
他人の脳内は変えられない。変えるのは、無になるまでの自分の人生。
「今、私は幸せだ」
特別に給料が高いわけでもない。
仕事に命を懸けるようなやりがいを感じているわけでもない。
この先、老化とともに能力が落ちていくことへの不安がない訳じゃない。
それでも、私は今、確かに幸せの中にいる。
かつての私は、これとは真逆の場所にいた。
10代の頃、父親がいないというだけで「自分は周りと違う」と勝手に孤独を感じ、世界を斜めに見ていた。
20代になれば、社会というリングに上がり、能力を競うことに夢中になった。その年齢でここまでできるのかと褒められ、天狗になっていた。
30代。営業成績でトップとなり、その地位を下げないためにあの手この手で必死に仕事をこなした。
一方で、自分より優れた人が現れると、密かに戦力を緩めて「本気を出せばもっとやれた」という言い訳を自分に用意し、最後は会社を辞めた。
転職し、40代を迎えたとき、ようやく「処理能力では若い世代には勝てない」という現実を認められるようになった。
同世代の戦友たちも、今や競争に打ち勝つことではなく、ただモチベーションを維持することに必死だ。そこには、かつてのような火花散る戦いなどない。
そして50代の今。ようやく私は、穏やかな心で相手の気持ちを想像する力を手に入れた。
自分に向けられる批判も、理不尽なトラブルも、「立ち位置によって考えは違う。まあ、こんな時期もあるさ」と笑って受け流せるようになった。
その心境に至った時、幸福は静かに私の中に宿った。
気づいたのだ。幸せとは、外側からやってくるのではなく、自分の頭の中に元々あるものだということに。
周囲から見てどれほど過酷な状況であっても、その人が自分の脳内でオキシトシンを満たし、充足感を感じているのなら、それは紛れもない「幸福」である。
そもそも、人の幸福を他人が定義する必要はない。
そして、他人が誰かを「不幸だ」「可哀想だ」と思ったとしても、それを無理に変えようとする必要もない。
だって、心の中で何を思うかはその人の自由だし、他人がそれを止めることもできないのだから。
人生には限りがある。そのゴールを迎えた時、転生が待っているわけでも、どこかで幸せが精算されるわけでもない。死は、ただ「無」になるだけのことだ。
だからこれからの人生は、人からどう思われるかではなく、「自分がどうしたいか」を基準に歩んでいこうと思う。
無になるその瞬間まで、大切な人たちと共に大いに笑い、人生という時間を味わい尽くしたいではないか。