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小さな轍 最終話「帰路」

    弁当箱ひとつ

    長崎の朝は、雨だった。

    目が覚めたとき、最初に耳に入ってきたのは、窓ガラスを細かく叩く、粒のそろった雨の音だった。ザーッという大きな音ではない。無数の小さな指先が、透明な板をせっせとノックし続けているような、根気のいい音だ。私はベッドの中でしばらくそれを聞いていた。今日は降る。しかも、一日中きっちり降る。そういう雨音だった。

    カーテンを開けると、長崎の街は薄い灰色の膜の向こう側に沈んでいた。坂の上の家々の屋根は濡れて鈍く光り、電線には雨粒が数珠のように連なっている。傘をささずに早足で歩いていく男がひとり、コンビニ袋を頭の上に乗せて走っていく学生らしいのがひとり。まだ本降りの手前ではあるが、空の色はもう腹を決めていた。予報どおり、台風の影響で梅雨前線が活発になっているのだろう。北九州は荒れる、と昨夜の天気予報士が言っていた。

    一階の食堂へ下りると、テーブルの上に弁当箱が置いてあった。ビジネスホテルの朝食としては、拍子抜けするほど簡素な折り詰めだ。小さな焼き魚、卵焼きがひと切れ、きんぴらが少し、漬物、それに白飯。豪華でもなければ、旅情を煽るような土地の名物でもない。だが、今日の私にはちょうどよかった。朝から胃袋に余計な仕事をさせたくなかったし、こういう日は、弁当というものの無愛想さがむしろありがたかった。

    箸を割り、私は黙って食った。

    白飯を口に入れ、噛む。塩気のあるおかずを少し入れ、また噛む。窓の外では、細い雨が斜めに流れている。私は今日の行程を頭の中でなぞった。長崎の坂を下り、島原半島を抜け、朝倉市のご先祖ゆかりの寺へ寄り、それから新門司港へ向かう。下道でおよそ220キロ。数字だけなら大したことはない。しかし、雨の220キロは、晴れのそれとはまるで別物だ。視界が削られ、体温が奪われ、神経が細く長く引き伸ばされる。旅の最後の日にしては、なかなか気前のいい条件だった。

    けれど、悪くないとも思った。

    この旅は、最初からどこかそういうところがあった。快適でもなく、効率的でもなく、景色のいいところだけをつまみ食いするような旅でもなかった。冷凍のビビンパをフェリーの中で食い、徳島のラーメンの匂いに包まれ、吉野川の冷たい気配を鼻の奥に吸い込み、土佐の雨に打たれ、赤いモンキーに乗った同い年の男と話し、垂水で桜島を見上げ、熊本城の石垣の前で足を止めた。どの場面も、便利さとは少し離れたところにあった。そういうものだけが、なぜか体の奥に残る。

    食い終えて部屋へ戻ると、私はレインウェアを最初から着込んだ。今日はもう、脱いだり着たりを考える日ではない。ホテルの乾いた空気の中で着たところで、数分後にはどうせずぶ濡れになる。ダッフルバッグにレインカバーをかけ、バンジーコードを締め、ツーリングネットをかぶせる。この作業も、旅が進むにつれてだいぶ手つきがよくなった。最初は、どのフックをどこに掛ければ車体の左右の重さが均等になるのか、それだけでしばらく悩んだのに、今ではほとんど無意識で手が動く。人間というのは、必要に迫られると案外なんでも覚える。

    バッグを前後左右に揺すると、車体がぐっと沈み込むだけで、荷物はびくともしない。過積載のロバは、最後まで一度も荷を落とさなかった。私はその事実に、ほんの少しだけ胸を張りたくなった。誰に褒められるわけでもないが、そういう小さな達成だけで充分な年齢になっている。

    駐車場へ出ると、モンキーは昨夜の雨を全身にまとったまま、黙って立っていた。シートには水滴がたまり、タンクの青は濡れていっそう深い色になっている。キーを回し、セルを押す。パタパタパタ、という、あの少し間の抜けた、それでいて妙に頼もしい音が、雨の長崎の空気に広がった。

