
とどろきのおか 第一章 白紙の調査票
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教室の窓から見える空は、ひどく曖昧な色をしていた。
突き抜けるような青でもなければ、雨を予感させる重い灰色でもない。春特有の湿り気をたっぷりと含んだ、白く霞んだ青。それは、見つめているだけで自分自身の輪郭さえ溶かしてしまいそうな、ひどく頼りない色だ。
「現実を見なさい。自分の足が今、どこに立っているのかをね」
進路指導室で担任の教師が放った言葉が、いつきの耳の奥で、粘りつくような重さを持って響き続けている。
机の上に置かれた『進路希望調査票』は、真っ白なままだ。第一志望から第三志望まで、定規で引かれた無機質な空欄が、まるで「お前には何もない」と突きつけてくる口のように見えて、いつきはそっと視線を逸らした。
何者かになりたいという強い野心があるわけではない。かといって、何にもなりたくないわけでもない。ただ、大人たちが求める「職業」という名の窮屈な箱に、今の自分を無理やり押し込もうとした瞬間、心の中にある大切な何かがこぼれ落ちてしまうような気がして、いつきは一歩も動けずにいた。
終礼のチャイムが鳴ると同時に、いつきは逃げるように教室を後にした。
気づけば、足はいつもの場所へ向かっていた。那珂川の流れを眼下に見下ろす、小さな台地。安徳台。
坂道を登り切り、展望台の広場に辿り着いたとき、いつきの中で何かがぷつりと切れた。
「……何が現実よ」
いつきはカバンから、真っ白な調査票をひったくるように取り出した。両手に力を込め、それをくしゃくしゃに丸める。指先に伝わる紙の抵抗が、今の自分への苛立ちそのものだった。
投げ捨てようと振りかぶった、その時。
「おまえ、そんなに自分を放り出したいのかい」
風のささやきにしては、あまりに明瞭な声だった。
いつきは息を呑み、周囲を見渡した。広場には自分以外、誰もいない。ただ、春霞の中に一本の巨大なクスノキが、主のように鎮座しているだけだ。
「……誰?」
「ここだよ。おまえが今、背を向けている場所さ」
声は、耳の奥で響くのではなく、足元の地面から吸い上げられ、空気に溶け出すように聞こえてきた。いつきは恐る恐る、目の前の大樹を仰ぎ見た。黒ずんだ樹皮は、数千年の風雪に耐えてきた鎧のように、力強く波打っている。
「……あなた……木なの?」
いつきの問いに、クスノキは答える代わりに、ざわざわと枝葉を鳴らした。それは、古びたチェロの弦を弾くような、低く重厚な響きを湛えていた。
「そう見えるなら、そうなんだろうよ。おまえのじいさんは、私のことを『うるさい隠居』と呼んでいたがね」
「おじいちゃんを、知ってるの……?」
「ああ。庭師のくせに、木を相手に説教を垂れる、面白い男だった。……いつき。おまえが今、その白紙の紙を丸めたのは、自分の中に何も見当たらないからだろう? だが、安心しな。この丘に根を張ってきたのは、私だけじゃない。おまえの先祖も、名もなき人々も、みんなこの空を見上げてきたんだ」
いつきは、丸めた紙を握りしめたまま、吸い寄せられるようにその幹へと掌をあてた。
掌から伝わってくるのは、春の陽だまりを吸い込んだような、微かな温もり。
「さあ、いつき。おまえの足元に重なっている、果てしない時間の層を、一つずつ剥がして見せてやろうか」
いつきの視界で、春霞の白が、一層濃く、渦を巻くように波打った。
現代という時代の輪郭が、ゆっくりと、けれど確実に溶け出していく。
境界線が消える。いつきの意識は、クスノキの鼓動に導かれるように、深い歴史の底へと沈み込んでいった。
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