋に行き、さっと部屋着に着替えた。
    席に着くと、ご飯の上にたっぷりとビーフシチューがかけられた皿が置かれた。
    子どもの頃と変わらない「ビーフシチューごはん」に、思わず笑いがこみ上げる。
    恵理子が恒一にビーフシチューを振る舞った時は、ガーリックトーストとバゲットをそえた。
    もし結婚していたら、いつか自分も恒一にビーフシチューごはんを出したかもしれない。そしたら恒一はどんな反応をしただろうか。

    「では、いただきます」

    久しぶりの両親との食事だった。クリスマスイヴという事もあってなんだか気持ちも浮立つ。
    テレビからはクリスマスソングランキングなるものが流れている。

    「そうだ、恵理子もビール飲むだろ?」

    拓郎がキッチンへ入って行き冷蔵庫を開ける。しばらく探していると思ったら、なかなか見つからないらしく、早苗を呼ぶ声がする。

    「お母さん、ビールどこやった?」

    「ちゃんと入ってるでしょ?よく見てよ」

    早苗はめんどくさそうに返事をする。

    「そうだ、恵理子聞いてよ。お父さんてば緑内障って病気だったのよ。こないだ病院に行ったんだけどね、もうかなり進行してて片目はほとんど見えてなくて…。どんどん見えなくなるみたい」

    なかなか見つけられずにいる拓郎に、早苗がリビングから声をかける。

    「だからそこじゃないってば。扉よ扉。左じゃなくて右よ」

    遠くから指示を出す早苗はまるで監督のようだ。指示はなかなか伝わらず、監督は苛立ちを隠せない。
    恵理子は小さくため息をつくと、席を立ってキッチンへと向かう。

    「お父さん先に座っててよ。私持っていくから」

    拓郎は少し手探りをするような動作でゆっくりとテーブルへ戻っていく。いつからあんな歩き方になっていたんだろう。
    思えば、帰省するたびに拓郎は「部屋が暗い」と不平を言っていた。昼間でも電気をつけたがっていた。

    兆候はいくらでもあったのだ。
    もっと早く気づけていれば。
    病気は、確実に進行していた。

    自責の念と、早苗へのわずかな非難が、胸の奥に重く積もった。
    もう少し、気にしていれば。
    もう少し、気にしてくれていれば。

    「お父さん、ビールここに置くよ」

    グラスに注いだビールを拓郎の手元に置く。
    自分のグラスには半分だけ。

    ______クリスマスソングが聞こえてくる。心が子供の頃のクリスマスの夜へと飛んでいく。
    幼い恵理子はサンタさんに手紙を書いて枕元に置いて眠った。けれどサンタさんから返事が届く事は無かった。
    何年書いても返事は一度も来ず、その内恵理子は書く事をやめた。
    サンタさんは何故ただの一度も、返事を書いてくれなかったのだろう。


    _________________________


    最近控えていたビールのせいか、食べすぎたせいか、恵理子は次第に気分が悪くなってきていた。
    拓郎は「飲みすぎた」と言い残し、すでに自室へ引っ込んでいる。
    顔が熱い。もしかしたら熱があるのかもしれない。

    「ごめん、お母さん。なんか風邪引いたかも。少し横になるね」

    早苗は不安そうに片付けの手を止める。

    「大丈夫?今インフルエンザが流行ってるっていうけど…。あんたちゃんと予防接種うけたの?」

    「…ごめんね。あとで手伝うから、置いといて」

    早苗の言葉を聞き終える前に、恵理子は部屋のドアを閉めた。

    ひんやりした布団にそのまま潜り込むと、掛け布団を鼻先まで引き上げる。きっと早苗が干してくれたのだろう、乾いた温かい匂いが呼吸とともに流れ込む。

    見上げると薄暗がりの中に、見慣れた木目の模様が浮かんでいた。  壁に貼られたままの、大学時代のカレンダー。  
    本棚には、背表紙の色褪せた文庫本が何冊も並んでいる。  