    いつもと同じ音だった。

    東京を出た日も、徳島港の朝も、大歩危の谷でも、垂水のホテルの駐車場でも、この音は変わらなかった。人間のほうは、暑かったり寒かったり、後悔したり感心したり、気分の波が忙しい。だが単気筒のエンジンは、こちらの事情など知らぬ顔で、いつも同じ拍子を刻んでくれる。その無愛想な誠実さに、私はこの何日か、ずいぶん助けられてきた。

    ギアを一速に入れ、クラッチをつなぐ。モンキーが、雨の坂をゆっくりと動き始めた。

    血の続く先で

    長崎の市街地を抜けるころには、雨脚がはっきり強くなっていた。

    路面は全面的に濡れて黒く光り、タイヤが拾い上げる水が細かい霧になって足元へ跳ね返ってくる。島原半島を北へ上がる道に入ると、空はさらに重たく沈み、遠くの山並みは裾のほうから白くぼやけて見えた。シールドを打つ雨粒の音が絶え間なく続く。パタパタという排気音と、雨粒がプラスチックを叩く細かい打音。その二つが混じり合って、今日は一日この伴奏で行くのだな、と私は思った。

    GoProは防水ハウジングに入れたが、音は捨てることにした。走りながら録音の具合を気にしたり、あとでどんな画が撮れているかを想像したりする余裕を、今日は最初から手放す。こういう日に必要なのは記録ではなく、ただ前を見ることだけだった。速度を落とし、車間を広げる。白線とマンホールと橋の継ぎ目に気をつける。山あいのカーブでは、濡れた落ち葉まで警戒する。雨の日の運転というのは、臆病なくらいでちょうどいい。

    朝倉市に差しかかったところで、私は国道を外れた。

    ご先祖ゆかりの寺、本證寺へ行くためである。幕末から明治維新後の混乱の中、秋月の乱に関わった先祖の縁の寺だと聞いている。詳しい系譜をそらんじられるわけではないし、自分が家というものに格別熱心な人間でもない。だが、この旅の終わりが近づくにつれ、寄っておきたいという気持ちがだんだん強くなっていた。どうせ九州まで来たのだ。わざわざ遠くまで走ってきて、最後にその場所を素通りするのは、どうも筋が悪い気がした。

    山門の前にモンキーを停める。エンジンを切ると、世界が急に静かになった。いや、静かというより、雨の音だけが前面に出てきた、と言うほうが近い。屋根、木の葉、石畳、土、あらゆるものに降る雨が、それぞれ違う音を出している。レインウェアのフードをかぶり直し、境内へ歩いて入る。石畳には青い苔が広がり、水を含んで深い色をしていた。濡れた木の匂いがする。古い寺には、どこも少し似た匂いがある。水と木と時間が混ざった匂いだ。

    境内には誰もいなかった。

    線香をあげ、手を合わせる。目を閉じると、砂利の感触と、しんとした冷たさと、雨の音だけが残る。こういうとき、人は何を祈ればいいのだろうと、私はいつも少し迷う。家内安全や無病息災を念じる年齢ではある。子どもたちのことを考えれば、そちらのほうが真っ当だろう。しかしその一方で、私は今日ここへ、何かをお願いしに来たというより、むしろ報告に来たような気もしていた。

    遠いところまで走ってきました。いろいろありましたが、どうにかここまで来ました。

    こうして手を合わせていると、その中にこそ本音がある気もしてくる。何か大きな意味や啓示が欲しいわけではない。自分の血の中にあるかもしれない遠い誰かの時間、その端っこに今の自分が立っていて、バイクで走ってきた数日がそこへつながっている。そう感じられれば、それで足りた。

    顔を上げると、本堂の屋根から雨粒が糸のように落ちていた。

    私は五十を前にした男で、会社へ通い、家でトーストをかじり、息子たちの気配が少しずつ家の中から薄くなっていくのを見ている。その私が今、過積載の小さなバイクで九州を走り、この寺の軒先に立っている。父にも父の時間があり、その前の誰かにもまたそれぞれの時間があった。自分だけが突然ここへ現れたわけではない。そう思うと、いま抱えている疲労や後悔やささやかな誇りまで含めて、全部がひどく人間的なものに思えてきた。

