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最後に名前を呼んで 第二十二話 再会

    悠真が亡くなってから五年。


    咲良は六十六歳になっていた。


    取締役も。

    施設長も。

    すべて退いた。


    今は一介護士として働いている。


    新人職員と同じように利用者の部屋を回り。

    食事介助をし。

    入浴介助をし。

    話し相手になる。


    肩書きはなくなった。


    けれど。


    不思議と今が一番穏やかだった。


    利用者の笑顔が近い。


    現場の空気が近い。


    悠真との約束を守っている気がした。


    ある春の日。

    事務所で新規入居者の書類を確認していた。

    何気なく名前を見る。


    その瞬間だった。


    咲良の手が止まる。


    心臓が大きく鳴る。


    そこに書かれていた名前。


    村主 嘉哉


    しばらく動けなかった。


    何度も見返す。


    見間違いではない。


    村主嘉哉。


    高校時代の初恋。


    最初に愛した人。


    そして。


    人生で最も忘れられなかった人。


    思わず椅子にもたれかかる。


    六十六歳になっても。


    その名前には力があった。


    胸の奥に眠っていた記憶が一気によみがえる。


    十六歳の春。


    校門。


    笑顔。


    告白。


    別れ。


    再会。


    そして。


    もう二度と会わないと決めた朝。


    すべてが遠い昔のことだった。


    書類には続きがあった。


    配偶者。


    死亡。


    数年前に妻を亡くしている。


    さらに診断名。


    重度認知症。


    咲良は静かに目を閉じた。


    人生は本当に不思議だと思った。


    午後。


    入居の日。


    玄関に車が止まる。


    咲良は利用者の受け入れ担当として立っていた。


    車椅子が降ろされる。


    そこにいたのは。


    嘉哉だった。


    かつて長身で。


    誰よりも目立っていた少年。


    誰よりもモテた青年。


    その面影は残っていた。


    白髪になった今も整った顔立ちだった。


    しかし目は違った。


    焦点が合わない。


    どこか遠くを見ている。


    認知症が進行していることは一目で分かった。


    車椅子を押している男性が頭を下げる。


    「よろしくお願いします」


    長男だった。


    五十代くらいだろうか。


    疲れた顔をしていた。


    「父をお願いします」


    声が震えている。


    咲良は深く頭を下げた。


    「こちらこそ」


    職員として。


    そう答えた。


    しかし心の中は大きく揺れていた。


    嘉哉はぼんやり辺りを見回している。


    咲良は勇気を出して声をかけた。


    「村主さん」


    嘉哉がゆっくり顔を向ける。


    その瞬間。


    咲良の胸が締め付けられた。


    目が合う。


    何十年ぶりだろう。


    だが。


    そこに認識はなかった。


    嘉哉は不思議そうな顔をした。


    そして言う。


    「どちらさんですか?」


    咲良は一瞬言葉を失う。


    当然だった。


    分かっていた。


    書類にも書いてあった。


    重度認知症。


    昔の記憶も失われている。


    それでも。


    ほんの少しだけ期待していた。


    名前を呼べば。

    気づいてくれるのではないかと。


    しかし。

    現実は違った。


    嘉哉は咲良を知らない人として見ていた。


    咲良は微笑んだ。


    職員として。


    「介護士の高瀬です」


    そう名乗った。


    嘉哉は頷く。


    「そうですか」


    それだけだった。


    初恋の人との再会は。


    あまりにも静かだった。


    長男が申し訳なさそうに言う。


    「昔のことはほとんど覚えてないんです」


    「最近は家族のことも分からない日が多くて……」


    咲良は頷く。


    介護士として何度も見てきた。


    認知症という病気を。


    頭では理解している。


    だが。

    今日は利用者ではなかった。


    嘉哉だった。


    自分の人生を大きく変えた人だった。


    入居手続きが終わる。

    嘉哉は居室へ案内される。


    車椅子を押しながら。

    咲良は横顔を見る。


    嘉哉は窓の外を見ていた。


    穏やかな顔だった。


    昔の記憶も。


    自分との思い出も。

    もう何も残っていないのかもしれない。


    それでも。

    咲良は不思議と悲しいだけではなかった。


    人生の最後に。

    また会えた。


    その事実だけで十分な気もした。


    居室へ着く。


    嘉哉はベッドに腰掛ける。


    そして突然言った。


    「ここはいいところですね」


    咲良は微笑む。


    「そうですよ」


    嘉哉も笑った。


    少年の頃と少し似た笑顔だった。


    その瞬間。

    咲良の胸の奥で何かが静かに揺れた。


    長い人生を経て。

    再び同じ場所に辿り着いた二人。


    ただし今度は。

    恋人ではない。


    介護士と利用者として。

    物語の最後の章が。

    静かに始まろうとしていた。