
掌編小説『ベイサイドの夜』
深夜二時。
街の灯りは背後へ沈み、
フロントガラスの向こうには、黒い道だけが続いている。
ヘッドライトに照らされたアスファルトは、
どこか湿ったような光を返していた。
白いセンターラインが、一定の間隔で流れていく。
カタン、カタン。
その静かな規則が、
車の中の時間までゆっくりにしてしまう。
ラジオはつけていない。
タイヤが路面を撫でる低い音だけが、
車体の奥で小さく響いている。
ふと、窓を少しだけ開けた。
夜の空気が、細い隙間から車内に滑り込んでくる。
冷たい風が頬をなぞり、ハンドルを握る指先まで、すっと通り抜けていく。
海の匂いなのか、
少し磯臭い匂いが混じっていた。
昼間には気づかない、夜だけの匂いだ。
何の目的もなく、ただ湾岸高速道路を走らせている。
いつものことだ。
仕事、将来、休日、
私にはいつも目的がない。
サービスエリアの自動販売機で買った缶コーヒーが、
まだカップホルダーに残っている。
プルタブを指で起こすと、
小さく、金属の乾いた音がした。
口に含むと、
少しだけ焦げたような苦味と、
遅れてくる甘さが舌の上に広がる。
夜のコーヒーは、なぜか少し濃く感じる。
誰の目にとまることのない口紅が、
缶コーヒーの飲み口にわずかについた。
そのまま窓の外に目を向ける。
ガードレールの向こうには、工場地帯が見える。
私は工場の夜景が好きだ。
闇の中に、白い煙突が何本も立っていた。
昼間なら無骨に見えるはずの鉄の塔や配管が、
夜の光の中では、どこか静かな建造物のように見える。
オレンジ色の灯りが、低く広がっている。
それぞれの灯りは小さいのに、
集まると町のような明るさになる。
巨大なタンクが並び、丸い影を落としていた。
銀色の表面が、街灯をぼんやりと映している。
配管は空中を這うように走り、
ところどころで交差し、曲がり、また別の塔へと消えていく。
時々、遠くで機械が動く低い振動が伝わってくる。
高速道路の上にいても、その重たい音が夜の底で響いているのがわかる。
遠くの煙突から、白い蒸気がゆっくりと上がっていた。
風が弱いのか、その煙はほとんど形を崩さないまま、夜空へ伸びていく。
オレンジの灯りの上を、蒸気が静かに流れていく様子は、
まるでこの場所だけが、夜の中でゆっくり呼吸しているようだった。
この時間の高速道路は、不思議だ。
急ぐ理由が、どこにもない。
昼間は、皆どこかへ向かっている。
追いつこうとして、追い越そうとして、
理由のはっきりしない焦りを乗せて走っている。
けれど夜は違う。
ただ走っているだけでいい。
アクセルを少し緩める。
エンジンの振動が、
ハンドルを通して手のひらに伝わってくる。
その微かな震えが、
妙に生き物の鼓動のように感じられた。
遠くに、赤い光がひとつ見えた。
トラックのテールランプだ。
闇の中に、ぽつんと浮かんでいる。
完全な孤独より、
遠くに誰かがいるくらいが、ちょうどいい。
電子タバコを吸う。
暗闇の中に電子タバコのライトが少し青く光る。
白い煙は、夜空を覆う霧のようだ。
コーヒーをもう一口飲む。
窓から入る夜風が、
その苦味をゆっくり冷ましていった。
車は、静かに進み続ける。
深夜の高速道路は、
どこまでも、同じリズムで続いていた。
私はただ走る。
目的もなく。
いつ、
ウィンカーを出すのかを考えて。