    雨の中へ戻り、私はモンキーにまたがる。シートに腰を下ろした瞬間、濡れたクッションの冷たさが尻から腰へすっと伝わってきた。現実はいつもこうやって、考え事の尻尾をばっさり切って前へ進ませる。

    豪雨

    北九州へ近づくにつれて、雨は本気を出し始めた。

    最初は、少し粒が大きくなったな、という程度だった。それがほどなくして、空の底が抜けたような降り方になった。シールドの前が一瞬で白く煙る。前を走る車のテールランプがにじみ、輪郭がほどけ、赤い絵の具を水で薄めたように見える。右手の甲でシールドをぬぐっても、二秒後にはまた水の膜が張る。路面にはところどころ薄く水がたまり、タイヤがそこを横切るたびに、ハンドルへわずかな浮力が返ってきた。

    怖かった。

    こういうとき、無理に格好をつけても意味がない。本当に怖かった。125㏄の小さなバイクでも、滑るときは滑る。相手が大型トラックだろうが乗用車だろうが、こちらが濡れた路面で転べば、それで終わる。速度を落とし、車間を広げ、ブレーキは早めにやさしく当てる。カーブではバンク角を欲張らない。わかっていることを、ひとつずつ丁寧にやるしかなかった。

    だが、止まる場所がなかなか見つからなかった。

    こういう日に限って、ちょうどいい軒下も、広いコンビニも、ゆっくり呼吸を整えられるようなスタンドも、都合よく現れない。景色は全部、雨のカーテンの向こうで平板に流れていく。私は走り続けるしかなかった。全身がもう、濡れるとか濡れないとかいう段階ではなくなっている。レインウェアの隙間から入った水がパーカーまで達し、グローブの中では指先がふやけていた。靴下もたぶん終わっている。それでも、手だけは勝手に動いた。ブレーキレバーを握り、アクセルを戻し、クラッチをつなぐ。身体のどこかが参っていても、操作の部分だけは妙にしぶとく残る。

    走りながら、私は土佐の雨のことを思い出した。

    あのときもずぶ濡れになった。シールドを叩く大粒の雨と、濡れたブロックタイヤの頼りなさと、山の緑の異様な濃さ。あのときはまだ旅の途中で、どこか戦うような気持ちがあった。雨ごときに負けるものか、という、少し若い意地に似た感情である。しかし今の私は、もう少し違うところにいる。今日の雨を敵だとは思っていなかった。もちろん好きなわけでもないし、ありがたくもない。だが、これもこの旅の一部なのだと、体のほうが先に理解している。抵抗する気持ちが減ると、かえって集中は澄んでくる。

    不思議なものだった。

    人間は、受け入れた途端に強くなる、ということがある。いや、強くなるというより、余計な力が抜ける。雨を止ませることはできない。道路の傾斜も、対向車の水しぶきも、こちらの都合では変えられない。変えられないものに対して腹を立てるのをやめると、そのぶんだけ、自分の手元に残された小さな判断へ神経を注げるようになる。ブレーキを握る強さ。ライン取り。休むべきかどうか。そういうごく小さいことの連続で、人は意外と遠くまで行ける。

    新門司港の案内標識が見えたとき、胸のあたりで何かが少しだけほどけた。

    だが安堵はまだ早い。最後まで、最後まで気を抜くなと私は自分に言い聞かせた。旅というのは、着く直前にいちばん気が緩む。しかも雨の日だ。今日ばかりは、港に着いてサイドスタンドを出すまでが走行だと思わなければならなかった。

