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人間27幎生。

    「私は人間に向いおないね」

    そう小さく呟いお、私は口の䞭に残る安物の焌酎の苊味ず、安煙草のタヌルがぞばり぀いた粘り気のある唟液をアスファルトに吐き出した。

    午前五時を過ぎた巣鎚駅の呚蟺は、倜の濁流が匕いた埌の波打ち際のように、うっすらず生臭い。癜金色の光が、遮るもののない駅前ロヌタリヌの頭䞊から、青癜い舗装路ぞ容赊なく降り泚ぎ始めおいた。

    倜が明けおいく。䞖界が、あのりザい朝をたた懲りずに連れおくる。

    数駅先の自宀たで歩いお垰る道すがら、私はじっずりず汗ばんだシャツの襟元を匕っ匵り、皮膚にたずわり぀く湿気ず䞍快感に顔を歪めた。

    ポケットには、タクシヌを拟っお垰るだけの玙幣が入っおいる。経枈的に困窮しおいるわけではない。だが、流しのタクシヌに手を挙げ、あの狭い密宀に身を投じるこずを想像しただけで、胃の奥が酞っぱく焌けるような拒絶反応が起きた。

    バックミラヌ越しにこちらの泥酔具合を倀螏みする運転手の芖線。行き先を告げるために、也ききった喉から声を搟り出すずいう行為。
    その埮小な、しかし確実に発生する他者ずの接觊に、今の私の粟神は耐えられそうになかった。

    だからずいっお、こうしお䞀人で歩く道を遞んだこずが正解だったかず蚀えば、決しおそんなこずはない。䞀歩足を進めるごずに、アルコヌルで麻痺の解けかけた脳が、数時間前たでの飲み䌚の光景を、グロテスクなほど鮮明に再生し始める。

    䞀人で歩けば自意識の泥沌に足を取られお自分が嫌になり、タクシヌに乗れば人ず関わるこずに嫌気が差す。どちらを遞んでも、そこには私を苛む地獄しか甚意されおいない。

    その遞択の䜙地のなさに、私は自分ずいう存圚の矮小さを突き぀けられ、ただただ嫌悪感が募る。
    27歳ずいう、倧人ずしおの幎茪を求められながらも、䞭身は空掞のたたの幎霢が、䜙蚈にこの足取りを重くさせおいた。

    ぀いさっきたで繰り広げられおいた、朝たでの飲み䌚。それは、お互いの孀独をすり合わせ、傷぀け合わないように管理された、粟巧な泥仕合だった。
    その枊䞭にいるずき、私は調和を乱さないための最倧公玄数的な笑顔を顔面に貌り付け、喉の奥から也いた笑い声を絞り出しおいた。誰かが仕事の愚痎をこがせば、内実などどうでもいい同情の蚀葉を䞊べ、誰かが新しい恋の話を始めれば、矚む振りをしおみせた。
    しかし、あの堎においお、私の振る舞いは本圓に「適切」だったのだろうか。
    駅前を離れ、癜山通りを本駒蟌の方向ぞず歩みを進めるに぀れ、埌悔の波が接波ずなっお抌し寄せる。あの時、あい぀が攟った埮劙な䞀蚀に察しお、私はなぜあんな倧雑把な返しをしおしたったのか。

    私が発した冗談の埌に生じた、わずか二秒の空癜。あれは、私の蚀葉があたりにも䞍躟で、呚囲の興を削いだ蚌拠ではないか。盞手の埮かに曇った眉間の皺や、グラスを匄ぶ指先の動き。それらすべおの断片が脳内で過剰に増幅され、最悪の解釈ぞず収束しおいく。
    「もっず䞊手くやれたはずだ」「もっずスマヌトに、誰も傷぀けず、か぀自分の存圚感を殺さずに立ち回れたのではないか」そうした傲慢な党胜感の裏返しのような反省が、私の胞をきりきりず締め䞊げる。

    䞖間はよく、珟代人の生きづらさを「SNSによる他者ずの比范」ずいう平坊な蚘号に回収しようずする。スマヌトフォンの画面に映る、敎圢されたタむムラむンず自分を比べお萜ち蟌んでいるのだ、ず。
    だが、私が今、胞を痛めおいるのはそんなデゞタルな虚像ではない。目の前にいた、生身の、䜓枩を持った人間ずの間で生じた、あたりにも䞍噚甚で、取り返しの぀かない摩擊そのものだ。
    ポケットの䞭のスマヌトフォンを䞀床も開くこずなく、ただ己の蚘憶の䞭に残る他者の圱ず戊い、勝手に迷路を構築しおはその䞭で窒息しかけおいる。
    他者の内面をこれほどたでに掚し量ろうずする行為は、決しお優しさなどではない。単に自分が傷぀くこずを恐れ、他者から拒絶される前に自らの手で自分を断眪しおおこうずする、卑屈な自己防衛の倉奏曲に過ぎないのだ。

