鬼時間
午後六時。
山奥の小さな村では、鐘が鳴る。
――ゴォォン。
その音を聞いたら、誰も外に出てはいけない。
理由は簡単だ。
午後六時から七時まで。
その一時間だけ、この世には“鬼”が現れるから。
村人たちは、その時間をこう呼んだ。
鬼時間。
「絶対に窓を開けるな」
「名前を呼ばれても返事をするな」
「どんな声が聞こえても、家から出るな」
子どもたちは幼い頃から、そう教え込まれる。
高校二年生の蓮は、その言い伝えを信じていなかった。
観光客も来ない山村。
大人たちが子どもを怖がらせるための迷信。
そう思っていた。
夏休みのある日。
友人たちと肝試しをすることになる。
午後六時。
鐘が鳴った。
「今から外出てみようぜ」
誰も賛成しない。
だが、蓮だけは笑った。
「鬼なんているわけないだろ」
玄関を開ける。
村は、不自然なほど静かだった。
虫の声がない。
風もない。
空だけが、夕焼けとも夜とも違う、赤黒い色をしていた。
その時。
遠くから、子どもの笑い声が聞こえた。
ケラケラ。
ケラケラ。
見ると、田んぼの真ん中に、小さな男の子が立っている。
白い浴衣。
裸足。
背中を向けている。
「おい、こんな時間に何してるんだ?」
蓮が声をかけた瞬間。
男の子の首が、ゆっくり百八十度回った。
顔には、目も鼻もなかった。
ただ、耳まで裂けた口だけが笑っている。
「みーつけた」
次の瞬間。
村中の家の灯りが、一斉に消えた。
闇。
完全な闇。
そして、無数の足音。
ドン。
ドン。
ドン。
人間より大きな何かが、歩いている。
蓮は走った。
家へ。
必死に。
背後から、低い声が聞こえる。
「レン」
母親の声だった。
でも、母は家にいる。
教えを思い出す。
名前を呼ばれても、返事をするな。
「レン、助けて」
今度は亡くなった祖父の声。
涙が出そうになる。
それでも走る。
玄関へ飛び込み、扉を閉めた。
その瞬間。
ドン。
家全体が揺れた。
窓の向こうに、巨大な影が立っている。
二本の角。
異様に長い腕。
そして、無数の顔。
全部が笑っていた。
「ひとり、足りない」
ドン。
「ひとり、外にいる」
ドン。
「おまえを、待っている」
蓮は朝まで震え続けた。
翌朝。
七時になると、何事もなかったように村に鳥の声が戻った。
だが、田んぼには足跡が残っていた。
人間のものではない。
牛よりも大きな、裸足の足跡。
それ以来、蓮は二度と鬼時間を疑わなかった。
そして村では今でも、午後六時になると鐘が鳴る。
新しく越してきた人には、必ずこう伝える。
「一時間だけは、絶対に外へ出るな」
「鬼は、人を食べない」
「――代わりに、連れていくんだ」