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題名の事が何かご存知だろうか。
物理的には正しく、リスト(手首)をカット(切る)ということである。

ただこの一言には、何かと詰まっている。

自己憐憫、エゴイズム、哀愁、死生観、悲観、諦念、救済、欲求、陶酔、断罪、自厳他寛………

挙げだせばキリがない。
ここに詰まる想いは人により様々である。

私は10歳から始まったリストカットが、実に14年続いた。
後悔しているかと言われれば微妙な所ではある。
そこを拠り所として生きながらえて来た事実と、今はもう白く浮き出たその跡が消えない憂鬱に駆られるからだ。
ところが先日、この私の性が特大ブーメランとなって返って来た。
蛙の子は蛙とはよく言ったもので。
中3になる息子がリストカットをしていた。
左手首に真新しい赤々しさを纏うその傷痕に私は気付かないふりをした。
真意が分からないからだ。
人により様々な想いが乗るその行為は、経験者の私でも推し量れない。
どうすれば事態が重くならずに済むのか。
正直私は、児童心理士でも、精神科医でも、DAIGOでも止めさせることは無理なのではないかと思う。
勿論薬を用いたり、物理的なアプローチをすれば別だ。
けれど本人の痛みは本人にしか解決し得ない。
リストカットをして解決出来る事はない。
なぜなら悩みの事象に直接関与しないからだ。
その場の自分の気持ちを何とかは出来ても、根源を何とか出来るものではないのだ。
それは、繰り返してきた私が言うのだから恐らく間違いないだろう。

私のキッカケは母に気付いて欲しかったからだが、息子は違うかもしれない。
私は10歳、息子は15歳になろうとしている。

一過性のものであるなら、見守る事しか出来ないけれど、腫れ物に触るのはやはり人間苦手なものなんだなと思う。

今なら母が私に向けて言った
「それでこの子が死んでしまうなら仕方ない。」
という言葉が、更に私を追い詰める。

そんな事あってはならないのに、当時気付いていても何も言わなかった母に対し、分かる気もするという気持ちが覗く。

強く生きて欲しいけれど、私の子だ。
内省思考は遺伝だろうか?

そんな事を考えながら今日も淡々と家事をこなすしかない。
時間は無情にも平等に過ぎていく。
現代に生きる私達に平等に振り分けられているのは、時間のみだ。
使い道は自由。
鬱々と過ごすのも、楽しく過ごすのも、決めるのは自分なのだ。

私は今から葱を切る。
明日の為に。

#創作大賞2026 #エッセイ部門

 
 
冷やし中華始めましたみたいなノリでエッセイ始めました。 「かけ違えた糸」は、創作大賞用に圧縮したものです。 劇的な人生ではありません。 そこら辺に溢れる、ただただ泥臭く生き抜いた記録になります。 人生って、生きるって、そういう事なのでしょう。

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