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Photo byillust_sion

女性向け二次創作界隈で、私はいつも浮いてしまう話

    学級会、なんて言葉がある。

    女性向け二次創作界隈にいると、Xでは定期的に何かしらが燃えている。

    解釈違い、当て擦り、互助会、パクリ疑惑、マナー論争……etc

    私はスマホを片手に、「またやってるなあ」と半ば呆れながら、それらをぼんやり眺めている。

    ――もっとも、完全に他人事というわけでもない。

    私は二次創作の小説界隈ときどきイラストで、もう20年近く活動している。

    長ければ10年近く居座るジャンルもあれば、1年ほどで移動したジャンルもある。

    とはいえ、移動理由は「飽きたから」ではないことが多かった。

    恥ずかしい話だが、だいたい人間関係で消耗して離れている。

    毎回どこかでトラブルになるので、「単純に私の性格に問題があるのだろう」と思っていた。実際、その要素はあると思う。

    私はSNSの人間関係をかなり真面目に受け取ってしまうし、不義理や誤解を放置するのも苦手だ。話せば分かると思ってしまうところもある。

    ただ、長年活動していると、一つ妙な違和感があった。

    界隈では浮く。
    創作者から距離を置かれる。
    ブロ解やブロックも、正直そこまで珍しくない。
    傷ついて、疲れて、ジャンルを移動する。

    それなのに、毎回必ず「ジャンルを越えて付き合いが続く人」がいるのだ。

    10人いて9人と疎遠になっても、1人とは関係が続く。しかも、その関係はジャンル移動後も終わらない。

    気づけば、20年近い付き合いの友人もいる。

    私が界隈を離れたあとも、変わらず接してくれる人がいる。

    つまり私は、「完全に孤立するタイプの人間」というわけでもないらしい。

    さらに不思議なことに、人間関係で消耗してジャンルを離れても、作品の反応自体はそこまで落ちなかった。

    同人誌の頒布数も、SNSの反応も、致命的には変化しない。むしろ増えることすらある。

    では、いったい何が起きていたのか。

    長いこと私は、「嫌われた=自分が全面的に悪い」と考えていた。

    けれど最近、それだけでは説明がつかない気がしている。

    もしかすると私は、「女性向け小規模創作界隈」と根本的に相性が悪いのではないか。

    今回は、そんな話をしたい。

    ■ 私は「創作」と「CP」を愛してた


    ジャンルにハマった瞬間の熱量は、今でもかなり好きだ。

    「AくんとBくん、この関係、絶対に何かあるだろ」

    そう気づいた瞬間、人はただのオタクではなくなる。

    カップリングの瞬間接着剤と化す。
    すぐにくっつける。絶対にくっつける。
    その強い意志だけで生き始める。

    通勤中に妄想が止まらなくなって、口角を必死に押さえ込む。

    マスク社会になってからはだいぶ楽になった。マスクの下で普通にニヤけている。

    原作更新の日はもっと酷い。情緒を破壊され、床を転がる。耐えきれないと深夜に突然コンビニへ向かう。徒歩五分の距離なのに、なぜかランニングみたいな速度で走っている。

    今思うと普通に不審者だが、田舎なので特に職務質問は受けていない。

    でも、二次創作をする人なら、この「内側から暴れたくなる感じ」は分かるんじゃないだろうか。

    推しCPのことを考えるだけでテンションがおかしくなる。

    誰かに語りたい。作品にしたい。同じ幻覚を見ている人を探したい。

    私はあの感覚が好きだった。

    pixivを漁り、Xで同じCPが好きな人を見つける。

    恐る恐るフォローして、フォローが返ってきた時の嬉しさ。

    「このシーンやばかったですよね」と語り合う時間。

    感想をもらい、「この解釈わかります」と言われた時の高揚感。

    作品を作ること自体ももちろん好きだったが、それ以上に、

    「こんな幻覚を見ているのは自分だけじゃなかったんだ」

