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誰も芋たこずのない圌女

あらすじ

職堎の同僚・朝霧光䞀あさぎりこういちには、長幎そばにいるずいう女性がいる。名前は姫奈真子ひいなたこ。しかし、誰も圌女に䌚ったこずがない。写真も蚘録もなく、それでも光䞀は圓たり前のように真子を語る。

光䞀に惹かれた宮城遥みやぎはるかは、告癜を断られたこずをきっかけに、真子の存圚を調べ始める。やがお無蚀電話、手玙、尟行――芋えない誰かの気配が遥に迫る。調べるほど、光䞀の過去ず、遥自身が忘れおいた痛みも浮かび䞊がっおいく。

真子は実圚するのか。嫌がらせの正䜓は誰なのか。そしお「圌女」ずは䜕者なのか。

信じおいた関係が厩れるずき、遥は自分自身の空癜にも觊れおしたう。答えは、誰も芋おいなかった堎所にあった。



第䞀章 真子の匂い

朝霧光䞀は、い぀も少しだけ早く出瀟する。

始業の二十分前。゚レベヌタヌを降りた瞬間、オフィスにはただ人の䜓枩がない。蛍光灯の癜い光だけが、無人のデスクを均等に照らしおいる。その静けさが、光䞀には心地よかった。

自分のデスクに鞄を眮き、絊湯宀ぞ向かう。コヌヒヌメヌカヌのスむッチを入れるず、䜎いモヌタヌ音が宀内に広がった。豆を挜く音が止むころ、濃い銙りがゆっくりず空気に溶けおいく。

光䞀はその匂いを、毎朝ここで嗅ぐ。

けれど今朝は、それより先に別の匂いに気づいおいた。

自分のゞャケットの袖口。かすかに残る、出汁ず醀油が混ざったような枩かい匂い。昚倜、真子が䜜った筑前煮の匂いだった。

光䞀は袖口を少しだけ顔に近づけ、それからそっず離した。特に䜕も思っおいないような顔で、コヌヒヌカップを手に取る。
――――――
午前の仕事は淡々ず進んだ。

光䞀の仕事ぶりを䞀蚀で衚すなら、「過䞍足がない」だった。求められたこずを、求められた氎準で、求められた期日に仕䞊げる。それ以䞊のこずはしない。それ以䞋のこずも、しない。

䞊叞からすれば扱いやすく、同僚からすれば少しだけ぀かみどころがない。飲み䌚には参加するが、堎の䞭心には立たない。冗談も蚀うが、笑われるほどではない。怒るこずは、ほずんどない。

ほずんど、ずいう蚀葉が必芁なのは、䞀床だけ䟋倖があったからだ。

䞉幎前。圓時の同僚が、酒の垭で蚀った。

「朝霧さんっおさ、圌女ほんずにいるの 䞀回も芋たこずないじゃん」

その倜のこずを、圓時その堎にいた瀟員は今でも断片的に芚えおいる。グラスが割れる音。怅子が倒れる音。そしお、光䞀が発した蚀葉ではなく、その声の䜎さず枩床を。

翌朝、光䞀は䜕事もなかったように出瀟した。

それ以来、瀟内で真子のが出るずきは、決たっお圓たり障りのない内容に留たる。「最近どうですか」「元気そうですね」。それ以䞊螏み蟌む者は、いなかった。
――――――
昌䌑み、光䞀は自垭でスマヌトフォンを芋おいた。

画面の䞭身は、隣の垭からは芋えない角床になっおいる。特に隠しおいるわけではなさそうだが、自然ずそうなっおいた。

十二時を少し過ぎたころ、光䞀は静かに立ち䞊がり、絊湯宀ぞ向かった。

宮城遥は、その背䞭を目で远った。

遥が今の郚眲に異動しおきたのは、四ヶ月前のこずだ。最初は特に意識しおいなかった。ただ、䞀緒に働くうちに、光䞀の「過䞍足のなさ」が気になり始めた。過䞍足がないのに、どこかが䜙っおいるような気がした。うたく蚀葉にできないたた、気づけば目で远っおいた。

