
世界の端っこで、それでも生きていく
ここは、世界の中の端っこで、
誰からも見えないような場所。
世界との接点が、
少しずつ薄れていく感覚。
自分という存在が、世界に触れていない気がする。
さみしいような
むなしいような
孤独に包まれる。
わたしの心は、声は、世界と接続できているのかな。
誰かと同じ空気を共有できているのかな。
自分の感情や存在は
ちゃんとどこかに届いているのかな。
自分を自分の好きで満たしたい。
自然と、心が動くほうへと向かいたい。
自分軸でいたい。
そう、言うけれど、
わたしの生活は、
夜、人知れず仕事に行き、朝帰ってくる。
それ以外は、家という静かな繭の中にいるか、
そのすぐそばで少し顔を出すだけ。
そんなわたしに、何ができるって言うのだろうか。
「つながっていない」わけじゃないことはわかってる。
わたしには、
夫と可愛い柴犬という大切な家族がいる。
そこには愛があって居場所がある。
生活は日々ちゃんと回っていく。
仕事もしている。
外に出られなくても、
noteという世界でつながりの温かさも感じることができた。
わたしは、自分で選んで今の道を歩いている。
自分で選んで、この繭の中にいる。
それでもふいに、
もっと世界に触れてみたい、
わたしの声はちゃんと届いているのか、
存在は世界と接続しているのか、確かめたくなる。
でも、それでもわたしはこの場所で生きていく。
だって、自分で選んだ道だから。
ここにある愛や居場所を、この生活を、
否定したいんじゃない。
わたしは
自分で選んだ大切なものと、
その代わりに失ったもの。
その両方を同時に抱えている。
そのことに矛盾や葛藤を感じながら生きてきた。
でも、もしかしたら、
ふたつ同時に抱えて生きていいのかもしれない。
心のどこかで、そのふたつは、
同時にあってはいけないものだと思い込んでいた。
「これを選んだなら、さみしいと思っちゃいけない」
「幸せなら、不満を感じちゃいけない」
「大切なら、失ったものを見ちゃいけない」
そうやって、片方だけを
"正しい気持ち"にしようとしていた。
今の生活が、選んだ人生が間違ってるとかじゃない。
むしろ、大切に選んだからこそ、
感じるさみしさがあるのかもしれない。
そのさみしさを無理に消す必要もない。
だって「さみしい=今がダメ」ではないのだから。
世界に心を向けて、接続しようとしているからこそ、
孤独も感じるのだと思う。
今の生活が大切で、今の暮らしが好き。
自分で大切だと思ったから選んだこと。
その全部が本物で。
同時に、
世界から少し遠い感じがすること。
社会との距離やズレを感じること。
触れられなかった、見られなかった人生があることへのさみしさ。
これも、全部本物なのだから。
ふたつ同時に抱えて生きればいい。
何かを選んで生きるとは、その道だけじゃなく、
選択によって触れられなかったものへの気持ちも
一緒に抱えて生きることなのかもしれない。
だから、わたしはわたしなりに世界へ接続を続ける。
その時、さみしさや孤独を感じたとしても、
それが、わたしが世界で生きた証になるのかもしれない。
大事なのはその上で、
自分の感覚が生きてる実感を増やしていくこと。
繭の中にいても、
自分の感覚を通して世界とつながること。
正しいほうより
心が動くほうへ。
ただ生き延びるためじゃなく
感じながら生きる方向へ。
正解の人生を探すより
自分の感覚が生きてる人生へ。