    という感覚が、私は好きだった。

    最初、界隈の人たちは優しい。

    小規模ジャンルは特に距離が近い。

    イベント後にアフターへ行き、DMで感想を送り合い、通話を繋いで原作の萌えシーンで騒ぐ。

    深夜二時に「今から五千字書く」と宣言する人がいて、それに「寝ろ」と返す。

    そんなくだらない時間が、たまらなく楽しかった。

    私は、人間関係そのものが嫌いなわけではない。

    むしろ、創作を通して人と繋がることはかなり好きな方だと思う。

    だからこそ、不思議だった。

    私はいつも、「創作」ではなく「人間関係」に消耗してジャンルを離れることになる。

    好きな作品について語っていただけのはずなのに、いつの間にか重要になるのは、

    「創作者の誰と誰が仲がいいか」
    「A×Bの○○さんと△△さんが仲違いした」
    「誰側につくか」
    「どこまで空気を読むか」

    になっていく。

    私は長いこと、その変化にうまく適応できなかった。

    ■ 互助会という名の派閥

    小規模ジャンルには、小規模ジャンル特有の空気がある。

    これは別に悪口ではない。

    人が少ない以上、距離が近くなるのは当然だ。
    交流が活発になればなるほど、界隈は「創作発表の場」であると同時に、「人間関係のコミュニティ」になっていく。

    イベントへ行けば顔見知りばかり。
    通話を繋げば毎回同じメンバー。

    そして大抵、界隈には“中心人物”がいる。
    作品大手とは別に、交流の中心になる人だ。

    原作更新の日にはその人を中心に感想が飛び交い、自然と周囲に人が集まっていく。

    感想を送り合い、X上で「ここの解釈ヤバい」と深夜まで騒ぐ。

    同じ熱量の人間がいること自体が嬉しかったのに、小規模界隈では創作の熱量と人間関係の濃度が少しずつ分離できなくなっていく。

    仲のいいグループができる。

    その輪の中にいれば作品はRPされ、感想も届く。
    逆に、輪の外にいる人間の作品は、同じCPを扱っていても静かに流れていく。

    作品の巧拙とは、必ずしも一致しない。

    もちろん、これは女性向け界隈に限った話ではない。
    人間は仲のいい相手を優先する生き物だし、小規模共同体ならなおさらだ。

    ただ、私は長いこと、この文化にうまく馴染めなかった。

    いわゆる「互助会」と呼ばれるものに、強い息苦しさを感じてしまったのだ。

    互助会、という言葉にはかなり棘がある。
    だから本当は、あまり使いたくない。
    でも、「創作の評価」と「人間関係」が強く結びついている空気を、私は確かに感じていた。

    私は、こうした「交流中心型」のコミュニティに、昔からあまりうまく適応できなかった。

    作品の話をしているはずなのに、いつの間にか重要になるのは、
    「誰と仲がいいか」
    「誰の輪の中にいるか」
    という空気だったからだ。

    そして私は、不義理や誤解をかなり気にするタイプだった。

    「何か問題があったなら話してほしい」と思うし、誤解されているなら訂正したい。
    相手が怒っているなら、理由を知りたい。

    でも、どうやらこれは小規模界隈ではあまり歓迎されないらしい。

    後になって気づいたのだが、女性向け小規模界隈って、「正しいかどうか」より、「安心して同じ空間にいられるか」がかなり重要な共同体なのだ。

    これは善悪の話ではなく、文化の話に近い。

    例えば私は、何かあった時、「話し合えば分かる」と思っていた。
    けれど相手側は、必ずしも問題解決を求めているわけではない。

    むしろ、
    「責められたくない」
    「空気を悪くしたくない」
    「居心地を壊したくない」
    「気まずい話をしたくない」
    を優先していることがある。

    だから私は、「確認」や「訂正」のつもりで話していても、相手からすると、
    「怖い」
    「責められている」
    「空気を乱す人」
    に見えてしまう。