    鉄の腹へ

    ターミナルに着いてエンジンを切ると、金属の冷えていくチリチリという音が、雨音に混じって聞こえた。

    両足を地面についた瞬間、膝がわずかに震えた。長い時間、緊張を切らさずに走っていたせいで、力の抜き方を体が忘れている。ハンドルに両手を置いたまま、私はしばらく立っていた。雨粒がアスファルトで弾ける。濡れた車体から、うっすらと熱の匂いが上がっている。モンキーのフロントフォークも、マフラーも、チェーンも、泥と雨と火山灰と道路の汚れをまんべんなく身にまとっていた。こちらも同じような顔をしているのだろうと、私は思った。

    全身ずぶ濡れのまま、フェリーターミナルへ歩く。

    今夜乗るのはフェリー四万十である。徳島を経由して東京へ戻る船だ。乗船が始まり、私はモンキーを押してランプウェイを上った。濡れた鉄板の感触がブーツの裏に伝わる。車両甲板へ入ると、船員が手際よく誘導し、タイダウンベルトをかけていく。ラチェットがバチバチと鳴り、ベルトが締まるたびにフロントサスペンションが沈み込む。ついさっきまで雨の国道を走っていた過積載のロバが、今度は鉄の床にきっちり縛りつけられる。

    「よく走ったな」

    私は小声で言った。エンジンも、チェーンも、泥だらけのスイングアームも、無言で旅程を語っていた。

    客室に上がり、ベッドに腰を下ろしたところで、ようやく本当に終わった感じがした。ジャケットを脱ぎ、レインウェアを脱ぎ、グローブを脱ぐ。フリースまで湿っている。濡れたものを脱いでいくと、旅そのものを一枚ずつはがしていくような気分になる。シャワー室へ行き、熱い湯を浴びた。首筋、肩、腰、太腿にお湯が当たるたび、そこに溜まっていた疲労がほどけていく。排水口へ流れていく水は灰色がかっていた。道路の泥と、雨と、汗の色だ。

    鏡を見ると、ヘルメットで隠れていた目のまわりだけが白く、あとは陽に焼けていた。四国と九州の五月の光が、しっかり顔に残っている。こういう日焼けは、若いころならすぐ戻ったのだろうが、今はしばらく残るだろう。それもまた、この旅の証拠のひとつだった。

    ベッドに横になると、船がゆっくり港を離れていく振動が床から伝わってきた。ディーゼルエンジンの低い重みが、腹の底へ響いてくる。パタパタパタという単気筒の音とは全然違うのに、どこかでつながっている感じがした。どちらも人を運ぶ音であり、どちらもこちらの気分に構わず前へ進む音だった。

    うどんの湯気

    夕飯を買いに、自販機コーナーへ向かった。

    こういう場所へ来ると、旅の初日に食った冷凍ビビンパのことを思い出す。あのときの私はまだ、これから先に何が待っているのかよくわからないまま、甲板の潮風と自販機の味気なさのあいだを行ったり来たりしていた。今夜はうどんにした。温かい出汁をひと口すすると、腹の奥がようやく人間のものに戻ってくる。特別うまいわけではない。むしろ、どこにでもある、少し甘めの出汁である。だが、何時間も雨の中を走ったあとの身体には、そういう普通の味がいちばん効いた。

    窓際の席に座り、私は黒い海を見た。

    この旅で、いくつもの海を見てきた。夜の太平洋は、光をほとんど返さない漆黒の面だった。宇和海は青みを帯びた深い緑で、島影がやわらかく重なっていた。有明海は茶色く濁り、潮の匂いもどこか土に近かった。錦江湾の向こうには桜島がいて、海の上に巨大な火山の気配が立っていた。日向灘は遠く、まっすぐで、見ているとこちらの輪郭まで薄くしてしまいそうな広さがあった。

    今夜の海には、ただ黒だけがある。

    船の窓に自分の顔がうっすら映る。疲れた四十代後半の男の顔だ。だが、その疲れた顔に、私は前ほど悪い感情を持たなくなっている。若いころのように、何者かになり損ねた顔だとは思わない。会社へ行き、子どもを育て、たまに後悔を引きずり、しかしこうしてバイクで遠くまで来られる顔。そんなものだ。そんなものとして、まあよくやっているではないかと、私は思った。

