
Ink & Echo |短編『馬車と星』
太陽が昇って、沈んで、それから月が昇るように。分厚い氷もやがては溶けて、海へと流れ出るように。世の中には、決して破られることのない決まりごとがある。いわば世界の約束のようなもの。
同じようにわたしにも、決して破ることのできない約束があった。
それは古代ギリシャが、いつも太陽の(つまり天を駆けるヘリオスの馬車の)ひかりの中にあったように、わたしの日々を照らし続けてくれた、あの人との約束だった。
いつもの青い色をした陶器製のジャーから、クッキーを一枚取り出して齧る。大粒のチョコレートパールが入っていて生地にはシナモンの効いたわたしの大好きなクッキー。ポロポロと崩れた生地のかけらが、わたしの黒いドレスにこぼれて、夜の空にきらめく星屑のように見えた。
"またそんなにドレスを汚して。まったく君はしょうがない子だね"
いかにも教授らしい知性のいっぱいに詰まった銀縁眼鏡の向こうで、あの人のヘーゼルの瞳がやわらかく細められたのを思い出して、あわててミルクを飲み下せば、口の周りが少し濡れてヒゲが作られたのが分かった。
まるで滲んでしまってどうしようもないんだ、と弁明するみたいに愛情たっぷりにくすくすと笑うあの人の声を思い出したく無くて、わたしは強く頭を振って記憶を追い出してから、バスケットを掴むと小さなステンドグラスの嵌め込まれたドアを潜って、中庭へと出た。
夕食のために、蕪とにんじん、それからいくつかの漿果とクレソンを摘んで籠に放り込んでから、おおきなブナの木の下に腰を下ろす。今晩の献立はクリームシチューとベリーのサラダにしようと考えているそばから、あの人の言葉が頭の中によみがえる。
"僕がいなくなったあとも、君には笑って生きていてほしいんだ。約束できるかい?"
太陽のひかりが降り注ぐ木曜日の午後、あの人は遠いところへと旅立って行った。旅立つ前の一ヶ月間、あの人が繰り返しわたしに言った約束の言葉に、わたしは毎回律儀に誓っていた。
「約束するわ。いつかあなたのいない日々を過ごす時、涙をこぼしたりなんかしないこと」
"その言葉がどれだけ僕にとって素晴らしいものか、君に少しでも伝わっていたらいいんだけど。僕は、初めて出会ったあの日のような君の笑った顔が好きだから。"
あの人はそう言って心底安心したように笑った。安心なんかさせなければよかった。そうすれば、あの人はまだそばに居たかもしれない。
その時、ふわりと夕方の丘を駆け上ってきた風が頬を撫でた。それは、あの人がわたしにしてくれた仕草によく似ていて、耳元ではわたしの名前を呼ぶ声まで聞こえた気がして、それで。
あの人と過ごした中庭に、山の向こうへと今にも消えていかんとするヘリオスの馬車の、それでも強い光が差し込んでいた。あの人のいない庭に、わたしは今やひとりきりで立っていた。
世界の約束通りに、太陽が沈んで月が昇りはじめる薄闇の空を流れる一粒の星のように。強い光に照らされた頬には、忘れられた約束の跡だけがひとすじ残った。
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おともだちみんなでやったワンライ企画で書いたもの。お題は"忘れられた約束"でした💫