
掌編小説『ブルーライトの輪郭』
ブルーライトの輪郭の中での出来事だ。
そう思いつつも、惹かれていく人がいる。
今日は、その人の誕生日だ。
SNSの自己紹介に書いてあった誕生日。
顔も知らない。
喋ったこともない。
知っているのは、画面の中に並んだ言葉だけだ。
SNSで「いいね」を押し合い、コメントでおちゃらける。それだけの関係。
最初にどちらからコメントしたのかは、もう覚えていない。
たぶん、どうでもいいことだった。
私が書いた記事に、その人が何かを書いたのかもしれないし、私がその人の記事にくだらないことを書いたのかもしれない。
気づけば、名前を見つけるようになっていた。
記事を投稿すると、少しだけ待つ。
通知が鳴る。
違う人。
また鳴る。
違う人。
その人のアイコンが表示されると、なぜか一度通知を閉じてから、もう一度開いた。
すぐに読むのが、少し恥ずかしかった。
誰に見られているわけでもないのに。
その人がほんとうはどんな人かなんて分からない。
想像上の人でしかない。
どんな顔で、どんなふうに笑い、どんな服が好きで、どんな声をしているんだろう。
背は高いのだろうか。
歩くのは速いのだろうか。
コーヒーはブラックだろうか。
朝は強いのか。
コンビニでは何を買うのか。
電話に出るとき、「もしもし」と言うのか。
考えればキリがない。
何も知らないから、何にでもなれる。
私の中には、無限のその人がいる。
四ヶ月ほど前から、そんなやり取りが続いている。
毎日ではない。
二、三日何もないこともある。
一週間くらい、お互いの記事に何も書かないこともあった。
そんなときは、少しだけ気になる。
忙しいのだろうか。
何かあったのだろうか。
SNSをやめたのだろうか。
そして数日後、いつものようにくだらないコメントが来る。
私は何もなかったように、くだらない返事をする。
「生きてたんですね」
「ギリギリです」
そんな二行で、少し安心する。
その安心に名前をつけるほど、私たちは近くない。
今日はその人の誕生日だった。
プロフィールに表示された日付を見て、私は数日前から知っていた。
別に覚えていたわけではない。
そういうことにしていた。
朝、スマホを開いたときにも日付を確認した。
昼にも一度、その人のページを開いた。
記事は更新されていなかった。
誕生日だからといって、何かが起こるわけでもない。
それなのに、私は何を書くかを考えていた。
いつもなら、もっと適当なことを書ける。
くだらない冗談も言える。
なのに「誕生日」という一日だけが、急に私たちの距離を見せてきた。
どこまで書いていいのか分からなかった。
夜。
ソファに座って、コメント欄を開く。
文字を打つ。
「お誕生日おめでとうございます!いつも楽しいコメントありがとうございます」
違う気がして消した。
もう一度打つ。
「お誕生日おめでとうございます。これからも仲良くしてください」
これも消した。
仲良く。
その言葉だけが画面に残った。
私たちは仲がいいのだろうか。
四ヶ月も言葉を交わしている。
でも、声を聞いたことすらない。
「仲良くしてください」の七文字が、急に重たく見えた。
全部消した。
スマホの画面を閉じる。
真っ黒になった液晶に、自分の顔がぼんやり映った。
部屋の照明と、少し疲れた顔。
その向こうに、相手の顔が映ることはない。
それが少しだけ寂しい。
もう一度画面をつける。
結局、ありきたりな言葉を書いた。
「お誕生日おめでとうございます。良い一年になりますように」
読み返す。
誰にでも送れる文章だった。
その人だから書いた言葉が、一つもない。
でも、それでいい気もした。
送信する。
たったそれだけだ。
なのに、なぜだか少し緊張した。
そのあと、風呂に入った。
髪を乾かして、冷蔵庫を開けた。
水を飲んだ。
テレビをつけた。
何をやっているのかよく分からないバラエティ番組が流れていた。
スマホはテーブルに伏せて置いた。
気にしていないふりをした。
二十分ほどして、手に取る。
通知はなかった。
また伏せる。
我ながら面倒くさい。
数時間後。
短い音が鳴った。
画面を見る。
その人のアイコンだった。
「ありがとうございます!」
その一文の後ろに、小さな笑顔の絵文字が付いていた。
私は思わず笑ってしまう。
それだけだった。
私が送った文章と同じくらい、ありきたりな返事。
でも、その人から来たというだけで、少し違って見えた。
笑顔の絵文字を眺める。
この絵文字の向こうで、本当に笑っているのだろうか。
それとも無表情で送ったのだろうか。
電車の中かもしれない。
ベッドに寝転んでいるのかもしれない。
誰かと誕生日を祝っている途中かもしれない。
ケーキを食べながら返事をしているのかもしれない。
恋人が隣にいるかもしれない。
最後の想像だけ、すぐに閉じた。
自分でも少し笑った。
何をしているんだろう。
私は、その人を知らない。
知っているのは、その人が書いた言葉だけだ。
好きな食べ物も知らない。
仕事も詳しく知らない。
どんな家に住んでいるのかも知らない。
今日、誰と過ごしたのかも知らない。
それなのに、文章の癖は少し知っている。
笑うときに使う文字。
照れたときにつける絵文字。
冗談に本気で返すときと、冗談で返すときの違い。
たぶん機嫌がいい日。
少し疲れていそうな日。
そんな、本当かどうかも分からないものだけを知っている。