    ベッドへ戻り、揺れの少ない夜の中で眠った。

    洗濯機

    翌朝、船が徳島へ寄港するころ、私は洗濯室にいた。

    何日分もの汗と雨を吸った衣類を洗濯機へ突っ込み、硬貨を入れる。回り始めたドラムの中で、Tシャツや靴下やインナーが、ぐるぐると旅の順番を失っていく。東京を出た日、吉野川沿いを走った日、宮崎の強い陽射しを浴びた日、長崎で雨に打たれた日。その全部が、濡れた布の中にいったん溶けて混ざる。

    洗濯が終わり、今度は乾燥機へ移す。熱風でふくらんでいく衣類の匂いを嗅いでいると、家の洗面所の匂いを少し思い出した。日常というものは、案外こういうところから先に戻ってくる。風景でもなく、感動的な再会でもなく、乾いた洗濯物の匂いからである。

    窓の外には徳島の空が見えた。ここも雨模様だった。

    モンキーも洗ってやらなければならない。帰ったら、きちんと泥を落とし、チェーンを見て、オイルの具合も確かめよう。旅の間じゅう、ひどい使い方をしてきた。とくに最後の雨はきつかった。だが、それを全部含めて機械と付き合うのが、自分で走るということなのだろうと、私は思った。壊さず乗るだけなら人任せでもいい。しかし、自分で汚し、自分で手を入れ、自分でまた走り出す。そういう循環があると、機械はただの道具ではなくなる。

    橙色の水平線

    翌朝、午前五時になる前に目が覚めた。

    着替えを済ませ、荷物をまとめ、展望デッキへ出る。東の空がゆっくり明るみはじめていた。水平線のあたりに薄い橙色がにじみ、その上に灰色と青の層が重なっている。東京湾の水面は静かで、外洋の海のような大きなうねりはない。工場の煙突が遠くに並び、その向こうにビル群の影が立っていた。

    私は手すりに両手を置いて、その景色を見た。

    毎日この近くで暮らしているのに、こんなふうに東京湾の朝を見たことがなかった。見慣れているはずの場所が、旅をひと回りして戻ってきた身体にはまるで別のものに見える。宇和海とも、錦江湾とも、有明海とも違う。幅は狭く、陸に挟まれた内海で、どこか人間の都合が染み込んだ海だ。それでも今朝の光は確かに美しかった。見慣れたものが見慣れぬ顔をする、あの感じである。

    帰ってきた、と私は思った。

    その実感は、歓声のようには来ない。じわじわと、湿気が布へ染みていくみたいに体に入ってくる。私はこの何日か、ずっと海と道路と機械の音のそばにいた。そこで見たもの、会った人、食ったもの、濡れた雨、乾いた風、その全部を持ったまま、またこの場所へ戻ってきたのである。

    後でオドメーターを見ると、1330キロだった。

    その数字の中には、ただの距離以上のものが詰まっている。土佐の雨も、宮崎で出会った同い年の赤いモンキーも、垂水の朝の桜島も、熊本城の石垣も、長崎の坂も、本證寺の雨の境内も、全部そこへ入っている。数字にするとたった四桁だが、その中身はずいぶん重たかった。

    車両甲板へ下り、ベルトを外されるモンキーの前に立つ。ラチェットが逆方向に鳴り、沈み込んでいたフロントフォークがふわりと戻る。その動きが、まるで長いあいだ息を止めていたものがようやく肺を広げるように見えた。

    キーを回す。セルを押す。パタパタパタ、という音が、東京の朝の空気に響く。

    旅のあいだじゅう、この音は変わらなかった。変わったのは私のほうである。いや、劇的に何かが変わったわけではない。人間はそんな簡単に生まれ変わらない。ただ、自分が何を面倒だと思い、何を手放したくなくて、何を後悔として持ち歩いてきて、何に救われるのか、その輪郭が前より少しはっきりした気はした。

