25はじまりは、いつもちいさい ──日々の出来事から、自分という人間を読んでいく記録 第25章父の右足——受け継いだ道標
子どもの頃。
私は父の背中を見て育った。
ずっと、そう思っていた。
親の背中を見る。
よく聞く言葉だ。
だから私も、そうだったのだと思っていた。
でも最近、ある出来事で気づいた。
私が本当に覚えていたのは、背中ではなかった。
父の右足だった。
◇
先日、父と一緒に先祖のお墓を掃除しに行った。
父は79歳になる。
若い頃とは生活も変わり、できることも少しずつ変化している。
だから私は自然と思っていた。
「今度は自分が歩幅を合わせる番だ」
と。
しかし、実際は違った。
歩き始めると、父はいつもの位置にいた。
私の少し左前。
私は、その右後ろ。
そして視線を落とすと、そこには父の右足があった。
その瞬間、不思議な感覚になった。
「ああ、この景色を知っている」
そう思った。
◇
ふと気になって、反対側も歩いてみた。
父の左後ろ。
今度は父の左足が見える位置。
でも、不思議なほどしっくりこなかった。
「ああ、ここではない」
そう感じた。
私の場所は、昔からここだったのだと思う。
父の右後ろ。
私の左前にある、父の右足。
頭では忘れていた記憶を、身体は覚えていた。
◇
子どもの頃。
人混みの駅。
出かけた日の道。
私はいつも、この位置を歩いていた。
道を知っていたわけではない。
乗り換えが分かっていたわけでもない。
ただ、
この足についていけば大丈夫。
そう思って歩いていた。
父の右足は、私にとって道標だったのかもしれない。
◇
お墓では、特別なことを考えるわけではない。
お願いもしない。
何かを求めるわけでもない。
ただ手を合わせる。
不思議なほど、そこには何もない。
無。
でも、その何もない時間の中に、長い時間が流れているように感じる。
今、自分がここにいること。
誰かが生きてきた先に、自分がいること。
そんな当たり前のことを、静かに感じる。
◇
若い頃は、人生とは何かを手に入れることだと思っていた。
結果を出すこと。
認められること。
前へ進むこと。
もちろん、それも大切だと思う。
でも人生の秋に差しかかると、少し景色が変わる。
今、自分が持っているものの多くは、自分だけで作ったものではなかった。
誰かの言葉。
誰かの行動。
誰かの背中。
いや、時には——
誰かの一歩。
それについて歩いてきた時間だった。
◇
その日の夜。
娘と現代国語の勉強をした。
文章を読む。
対比を探す。
接続詞を見る。
筆者が本当に伝えたいことを考える。
私は、答えを教えたいわけではない。
文章の中で迷った時、
自分で歩ける方法を伝えたい。
ふと思った。
昔、父が私にしてくれていたことも、同じだったのかもしれない。
父は、
「こう歩け」
とは言わなかった。
ただ前を歩いていた。
その一歩を見ながら、私は進んできた。
◇
人生の前半は、誰かの足跡を追う時間なのかもしれない。
そして人生の後半は、
自分が受け取った道標を、
次の誰かへ渡していく時間なのかもしれない。
派手な言葉はいらない。
大きな出来事でなくてもいい。
ただ、そこにいること。
自分の歩幅で歩き続けること。
それだけで、誰かにとっての道標になることがある。
昔は追いつきたくて見ていた父の一歩。
今は感謝しながら見る父の一歩。
同じ右足なのに、
見える景色は変わっていた。
これが、人生の秋なのかもしれない。
第一章はこちら
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