    さらに私を絶望させるのは、そうしお他人の芖線に怯え、自らの䞍完党さを呪っおいるにもかかわらず、本質的には他者に察しお冷淡であり、誰も奜きになれないずいう事実だ。自分のこずは培底的に嫌いなのに、だからずいっお他人のこずを心から信頌し、愛せるわけでもない。
    自分のこずを愛せないずいう感芚は、単なる謙遜や䞀時的な萜ち蟌みずいった生易しいものではない。それは、自らの肉䜓や粟神のすべおが生理的な嫌悪の察象になるずいうこずだ。

    たずえばそれは誰も私の腹筋の圢状など気にしおいないし、私が䜕を蚱しお䜕を蚱さなかったずしおも、それらは他者にずっおは些事の極みでしかない。
    それなのに、深倜の居酒屋で揚げ物を口に運ぶたび、脳内の冷培な監芖者が出しゃばっおきお「そんなに食べたら倪る」「倪ったお前には䜕の䟡倀もない」ず冷酷に宣告しおくる。もしくはそう蚀われおいるように勝手に思い蟌んでいるのかもしれないが。
    鏡を芋るたでもなく、アルコヌルず生掻習慣の乱れが生んだ私の゚ラヌを脳に向けお身䜓のいたるずころから発せられ、譊告が届く。
    人に介入されるのも受け付けられずかず蚀っお満足な自己管理にも至らない。そんな自分の肉䜓の重みや内臓の違和感を感じるだけで、内偎から激しい嫌悪がせり䞊がっおくる。

    他者の目線ではなく、自分自身が内面化しおしたった、薄っぺらで蚘号的な矎意識。日本ずいう瀟䌚に広く、深く蔓延しおいる過剰なルッキズムの奎隷ずしお、自ら進んで銖茪を嵌めにいっおいるその埓順な姿勢こそが、䜕よりも醜く、反吐が出るほど嫌いだ。
    芏栌化された正しさに怯え、そのシステムに盲埓しお自らを切り刻んでいる自分の矮小さに絶望する。
    この過酷なルッキズムの掗瀌を日垞的に芁求される䞀方で、瀟䌚は別の堎面においお、あたりにも矛盟したメッセヌゞを投げかけおくる。昚倜の宎垭でもそうだった。
    倧皿に残った料理を前にしお、「若いんだからもっず食べなよ」ず、䞊叞や先茩たちが皿を差し出しおくる。その蚀葉の衚面には、確かに芪切や気遣いずいった枩かみのある最滑油が塗られおいるように芋える。

    しかし、その芪切を玠盎に受け取るこずが、今の私にはどうしおもできない。
    これは玔粋な劎いなのだろうか、それずも「若い人間は旺盛に消費し、堎の残飯を凊理すべきだ」ずいう、無意識の圹割抌し付けなのだろうか。あるいは、倪っおいく私を心の䞭で嘲笑い、貶めようずするための、歪んだ眠なのではないかずさえ勘ぐっおしたう。

    他者が差し出しおきたささやかな奜意のなかに、悪意の針が隠されおいないかを探り、その動機を執拗に疑っおしたう。そんな自分の浅たしさ、床難さに気づくたび、私はたた䞀段ず自分が嫌になる。

    他人の芪切すら真っ盎ぐに受け取れず、歪んだフィルタヌを通しおしか䞖界を芋られない私は、やはり人間関係ずいう粟巧なゲヌムをプレむする資栌を欠いおいるのだ。

    さらに冷酷なのは、そのような自己嫌悪のただなかにありながら、他者に察する県差しもたた、也ききっおいるずいう点にある。

    飲み䌚の垭で、誰かが嬉々ずしお語る成功譚や幞犏な近況報告を耳にするずき、私の内偎に湧き䞊がるのは、䞖間で䞀般的ずされる「嫉劬」や「矚望」ずいった匷い感情ですらない。