    目を閉じると、軽い眩暈がする。
    遠くで水が流れる音と、食器同士がかすかにぶつかる音が聞こてきた。

    子供の頃から使っている自分の部屋で、昔と変わらない柄のふとんにくるまれて、恵理子はなんだか自分が途方も無く、遠い所まで来てしまったような気がした。

    たった1人、終着駅を見逃して立ち尽くしている。

    恵理子はそっとお腹に手を当てる。

    恒一に別れを告げられた時、恵理子は妊娠していた。もう結婚しているような物なのだから、順番が逆になったくらい大した事ではないと思っていた。

    むしろ恒一はプロポーズしてくれるかもしれない。

    現実は予想の真逆だったわけだけども。
    生まれて初めて男性から選ばれたと思った喜びは、一瞬で消え去ってしまった。

    やっぱり私はダメだった。
    私はこの子に、ちゃんと与える事が出来るだろうか。
    親から与えられなかった情を、私は持っていない。
    情の無い私に、誰かに与える事なんて出来るんだろうか。

    遠い昔、親友に投げかけられた言葉が、まるで呪いのように恵理子を縛り付けていた。

    遠くで時計が時を刻む音が聞こえる。
    いつしか家全体が息を潜め、恵理子は静かな寝息をたてていた。


    ___夢の中で遠い昔の事を思い出していた。

    大学生の頃、風邪を拗らせて1人寮で寝込んでいた恵理子の部屋に、同じ寮の友人がかけつけてくれた。
    彼女は薬とポカリスエット、ゼリーを大量に買い込み、慣れた手つきでレトルトのお粥を温めてくれた。
    友達が病気になったらこうすればいいのだと、彼女が教えてくれた。

    バイト先の友人たちは、失恋した恵理子の話を、朝までファミレスで聞いてくれた。悲しみは共有してもいいのだと、彼女達が教えてくれた。

    恒一は誕生日やクリスマスじゃないなんでもない日に、恵理子にプレゼントを買ってくれた。与えたい時に与えて良いのだと、欲しがってもいいのだと、恵理子はようやく知ることが出来た。

    親が与えてくれなかった物、けれど他人が与えてくれた物。

    そして今、恒一が残した大きなギフトを前に、恵理子は不安で押しつぶされそうになっていた。



    ______ふと目を覚ますと、うっすら夜が明けようとしていた。少し横になるつもりが、結局あのまま寝てしまったのか。部屋の中にはひんやりとした朝の空気が満ち始めている。

    なんだか久しぶりによく寝た気がして、頭がすっきりしていた。目覚ましもなく起きたのはいつぶりだろう。
    妙に冴えた頭で、恵理子は今日は半休を取ろうと決めた。そして早苗を誘って、近所の喫茶店にモーニングを食べに行こう。モーニングを食べたら、ゆっくり歩きながら、ご近所の庭に咲く山茶花を眺めて、話をしよう。

    早苗の足音が部屋に近づいてくるのが分かって、恵理子は慌てて布団を引き寄せて目を瞑る。
    部屋のドアがそっと開いたかと思うと、恵理子の額にあったかい手のひらが押し当てられた。
    手の平から安堵する気持ちが伝わってくる。

    子供の頃、熱を出すと早苗は必ず、明け方に恵理子の部屋をそっと覗くと、額に手のひらを押し当てて熱を確認していた。

    ___お母さん、お母さん。

    堰き止めていた思いが、喉の奥から込み上げてくる。歯を食いしばらなければ、あっという間に濁流に飲み込まれて、二度と立ち上がれなくなってしまうだろう。

    そんな恵理子の不安を支えるように、母の力強さが伝わってくる。
    早苗の大きな手のひらで額を包まれると、とても安心したことを思い出した。

    ___どうかもう少しこのままでいてほしい。

    私が挫けそうなとき、
    逃げずに立っていられるように。
    一人になっても、崩れないように。

    この手のぬくもりを、忘れずにいられますように。
    いつか私も、誰かをこんなふうに包めるように。

    どうか、どうか。

    カーテンの向こうが、わずかに明るくなっている。
    朝日が静かに差し込んでいた。



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    モト・ヨルベ。実家で年老いた両親と同居中。アラフィフのこどもおばさん。癌→解雇→過敏性腸症候群と絶賛大殺界中⭐︎短編作家/エッセイストを目指してます。日常に笑いと毒が混在しています。

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