    最初、私はそれが全く理解できなかった。
    誤解は解いた方がいいし、不満があるなら話した方が早い。
    少なくとも私はそう思っていた。

    でも、界隈の人間関係は、必ずしも問題解決を目的に動いていない。
    むしろ、「波風を立てないこと」の方が優先される。

    今なら分かる。

    たぶん私は、「創作仲間」をかなり真面目に捉えすぎていた。

    SNSの相互フォローを、ただの“趣味の繋がり”ではなく、“ちゃんと向き合う人間関係”として扱っていたのだと思う。

    でも、小規模界隈では、その温度感は少し重かった。

    人によっては、「楽しく推しCPの話をしたいだけ」で、そこまで深い関係性を求めていない。

    私はその距離感の違いを、長いこと理解できなかった。

    ■ 「感情共同体」という気づき


    私は長いこと、「なぜ正しいことを言っているのに嫌がられるのか」が分からなかった。

    誤解があるなら訂正した方がいい。
    不満があるなら話し合った方がいい。
    問題があるなら改善した方がいい。
    少なくとも私は、そう考えていた。

    だから、距離を置かれた時も、「何が嫌だったのか教えてほしい」と思ってしまう。
    黙って離れられるより、言ってもらった方がまだ整理できるからだ。

    でも、どうやら小規模女性向け界隈では、この感覚は少数派だったらしい。

    そこでようやく気づいた。
    あの場所は、「正しい人」が好かれる共同体ではなかったのだ。

    もちろん、悪意のある人が好かれるという話ではない。
    そういう単純な話ではない。

    ただ、多くの人が求めていたのは、
    「一緒にいて安心できる人」
    「空気を悪くしない人」
    「感情的負荷が少ない人」
    だった。

    つまりあそこは、ある種の“感情共同体”だったのだと思う。

    例えば私は、「誤解されたくない」と強く思う。
    だから確認する。
    訂正する。
    説明する。

    でも、相手側からすると、その行為自体がもう“重い”。

    たとえ内容が正しくても、
    「怖い」
    「詰められている」
    「空気が悪くなる」
    と感じる人がいる。

    たとえば、私が描いたイラストを互助会の誰かが無断転載をする。
    私は「使うなら一言、事前でも事後でもいいので教えて下さいね」と表で告げた。

    私は表向きで「確認取ったら使っていいよ」という意思表示と思い、私なりの誠意と優しさのつもりだった。

    だがその瞬間にブロ解されたり、マシュマロで「表向きになぜ言う」などと責立てられた。

    正しいことを、穏やかに伝えれば伝わる。
    少なくとも私はそう思っていた。

    けれど実際の人間関係では、多くの場合、その二つは切り分けられていない。

    どれだけ正しい内容でも、
    「怖い」
    「空気が悪くなる」
    「責められている気がする」
    と感じさせた時点で、“避けたい人”になってしまうことがある。

    特に小規模界隈では、その傾向が強い。

    人数が少ない共同体ほど、「正しさ」より「居心地」が優先されるからだ。

    今なら分かる。

    あの場所で求められていたのは、「問題を整理する人」ではなく、「安心して一緒にいられる人」だった。

    私はそこを、ずっと読み違えていたのだと思う。

    ■ 自分にも問題があった話

    ここまで散々「界隈の空気」について書いてきたが、当然、私自身にも問題はあったと思う。
    というより、たぶん私はSNS向きの人間ではない。

    私は人間関係をかなり真面目に受け取ってしまう。
    相互フォローになれば、「ある程度ちゃんと向き合う関係」だと思ってしまうし、何かあれば説明したくなる。誤解されたまま終わるのも苦手だ。