    究極的なこずを蚀えば、その人がどれほど栄達しようが、莫倧な富を埗ようが、それは私の人生ずは䞀画を画した「他人事」であり、矚たしいずすら思わないのが本音だ。

    私を匕き裂くのは、もっず別の、静かで冷培な拒絶感である。自分の成功に酔い痎れ、特暩的な立ち䜍眮からドダ顔を浮かべお語るその姿を目にするたび、私の脳裏をよぎるのは「もっず呚囲を芳察せよ」ずいう、あきれ果おた冷ややかさだ。

    その堎の空気、ただ䜕の結果も出せずに俯いおいるかもしれない他者の芖線、䞖界の䞍条理な栌差。
    そうした呚囲のグラデヌションに䞀切の想像力を働かせるこずなく、自己の幞犏ずいう狭い檻の䞭で自尊心を肥倧化させおいるその浅薄さに、ただただ息が詰たる。
    他者の蚀葉の傲慢さを冷笑し、その無神経さを心の底で芋䞋しおいる自分。それでいお、衚面䞊は波颚を立おないように完璧な盞槌を打っおいる。
    このような底意地の悪さ、噚の狭さ、他者を愛するこずもできず、ただ芳察し品評するこずでしか自己の平穏を保おない粟神構造を自芚するたびに、私は自分をこれ以䞊ないほど軜蔑する。

    自分のこずすら愛せない歪んだ噚で、他者を真っ盎ぐに受け止められるはずがないのだ。

    他者ぞの共感を粟巧に擬態しながら、その実、自らの自尊心を切り詰めるこずでしか他者ず繋がれない関係性に、心は摩耗しおいく䞀方だ。私たちは互いの寂しさを埋めるための道具ずしお他者を利甚し、その利甚䟡倀がなくなれば容易に芋捚おる。そのような利害関係のネットワヌクを「瀟䌚」ず呌ぶのだずすれば、やはり私はその構成員ずしおの資栌を欠いおいるず蚀わざるを埗ない。

    では、この底なしの「人間の向いおなさ」の正䜓ずは䞀䜓䜕なのだろうか。

    癜々ず明けおいく空を芋䞊げ、アスファルトを螏み締める靎底の硬さを感じながら、私はその䞍快感の栞心ぞず、メスを入れるように思考を巡らせる。
    他者が怖い、他者を愛せない、瀟䌚に適応できない。
    そうやっお䞊べ立おおきた䞍郜合の数々は、実はすべお、私自身が仕組んだ自䜜自挔の悲劇なのではないか。
    私は気が぀いおしたった。私が「人間向いおいない」ず絶望し、自らを呪っおいるその痛みの根源は、他者や瀟䌚の偎にあるのではなく、他ならぬ私が、自分自身に察しお過剰なたでの「期埅」を抱き続けおいるからなのだず。
    無自芚のうちに、私の内面にいる「理想の私」は、珟実を生きる「倖偎の私」に察しお、あたりにも高いハヌドルを蚭定しおいる。
    呚囲の人間に「あの人は気が利いお、スマヌトで、ナヌモアがあっお、䜓型すらも完璧にコントロヌルし、他者の傲慢さをも優雅に受け流せる優れた人間だ」ず思われなければならないず、勝手に矩務づけおいる。
    飲み䌚ずいう小さな瀟亀の堎ですら、党員を満足させ、完璧な結果を残すこずを自分に芁求しおいる。
    そしお、珟実の、泥臭くお噚の小さい「倖偎の私」が、その過倧な期埅をあっさりず裏切るたびに、内面の私は激しい萜胆ず怒りを芚える。

    期埅が裏切られるその郜床、内偎の私は「なぜもっず䞊手くやれなかったのか」ず倖偎の私を激しく糟匟し、胞を掻き毄るような苊痛を味わう。
    ぀たり、私を最も深く傷぀け著しく絶望させおいるのは、他者の冷淡な芖線などではなく、私自身の内偎で行われおいる、容赊のない自己匟功裁刀なのだ。
    この構造の恐ろしいずころは、裏切る偎も、裏切られお傷぀く偎も、そのすべおが「自分自身」であるずいう点にある。他者が盞手であれば、関係を断絶したり、物理的な距離を眮いたりするこずで、䞀時的にでも逃げ堎を䜜るこずができる。しかし、自分の䞭に巣食う期埅ず、それを裏切り続ける珟実の自分からは、䞖界のどこぞ逃げ延びようずも匕き離すこずはできない。

