
1未満の人間の平熱。
2026年某日私は前方頸椎除圧固定術(ACDF)を受けた。合法的に喉元からメスを入れ、神経を圧迫する頸椎の病変を取り除いて固定する外科手術だ。
そして2日後、統計上0.3パーセントと言われる動脈破裂に遭遇し緊急再手術となった。
文字通り死の淵に触れた出来事だった。
だがこの一連の日本医療のエラーを通過したあと私の中に残ったのは映画『OUATIH』※1 のクリフ・ブースのような妙に静かな平熱だ。
この冷静さは麻酔による意識の混濁ではない。
事態を理解できない無知から来るものでもない、死を前にすると恐怖など全くない。
頸部の縫合が弾け鮮血が溢れ出した。
両肩が燃えてるかと思う程、熱い。
皮膚を伝う熱はまるで他人の身体の出来事のように遠のく。
意識の底で私はこめかみに指を当てる動作を繰り返した。
血まみれでソファに沈み、宙を見つめる『タクシードライバー』のトラヴィス、あの仕草だけを静かになぞっていた。
後日私はそれとなく看護師への聞き取り、状況をかなり正確に把握している。
2回目の手術、スタッフは徹夜で対応に追われていた。レントゲンを見た看護師は私の頸動脈からは出血が進み窒息寸前だったというあの証言、致死の恐怖とパニックに直面していたのは私ではなく、高いプライドと確かな実績を誇るはずの病院側である。
二度目の手術から生還してからスタッフはやたらと私に「大丈夫ですか?」と声をかけてくる。
その優しさ、過剰な気遣いが調子を狂わす。それは数日前まで私の身体に致死アラームが鳴り響いていた証拠の様にも感じられた。
興味深いことに病院側は2度目の緊急手術を記録した画像を私に見せようとしない。
回復した患者に過去の致死的状況の画像を提示することは訴訟リスクや不信を招く可能性があるからだろう。まるで小国と大国の交渉だ。
さらに看護師はこう言う「こんな患者さんは初めてです」。
それは人格を称賛しているわけではない。
ACDF 直後に動脈破裂という致死的コンボを引き当てながらパニックも怒りも見せない反応に気味が悪いとでもおもっているのか。それとも彼らの経験則から外れた患者の異常な落ち着きを恐れているのか。
統計分布でいえば0.3パーセントの外れ値である。
この「大丈夫ですか?」という絶え間ない声掛けは、温かいケアとも思えるし、医療本来いや人間本来の優しさとも感じ、同時に別の側面から見ると、それは死にかけていた患者がなぜ平然としていられるのかを観察し続けるシステムの視線のようにも見える。
ここで思い出すのが「臨床のまなざし」だ。医療システムは患者を観察しデータとして整理する。そして既存の枠組みに当てはめようとする。だが極限状況で私が見せた平熱のような反応は、その進行表が想定していない挙動だった。だから仕組みは観察し続ける、過剰な優しさという形を取りながら...
現代日本の医療システムが持つ防衛本能、
不都合なデータを隠蔽する構造、患者をまなざしによって管理するパターナリズム。
そんな仕組みはある程度、理解しているつもりだ。
だが私はこの出来事を材料にしてSNSで病院を告発し共感を集めるゲームには興味がない。
世間が求める正義
告発
それらは今の私には影絵の芝居のように見える。
不完全な影やシステムの欠陥に囚われるよりももう少し風上を上手く利用しカイト飛翔する海鳥のような場所から現実を掘り下げたい。
50年生きてきて得た客観性とはたぶんそういうものだろう、長年続いていた頚椎神経への圧迫による拷問の様な苦痛は消え、エラーから復旧した私は今確実に回復しつつ生きている。その絶対的な事実の前では社会が期待するプログラム通りの怒りなどどうでもいい。それよりも、命をつなぎ、ケアを続けてくれた現場の入院スタッフへの信頼と敬意を選ばざるを得ない。
そしてただ感覚に身を委ねて前を向く。
その時ふと思った。
人間もまだ捨てたものではない。
この極限の出来事。
画像すら提示できない日本の医療システムの不都合、私に向けられ続けたまなざしの記憶は残るが無条件の慈愛にも触れた気がする。
そして、それらをあえて文章として残すのは完全に忘れて次へ進むためだ。
小国と大国の境界線を引く水面下の調整で得た小国としての、黙示的合意の不可侵領域と1人未満の存在としての圧倒的な平熱。
複雑な事象を損なうことなく受け入れ、摩擦ゼロでここから脱出する。
これがこのサナトリウムで得たもっとも互恵的で力強い結論である。
I try.
※1 OUATIH:映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の略称。現実の残酷な事件を映画の魔法で書き換え、最高のおとぎ話として昇華させたクエンティン・タランティーノ監督の素晴らしい作品。