
ソールが剥がれた。30分、歩いた。
スニーカーのソールが剥がれたのは、マクドナルドを出る直前でした——。
まとまった時間ができたら、よくマクドナルドまで散歩しています。
昨日も午前中は結構な雨でしたが、30分歩いて近所(?)のマクドナルドに行きました。
コーヒーを飲みながらしばらく仕事して、雨が上がった後。
窓から見える木に鳥が巣をつくっているのを見つけ、ほっこりしてから「さて帰ろうか」と立ち上がる。
すると、なんだろう。
なんだか歩きにくい。
足元を見れば、まあ大変。
右足のスニーカーの靴底、前半分が剥がれているではないですか。
それもそのはず。
「雨だからどうでもいい靴を」と、10年以上履き潰したスニーカーを久しぶりに引っ張り出し、数時間湿ったまま履いていたのだから、糊も剥がれて当然です。
どうする私。
なんとみっともない。
恥ずかしすぎる。
雨に日にはよく店先にあるビニール製の傘袋をつま先に巻き、ソールを靴に固定。
なんとか歩き出す。
恥ずかしい。
恥ずかしすぎる。
このまま30分歩くのか。
つらい。
つらすぎる。
つま先側半分が剥がれていたので、かかとを重点に歩いていく。
結構いい感じじゃないか。
なんとか歩ける。
透明だから、靴の見た目も損ないません。
たまに傘袋がずれるのは厄介だが、「傘袋を巻くのはかなりのライフハックなんじゃないか」と感動したくらいです。
が、その喜びも束の間。
かかとで着地し続けたのが仇となり、ソールが全部剥がれてしまったではありませんか。
剥がれたソールと傘袋をひろい、通りすがる人にバレないようにビクビクしながら歩きます。
恥ずかしい。
でも、案外靴の見た目は変わらない。
高さが左右ちょっと違うくらい。
「この程度、前から来る人にはわからないはずだ」と自分に言い聞かせながら歩き続けます。
右足を庇いながら左足を軸に歩いていると、なんということでしょう。
左足も半分剥がれたではありませんか。
恥ずかしい。
恥ずかしすぎる。
歩きにくい。
もういやだ。
「全部取ってしまおう」
立ち止まり、近くにいる人が通りすぎるのを待った後、道の脇で左足を上げ、グッと力を込めて、ソールを引き剥がす。
すると、拍子抜けするくらいあっけなくソールが剥がれました。
そして、なんということでしょう。
左右の高低差がなくなり、歩きやすいではありませんか。
そのとき、ある言葉が頭に浮かびます。
「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ」
なるほど。
「右足のソールが外れたら、左足のソールも引き剥がせ」
これが人生の教訓やもしれません。
ところが、両足のソールがなくなってスッキリしたのも束の間、あることに気づきます。
とにかくスピードが出ないのです。
普段私は早歩きで人を追い抜いてばかりなのに、今日は追い抜かれるばかり。
特に坂道で力が出ないのです。
ソールがないとはいえ、布でしっかり足裏は覆われています。
足首がふらついたり、どこかを庇って歩いている感じはありません。
でも、進まない。
コンクリートの砂利が足裏にひっついてくるのも原因なようです。
歩く音は、スパイクシューズでコンクリートを歩いているように、ジャリジャリと言っている。
いつの間にか恥ずかしさはどこかへ行き、「なぜ進めないのか」の分析に移っている自分がいました。
普通に歩くだけでも私たちは、前にするもうと踏み込み、蹴り上げている。
そう、地面を蹴る、捉えることが重要なのだ。
だから歩幅が生まれ、前に進める。
踏み込みがなければ、歩幅は縮まる。
ソールとは、地面を捉えるためにある。
前に進むには、踏み込みがいる——靴の話だけじゃなく、たぶん、何事も。