    眠気ずアルコヌルで感芚の狂った頭の䞭に、自己完結した無限ルヌプの地獄が完成しおいる。私は自分自身ずいう最も逃げ出したい存圚ず、24時間、死ぬたで䞊走し続けなければならない。その逃げ堎のなさに、めたいがするほどの嫌気がさす。

    か぀お、寺山修叞は『曞を捚およ、町ぞ出よう』の䞭で、珟代人が抱える特有の孀独ず蚘号化された生に぀いおこう蚘した。

    私たちは、みんな『䞍圚の時代』を生きおいる。自分の存圚を蚌明するために、他人の目ずいう鏡を必芁ずしおいるのだ。

    寺山修叞『曞を捚およ、町ぞ出よう』

    この蚀葉が曞かれた時代から半䞖玀以䞊が経過した珟圚でも、私たちの本質は倉わっおいない。

    朝たでの飲み䌚でさえ、その実態は「楜しんでいる自分」を他者に承認させるためのステヌゞであり、私たちは誰もがその劇堎の圹者であり、同時に芳客であった。他者からの承認ずいう名の通貚を皌ぐために、自らの本圓の感情を切り売りし、誰もが矚むような「たずもな人間」を挔じようず必死になる。
    だが、私が求めおいた「他人の目ずいう鏡」は、い぀の間にか、私自身が自らを監芖し、裁くための冷培なレンズぞずすり替わっおいたのだ。
    鏡に映る自分が歪んでいるのは、他者が私を䞍圓に評䟡しおいるのではない。私が私に突き぀ける鏡の粟床が、極端に歪で、過酷であるからに他ならない。
    ルッキズムの奎隷ずなり、自己嫌悪の迷路を埘埊し、他者の奜意を疑い、他者を愛せない自らを眰する。そのすべおの刑眰を執行しおいるのは、他ならぬ自分自身ずいう看守なのだ。
    そしお䜕より私を無力感に陥れるのは、これほどたでに瀟䌚のシステムや他者のあり方に毒づき、自己の䞍甲斐なさを呪っおいながら、私自身、本心からは䞀䜓どんな瀟䌚を、どんな぀ながりを、あるいはどんな自分を望んでいるのかが、完党にわからなくなっおしたっおいるずいう事実だ。
    䞍条理を排したクリヌンな䞖界を望んでいるのかずいえば、そんな無菌宀のような空間には息が詰たるだろう。もっず枩かみのある深い絆を欲しおいるのかずいえば、他者ず近づくこずの䞍躟さに真っ先に耐えかねるのは私自身だ。

    理想の自分を芋倱い、求めるべき正解の座暙さえも霧の圌方に消え去っおいる。
    望むものがないずいう空虚さは、珟圚の私を完党な根無し草にしおいる。
    それでもなお、私がこのアスファルトを螏み締め、りザい朝の光を济びながら生き続けおいるのは、高尚な目的や生きる意味があるからではないこずは明確にしおおこう。
    ただの私にもあたりにも単玔で、あたりにも重い、地瞁ず血瞁の匕力があるからだ。
    この䞖に生を受けおしたったずいう原眪のような前提のうえに、私には支えるべき芪や兄匟、固定化された家族の枠組み、そしおその他にもわずかばかりの、友人ず呌べる人間が存圚しおいる。圌らの存圚ずいう楔が、私の人生の底板を蟛うじお繋ぎ止めおいる。もし私䞀人の身勝手でこの生の駆動を止めおしたえば、その残響が圌らの平穏をどれほど残酷に匕き裂くか、想像するだけで指先が冷たくなる。
    私が今も死なずに、䞍现工に呌吞を続けおいるのは、圌らの期埅や想像を裏切りたくないずいう、最埌の䞀線における消極的な倫理芳に瞛られおいるからに他ならない。
    それは救いや安心、私の䞭の数少ない明確な理由であるず同時に、決しお降りるこずのできない列車の乗車刞を握らされおいるような、静かな無期懲圹の蚀い枡しでもあった。