顔を知っている友人より、その人が今日何を考えたかを知っている日さえある。
不思議な関係だと思う。
ふと考える。
私たちは人生で、何万人もの人とすれ違う。
駅のホーム。
コンビニ。
交差点。
エレベーター。
隣の車。
名前も知らず、声も聞かず、そのまま二度と会わない。
その中で、顔も知らない誰かと四ヶ月も言葉を交わしている。
それは案外、すごいことなのかもしれない。
会ったことはない。
それでも、確かに存在している。
朝になれば起きて、何かを食べて、どこかへ行く。
嫌なことがあれば落ち込んで、面白いことがあれば笑う。
私がスマホを閉じている時間にも、その人の人生は続いている。
当たり前のことなのに、時々それが不思議だった。
私にとっては、アイコンと文章しかない人。
けれど画面の向こうには、私の知らない一日がある。
逆に言えば、会ったことがないからこそ続いている関係もあるのだと思う。
もし会えば、思っていた人と違うかもしれない。
声が違うかもしれない。
話し方が違うかもしれない。
沈黙が多い人かもしれない。
目を見て話さない人かもしれない。
文章ではあんなに面白いのに、実際にはほとんど喋らないかもしれない。
私だって同じだ。
画面の中の私は、少しだけ出来がいい。
言葉を選べる。
書き直せる。
つまらないことを言えば消せる。
返事に困れば、少し時間を置ける。
現実の私は、そんなにうまくできていない。
だから、会いたいと思う。
そして、会いたくないとも思う。
ある夜、その人の記事を読んでいた。
最後まで読んで、「いいね」を押す。
いつもなら、それで閉じる。
その日はコメント欄まで開いた。
何かを書こうとして、やめた。
代わりに、その人のプロフィールを開いた。
そこには、知っている情報が少しだけ並んでいた。
何度も見たはずなのに、また見る。
画面を下へ滑らせる。
過去の記事。
過去のコメント。
そこにいるその人を、私は拾い集めている。
欠けた部分を、自分の想像で埋めながら。
一度だけ、メッセージを送ろうと思ったことがある。
コメント欄ではなく、二人だけの場所で。
「いつもありがとうございます」
そこまで打った。
そのあとに何を書くのか分からなかった。
いつか会ってみませんか。
そんな言葉が、一瞬だけ浮かんだ。
指が止まった。
送れば何かが変わる。
良い方かもしれない。
悪い方かもしれない。
ただ、今と同じではなくなる。
私は全部消して、画面を閉じた。
変わらないことを望んでいるのか。
変わることを怖がっているのか。
自分でも分からない。
窓の外を見る。
向かいのマンションの窓に、いくつか明かりがついている。
あの一つ一つに、知らない人の生活がある。
その人も今、どこかの窓の内側にいるのだろう。
同じ夜の中にいる。
距離は分からない。
もしかしたら電車で一時間かもしれない。
何百キロも離れているかもしれない。
それでも、スマホの中では指一本の距離にいる。
誕生日から数日後。
私が記事を投稿した。
しばらくして通知が鳴った。
その人だった。
いつも通り、くだらないコメントが書いてある。
誕生日のことには触れていなかった。
私も、いつも通り返した。
また返事が来る。
私が返す。
それで終わった。
何も変わらなかった。
少し安心した。
少し残念だった。
夜、ベッドの中でそのやり取りをもう一度見る。
四ヶ月前のコメントまで遡ってみる。
最初の頃は、お互いに少し丁寧だった。
敬語が多い。
絵文字も少ない。
少しずつ文章が短くなっている。
冗談が増えている。
いつから変わったのかは分からない。
境目はなかった。
人を好きになるのも、こういうものなのかもしれない。
昨日までは何でもなかったはずなのに、気づいたときには、その人からの通知だけ少し嬉しい。
どこからが恋なのか分からない。
そもそも、これを恋と呼んでいいのかも分からない。
私はスマホを胸の上に置いた。
画面が消える。
部屋が少し暗くなる。
会わなければ、この人はずっと無限のままだ。
優しい声にもできる。
少し低い声にもできる。
よく笑う人にもできる。
無口な人にもできる。
私の想像の中なら、どんな人にもなれる。
でも、ときどき思う。
無限じゃなくなってもいいから、一つだけ本当のその人を知りたい、と。
声だけでもいい。
笑った顔だけでもいい。
コーヒーを飲むとき、砂糖を入れるのかどうかだけでもいい。
そんな小さな現実を一つ知れば、想像の中にいる無数のその人は消えてしまうのだろうか。
それとも、ようやく一人の人になるのだろうか。
スマホが震えた。
反射的に画面を見る。
違う人からの通知だった。
私は少し笑って、スマホを伏せた。
真っ黒な画面に、また自分の顔が映る。
その向こうには、やっぱり誰もいない。
会いたい。
会いたくない。
知りたい。
知らないままでいたい。
どちらも嘘ではなかった。
ブルーライトの輪郭の中で、その人は今日も笑っている。
たぶん。
その「たぶん」が消える日が来るのかは、まだ分からない。
私はもう一度スマホを開く。
その人のアイコンの横に、緑色の小さな丸がついていた。
オンライン。
同じ時間のどこかで、その人も画面を見ている。
私はメッセージ欄を開いた。
白い入力欄にカーソルだけが点滅している。
一度、
「こんばんは」
と打った。
少し眺めてから、全部消した。
画面を閉じる。
暗くなった液晶の上に、指の跡だけが残っていた。