【小説】伏見もなかの日常 第9話〜親父の話〜
第9話 親父の話
母が入院するようになってから、親父も少しだけ変わった……ような気がした。
何が変わったって、仕事が終わるとすぐに家に帰ってくるようになったんだ。相変わらずお酒は飲むけれど親父は怒鳴らない。親父っていう人は子供たちに対してあまり怒鳴らないから。
ただ機嫌よく酒を飲んで、そのままぐっすり寝るだけだった。
だけど「家事がちゃんと回っている」っていう当たり前のことが、どれだけすごいことだったのか。そんなの私や妹はもちろん、親父だって分かっていなかったんだ。
母がいなくなって三日くらいが過ぎると、まず着る服がどんどんなくなっていった。かわりに、家の中にコバエがやたらと増え始めた。
洗濯機の横にあるカゴの中身は、気付けば洗って片付けられているものだと思い込んでいたけれど、いつまで経ってもまったく減らない。ゴミ袋はすぐにパンパンになって、あふれそうになっていた。
私も妹も家事なんてさっぱり分からない。当たり前だ。朝起きると服があってご飯があって。それが普通だと思っていたガキだったんだから。そして朝早くからお店の仕込みに出かける親父は、そもそもゴミ出しの時間には家にいない。家の中はみるみるうちにぐちゃぐちゃになっていった。
そんな四日目のこと。
急にお母さんのお母さん。つまり私のおばあちゃんが家にやってきた。突然だったからびっくりしたけれど、私はおばあちゃんが大好きだったから、すごく嬉しかったのは覚えている。
おばあちゃんは家にやってくると、すぐに洗濯をして掃除をしてくれた。
しかも、家からおばあちゃんの家までは片道で一時間以上もかかるのに、おばあちゃんは「三輪車」……後ろにでっかい籠がついててタイヤが全部で3つついてる変なやつ。
それに乗って通ってきてくれたんだ。よく後ろの籠に乗って妹と遊んでいたのをよく覚えている。
そんなことは今はどうでも良くて。
あとから聞いた話だと、どうせ親父は家のことやらないし、私たち子供だってできない。つまり家の中はとんでもないことになっているだろうと思った母が、入院先からこっそり連絡を入れてくれていたらしいんだけどね。
それも退院した後に結局やらさせるのは自分だからストレスなんだという自分を守るための行動なんだろうけど。
おかげで家の中はかなり人間が住めるようになっていった。私も妹もおばあちゃんの見様見真似で食器を洗ったりゴミ捨て場の使い方を教わったり。一生懸命頑張っていた。
あまり出来はよくなかったんだけど。
その頃の私は、母の入院している病院に毎日通っていた。学校が終わるとランドセルを背負ったまま、まっすぐ病院へ向かうのが日課になっていたのだ。
病院のベッドにいる母は、いつもものすごく幸せそうだった。家にいたときよりもずっと顔色が良かったし、いつも眠そうにしていたのに、なんだか元気そうに見えた。腰の痛みも酷くなさそうですっかり自由に生活してた。
思えば母という人は、家ではいつも夜中遅くまで起きていて、朝は朝で三時とかに起きて朝ごはんや色んな支度をしてくれていた。そのあと自分もお仕事に出かけるんだから、私から見ると本当にものすごくパワフルな人だった。
そんな母は、あの病院という場所にいるときだけ人生で一番ってくらいに規則正しい生活を送っていたみたいだった。
そんな時間が、ずっと続くと思っていた。母も私も。親父は親父で私たちにいい親父像を見せようと頑張ってたし、まぁ本当にそれなりに家族をしてたとおもう。
母だけはそう思っていたはずなんだ。あの日の夕方、私が血だらけになって母の病室に駆け込むその瞬間までは。

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