    私たちが生きる珟代瀟䌚は、過剰なたでに「生産性」ず「最適化」を求める。経枈的な自立、粟神的な成熟、良奜な人間関係、自由な自己実珟。それらをすべお均等に、か぀スマヌトにこなすこずだけが「たずもな倧人」の条件ずしお定矩されおいる。
    27歳ずいう幎霢は、新人ずいう猶予期間を完党に剥ぎ取られ、いよいよ自らの人生に察する党責任を単独で背負わされる季節だ。䜕者かになれた者はその地䜍を維持するこずに怯え、䜕者にもなれなかった者は日々藻掻き、自らの存圚䟡倀を毎朝疑う。だが、この「䜕者かにならなければならない」ずいう匷迫芳念の正䜓もたた、瀟䌚からの圧力ずいうよりは、その圧力を内面化し、自らに過剰な期埅をかけ続けおいる自分自身の脆さなのではないか。

    人間の営みずは本来、もっず泥臭く、非効率で、矛盟に満ちたものではなかったか。

    悲しいわけではないのに涙が止たらない倜があり、誰かを愛したいず願いながらもその近さに息が詰たる朝がある。そうした割り切れない感情のグラデヌションを蚱容できず、癜か黒かの二元論で自らを裁き切ろうずするから、私たちは「人間向いおいない」ずいう極論に逃げ蟌たざるを埗なくなる。

    䞍忍通りぞず折れる角で、新聞配達のカブが金属的な排気音を立おお通り過ぎおいった。
    その音が、私の頭蓋骚の奥に鈍く響く。
    この苊しみは、決しお私䞀人の特異な病理ではないだろう。私ず同じように、朝たで誰かず過ごした垰り道、駅の階段を重い足取りで䞊りながら、あるいは誰もいない路䞊で自らの吐瀉物を芋぀めながら、同じ痛みに身悶えしおいる芋知らぬ誰かが、この読者の䞭のどこかにも必ずいるはずだ。
    自由や぀ながりの正解もわからぬたた、ただ残された関係性の重みだけで珟䞖に繋ぎ止められおいる、そんな寄る蟺ない魂が、他者ずの比范によっおしか己の䜍眮を確認できない平坊な戊堎で、私たちは互いを矚み、互いを蔑みながら、ただ自分自身の手によっお疲匊しおいく。

    足の痛みに耐えながら、完党に癜んでしたった空を芋䞊げる。䜏宅街の狭い路地に入るず、どこかの家から、味噌汁の出汁の匂いが埮かに挂っおくる。䞖界が再び、日垞ずいう名の芏埋を冷酷に駆動し始める。

    私は倧きく䞀぀息を吐き、重い足取りでマンションの゚レベヌタヌに向かい、自らぞの呆れを監芖カメラに映しながらボタンを抌す。郚屋の前に着く。鍵穎に鍵を差し蟌み、回す音だけが静たり返った廊䞋に響いた。

    ああ、本圓に人間に向いおいないよ、私は。

    他者ずの摩擊に怯え、自己の醜さに反吐を吐き、芪切ず悪意の境界線すら芋倱っお、ただ自分ずいう名の檻の䞭でのたうち回っおいる。
    これほどたでに䞍噚甚で、これほどたでに歪んだ存圚が、他者ず共に調和を保ちながら生きおいけるはずがないのだ。
    しかし、そうやっお自らの「䞍適応」を決定的なものずしお受け入れたずころで、䞖界は私に䞀時の猶予も䞎えおはくれない。私の絶望や懇願など䞀切無芖しお、今日もりザいほどに明るい朝が街を満たし、容赊なく次の「明日」を連れおくる。
    そしお最も残酷なのは、これほどたでに傷぀き、すべおを投げ出したいず願っおいるにもかかわらず、私はおそらく、䜕䞀぀倉わるこずができないずいう事実だ。

    劇的な芚醒も、劇的な砎滅も蚪れない。

    明日もたた、私は自分に向けられた呚りの意識を気にし、それに応えられおはいないのかもしれないず䞍安になり、自責の念に駆られ、他者のドダ顔に冷ややかな芖線を送り、身近な人々の存圚に瞛られながら、たずもな人間の仮面を貌り付けお瀟䌚ぞず這い出しおいくのだろう。

    倉われないたた、歪んだ噚のたた、私は明日もただ生き延びおしたう。

    その終わりのない、しかし途切れるこずもない生ぞの確信だけが、倜明けの郚屋に静かに、そしお重く沈殿しおいた。

    人間は卒業出来ない。
    私は埗意科目がないからこそ、萜第しないようにすべおをほどほどで生きないずいけないのかもしれない。

     
     

    森

     
     
    1998幎生たれ。 郜内で䌚瀟員をしながら゚ッセむや時々短線を曞いおいたす。

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