    でも、SNSの人間関係って、もっと軽い。

    合わなければ離れる。
    なんとなく疎遠になる。
    深い理由は説明しない。

    たぶん多くの人にとっては、そのくらいの温度感なのだと思う。

    でも私は、それをかなり重く受け取りすぎていた。
    例えば、相手の反応が急に減ると、「何かしてしまっただろうか」と考える。

    ブロ解されると、「なぜ?」を知りたくなる。

    相手からすると、ただ距離を置いただけかもしれない。

    でも私は、「関係が壊れた理由」を整理したくなってしまう。

    この“問題解決モード”が、たぶんかなり重かった。

    しかも私は、「ちゃんと話せば分かる」と思っている節がある。

    でも実際には、人は必ずしも“分かり合いたい”わけではない。

    ただ静かに離れたい人もいるし、感情を言語化したくない人もいる。

    そもそも、そこまで深い関係性だと思っていないこともある。

    私は長いこと、その距離感を理解できなかった。

    あと、私は「正しさ」に寄りすぎるところがある。
    もちろん、何でも正論を振りかざしていたわけではない。

    ただ、「誤解を訂正したい」「筋を通したい」という気持ちはかなり強かった。

    でも、小規模共同体では、「何を言うか」以上に、「どう空気を動かすか」の方が重要になることがある。

    私はそこを軽視していた。

    今振り返ると、私は“創作仲間”に対して、少し誠実すぎたのかもしれない。

    いや、正確には、「誠実さの方向」がズレていた。

    私は、「ちゃんと向き合うこと」が誠実だと思っていた。

    でも相手側は、必ずしもそれを求めていなかった。

    むしろ、
    「楽しく話せる」
    「気を遣わない」
    「重くならない」
    ことの方が正しさ以上に重要だったのだと思う。

    だから私は、悪意がなくても、結果的に“疲れる人”になっていたのだろう。

    最近はようやく、「全てを分かり合おうとしなくていい」と少しだけ思えるようになった。

    SNSの関係は、もっと曖昧で、もっと軽くていい。

    たぶん私は、その感覚を覚えるのに20年かかったのだと思う。

    ■ 今後どうするか

    では、これから私はどうするのか。
    たぶんもう、小規模共同体の中心に入ろうとはしないと思う。

    もちろん、創作を通して人と繋がること自体は今でも好きだ。
    感想を送り合ったり、推しCPの話で深夜に盛り上がったりする時間は、やっぱり楽しい。

    でも私は、「人間関係の濃さ」が創作の楽しさを上回り始めると、かなり消耗してしまう。

    だから今後は、もう少し“作品主体”で活動したいと思っている。

    人間関係中心ではなく、作品を見てもらい、作品で繋がる形だ。

    ありがたいことに、私は界隈で浮いても、作品まで完全に否定されたことはあまりなかった。
    ジャンルを移動しても読んでくれる人はいたし、「あなたの話が好きです」と言ってくれる人もいた。

    それなら、私はもっと自分と“作品”を信じてもいいのかもしれない。

    最近は、一次創作にも力を入れ始めている。
    二次創作の「同じ熱量を共有する楽しさ」は唯一無二だと思う。

    でもその一方で、一次創作には、「人間関係の空気」から少し距離を置ける自由さがある。

    もちろん、どこへ行っても人間関係は存在する。
    人がいる以上、摩擦はゼロにならない。

    たぶん私はこれからも、完全には器用に生きられないと思う。
    それでも以前よりは、「全員に理解されなくていい」と思えるようになった。

    10人の内9人に好かれなくても、1人と長く付き合えれば十分なのかもしれない。

    実際、20年近く創作を続けてきて、ジャンルを越えて残った関係もある。

    界隈を離れても作品を見てくれる、読んでくれる人もいる。

    だったら私はもう、「共同体に適応できるか」より、「自分が楽しく創作を続けられるか」を優先したい。

    創作そのものまで嫌いになってしまう前に、少し距離感を変えながら。

    たぶん私はこれからも、推しCPを見て突然床を転がるし、深夜にコンビニへ走り出すタイプのオタクだ。

    今日もSNSで学級会が起きている。ぼんやりと眺めながら、それでも関わらず、私は自分の好きに向き合い創作をする。

    でも、それくらいでちょうどいいのかもしれない。

     
     
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