    ランプウェイを下り、タイヤが東京のアスファルトを踏む。

    その瞬間、旅は終わったのではなく、別の形に変わったのだと、私は思った。

    麦茶

    港から家までの道は、拍子抜けするほどいつもの東京だった。

    トラックが走り、通勤の車が信号で詰まり、歩道橋の下にはコンビニの看板がある。九州の雨の国道や、四国の谷沿いの道に比べれば、なんということのない景色だ。それでも、旅の帰りの東京には独特の薄さがある。すべてが近すぎるのだ。次の信号も、次のコンビニも、次の曲がり角も。遠くへ行くことに慣れた体には、その近さが少し不思議だった。

    家の近くまで来ると、急に腹が減った。

    そういえば、朝は船の中で簡単に済ませただけだった。だが私は寄り道をしなかった。今日はもう、どこかへ立ち寄って旅の余韻を引き延ばす日ではない。帰ると決めたら、帰る。モンキーをいつもの場所へ停め、エンジンを切る。静かになった庭先に、しばらく排気の匂いだけが残った。

    玄関を開けると、家の匂いがした。

    靴箱の木の匂い、洗剤の匂い、台所の奥に残った昨夜の食事の気配。土間には、次男のスニーカーが左右バラバラに放り出されている。旅の埃を軽く払い、私は家の中へ入った。 階段を見上げれば、長男の部屋のドアは閉ざされたまま、しんとしている。まだ夢の中なのだろう。

    「ただいま」

    誰もいない廊下に、私はそう言った。

    それで充分だった。

    冷たい麦茶を一杯飲む。家のコップで飲む麦茶は、旅先の自販機の缶コーヒーよりずっと普通で、だからこそ妙にうまかった。旅の間、缶コーヒーや自販機のうどん、コンビニのおにぎりばかり口にしてきた体に、家の麦茶の何気ない味は、思いのほか深く染みた。

    しばらくして上の息子が起きてきて、眠そうな顔で冷蔵庫を開けた。私が四国、九州をバイク旅してきたことは知っているが、そのことについて特別な感想を求めてくるわけでもない。牛乳を出し、パンを焼き、スマホを見ている。親と子というのは、同じ屋根の下で暮らしながら、だんだん別の生き物になっていく。けれど、こういう朝の風景があるうちは、それでいいのだろうと、私は思った。

    「雨、すごかった?」

    と次男が聞いた。

    「最後の日がいちばんひどかった」

    と私は言った。

    それだけで会話は終わった。だが、その短いやりとりの中に、なんとなく家へ戻ってきた感じがあった。旅の話を延々と説明しなくても、聞かれた分だけ答えればいい。必要な工具だけ黙って渡すのと同じで、家族の距離というのはそのくらいがちょうどいいのだろうと、私は思った。

    ホースの水

    昼近くになって、雨が少し弱まった。

    私は庭へ出て、ホースを引っ張り出した。モンキーを洗うためである。旅から帰ったらきちんと洗ってやろうと、フェリーの洗濯室で思ったことを実行する。ホースの水をかけると、フェンダーやスイングアームにこびりついていた泥が筋になって流れ落ちる。火山灰の細かな粒も、長崎の道路で跳ねた黒い汚れも、少しずつ洗われていく。

    スポンジでタンクを撫でながら、私はふと父のことを思い出した。小雨の日に車を磨いていた、あの無口な背中である。子どものころは、晴れた日にやればいいのに、としか思わなかった。だが今はわかる。機械をきれいにするというのは、単に汚れを落とす作業ではない。手をかけた時間を、自分の中へもう一度きちんと納め直す作業なのだ。楽しかったことも、しんどかったことも、腹が減ったことも、怖かったことも、全部いったん水で洗い流し、それでもなお残るものだけを手元に置く。

    チェーンを拭き、軽く注油する。エンジンまわりの水気を飛ばし、最後に乾いた布で全体を拭き上げる。青いタンクが、曇った空の下で静かに光った。過積載のロバは、またもとの小さな青いバイクに戻りつつある。だが私は知っている。もうこいつは、旅の前のただのモンキーではない。私にとってはもちろん、たぶん機械の側にとってもそうだ。そんなことを言えば笑われるかもしれないが、長く連れ添った道具には、少しだけ人格のようなものが宿る。

    冬のあいだずっと頭の片隅にあった旅は、こうして終わった。

    会社で有給を申請し、フェリーを押さえ、ルートを考え直し、春になったら遠くへ行こうと思っていた。実際に行ってきた。雨に打たれ、荷崩れを直し、見知らぬ人に声をかけられ、各地の飯を食い、桜島を眺め、石垣に手を当て、先祖の寺で手を合わせ、嵐の中を走り切った。その全部が、今、洗ったばかりの車体のどこかにまだ残っているような気がした。

    夕方、雲が少し切れて、薄い光が庭へ差した。

    私は濡れた雑巾を絞り、モンキーのシートを最後にもう一度だけ拭いた。パタパタパタ、というあの音は今は鳴っていない。静かなまま、青い車体はスタンドの上で傾いている。だが、また走り出すだろう。遠くへ行くかどうかは、まだわからない。すぐには行かないかもしれない。会社もあるし、家の用事もあるし、次の季節は次の忙しさを連れてくる。

    道は消えない。

    自分のためだけの時間が、人生から完全に失われたわけではないということ。小さなバイクでも、遠くまで行けるということ。人は五十を前にしても、いや、五十を前にしたからこそ、まだ少しだけ変われるということ。

    家の中から、子供たちの声が聞こえた。階段をどっちかが上り下りする気配もする。私はモンキーから一歩離れて、全体を眺めた。

    小さな轍は、たしかにここまで続いていたのである。

    (了)


    あとがき

    2023年5月末、四国・九州の旅1330キロ。振り返ってみると、よく走ったなというのが一番の感想です。

    この長距離ツーリングは、以前からずっとやりたいと思っていたことでした。125ccの小さなバイクに野宿の道具を積んで、フェリーを乗り継ぎながら、自分の知らない土地をひたすら走ってみる。今回それを、思っていたより早いタイミングで実行することができました。仕事の休みと、家のこととの折り合いがうまくついた、それだけの巡り合わせです。

    四国では雨に打たれ、九州では桜島の噴煙を眺め、熊本城の復興の展示に足が止まりました。宮崎のコンビニの駐車場で出会った、同い年の赤いモンキーに乗る方のこと。長崎の坂の多い街並み。朝倉のご先祖ゆかりの寺で手を合わせたこと。どれも、この旅でなければ経験できなかったことです。

    そして何より、あちこちで声をかけていただいたことが、本当にありがたかった。バイクに乗っていると、こういう機会が時々あります。それが、一人で走る旅の中では、ものすごく嬉しいものなんですよね。

    モンキーは今回、本当によく頑張ってくれました。海沿いも、川沿いも、山の中も、峠も走って、最後はドロドロに汚れましたが、それだけ走ってくれたということです。帰ってからきちんと洗って、チェーンも整備して、また次に乗れるようにしてやろうと思っています。

    もし次にこのくらいの休みが取れることがあれば、今度は四国だけ、あるいは九州だけをもっとゆっくり巡ってみたいなと思っています。今回は「遠くへ、遠くへ」という気持ちが先に立って、欲張って四国から九州まで一気に走りましたが、それもまた今の自分にはちょうどよかったのかもしれません。

    この「小さな轍」という物語は、今回で一区切りとなります。長い間お付き合いくださった読者の皆様に、心から感謝します。

    またどこかの道で、この続きを書けたらいいなと思っています。

    まろっしゅ


    <筆者について>
    四十代後半。息子がふたりいる。長男は今春から大学生、次男はまだ高校二年生だ。三十四歳のときに中型免許を取ったが、仕事と子育てに追われているうちに長い時間が過ぎた。子どもたちが少しずつ自分の足で立ち始めて、ようやく自分のための時間というものが戻ってきた。そのころ、モンキー125と出会った。

     
     
    アラフィフのバイク乗り、まろっしゅです。34歳で免許取得後、仕事と子育ての日々を経て、モンキー125との出会いが人生に新たな喜びをもたらしました。ツーリングや整備、カスタマイズの日々を気軽に、そして等身大にお届けします。バイク人生、楽しんでいきます!

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