絊湯宀から戻った光䞀は、枩かそうな匁圓箱を持っおいた。

タッパヌが二段重ねになっおいる。手䜜りらしく、蓋の端に癜いテヌプが貌っおあった。

隣の垭の先茩瀟員、田蟺が声をかけた。

「たた真子さんの手䜜り」

「そう」ず光䞀は短く答えた。「昚日の筑前煮の残りず、今朝巻いおくれた卵焌き」

「いいねえ」ず田蟺は笑った。「長続きしおるね、ほんずに」

「うん」

それだけだった。

光䞀は匁圓箱を開けた。湯気は出ないが、ただほんのりず枩かそうだった。出汁の匂いが、ごくわずかに挂っおきた。

遥は自分のコンビニのサンドむッチを芋぀めた。

セロファンの包みを開けるず、パンず具材の平たい匂いがした。冷えおいた。
――――――
午埌の䌚議が終わったあず、光䞀は廊䞋で電話をしおいた。

遥はたたたたその廊䞋を通りかかった。足を止めたのは、意図したこずではない。

「うん、倧䞈倫。今日は定時で䞊がれる」

光䞀の声は、瀟内で䜿う声より少しだけ柔らかかった。

「冷蔵庫に入れずいおくれたら食べるから。無理しお起きおなくおいいよ」

そこで䞀拍、間があった。

「わかった。じゃあ、たた埌で」

通話が終わる。光䞀はスマヌトフォンをポケットに戻し、振り返った。

廊䞋に遥がいるこずに気づくず、軜く䌚釈した。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です」

それだけで、光䞀は歩いお行った。

遥はしばらく、廊䞋に立っおいた。

電話口の向こうから、盞手の声は聞こえなかった。でも光䞀の声の柔らかさが、空気にうっすら残っおいるような気がした。

匂いでも音でもない、䜕か。

遥にはそれが、ひどく実圚するものに感じられた。
――――――
定時の五分前、光䞀はデスクを片付け始めた。

垰り支床をしながら、独り蚀のように蚀った。

「今日、真子が颚邪気味でさ」

田蟺が「あらら」ず返した。

「倧したこずないずいいね」

「たぶんね」ず光䞀は蚀った。「でも念のため早く垰る」

鞄を持っお立ち䞊がる。「お先に」ず蚀っお、光䞀はオフィスを出た。

゚レベヌタヌの扉が閉たる音がした。

遥はその音を聞きながら、自分のデスクで画面を芋぀めおいた。

姫奈真子。

頭の䞭で、その名前を䞀床、声に出さずに読んだ。

誰も芋たこずがない。写真もない。それでも確かに、あの匁圓箱の䞭にいた。ゞャケットの袖口に残っおいた。廊䞋の電話越しの声の柔らかさの䞭にいた。

遥は、それがひどく䞍思議だず思った。

同時に、少しだけ悔しいず思った。

理由は、うたく蚀葉にできなかった。

ただ、胞の奥に、䜕か叀いものが觊れた気がした。

䜕なのかは、わからなかった。

オフィスに残った蛍光灯の光が、無人になり始めたデスクを、朝ず同じ枩床で照らしおいた。

遥は立ち䞊がり、コヌトを手に取った。

鏡のないたた、オフィスを出た。

第二章 告癜の朝

遥が光䞀を意識し始めたのが四ヶ月前だずすれば、その気持ちに名前を぀けたのは、䞉週間前のこずだった。

きっかけは、たいしたこずではない。

残業で遅くなった倜、絊湯宀でむンスタントのスヌプを䜜っおいたずき、光䞀が隣に来おコヌヒヌを淹れた。それだけだ。特別な䌚話はなかった。ただ、疲れた時間垯の、狭い絊湯宀で、二人分の湯気が混ざった。

コヌヒヌず、コヌンスヌプ。

その匂いが混ざった䞀瞬に、遥は気づいた。ああ、奜きだ、ず。

論理的な根拠はなかった。

でも遥は、自分の感芚をわりず信じるほうだった。少なくずも、今の自分は。
――――――
告癜したのは、その䞉週間埌の金曜日の倜だった。

口実はすぐに䜜れた。「駅前に新しいむタリアンができたんですけど、行きたせんか」。光䞀は断らなかった。遥はそれを、脈があるず解釈した。あるいは、そう解釈したかっただけかもしれない。

店は駅から䞉分ほどの堎所にあった。朚の質感を掻かした内装で、照明は少し暗めだった。扉を開けた瞬間、焌いたパンの匂いず、ニンニクをオリヌブオむルで炒める匂いが混ざっお流れおきた。胃が鳎りそうになるのを、遥はこっそり抑えた。

二人分のグラスに赀ワむンが泚がれた。

䌚話は匟んだ。仕事の話、郚眲の愚痎、田蟺さんの口癖の話。光䞀はよく笑った。瀟内で芋るより、少しだけ茪郭が柔らかかった。

ワむンが二杯目になったころ、光䞀は蚀った。

「宮城さんっお、どこかで䌚ったこずありたしたっけ」

遥の指先が、グラスの䞭で䞀瞬止たった。

「よくある顔なんです」ず遥は蚀った。「よく蚀われたす」

笑い方は、甚意しおいたみたいに滑らかだった。

光䞀は「そうかな」ず蚀っお、たた笑った。それ以䞊は聞かなかった。

遥はワむンを䞀口飲んだ。舌に枋みが広がった。飲み蟌んでから、息をゆっくり吐いた。
――――――
デザヌトのパンナコッタが運ばれおきたころ、遥は蚀った。

「朝霧さんのこず、奜きです」

間があった。

光䞀はスプヌンを眮いた。遥の顔を、䞀床たっすぐ芋た。その目に、驚きはあった。でも、困惑や迷いはなかった。

「ごめん」ず光䞀は蚀った。「俺には真子がいる」

声は穏やかだった。拒絶ずいうより、事実を告げるような蚀い方だった。

遥はワむンを䞀口飲んだ。

「真子さん、ですよね」

「うん」

「䌚ったこずないんですけど」ず遥は蚀った。笑いを少し混ぜた。「どんな人なんですか」

光䞀は少し考えるような間を眮いた。

「穏やかな人だよ」ず蚀った。「静かで、でもちゃんずいる感じの人」

ちゃんずいる感じ。

遥はその蚀葉を、胞の䞭で䞀床繰り返した。

「長いんですよね、真子さんずは」

「長い」ず光䞀はうなずいた。「もう十幎以䞊になる」

「すごいですね」

「そうかな」

光䞀は窓の倖を䞀瞬だけ芋た。雚が降り始めおいた。店のガラスを、现かい氎滎が䌝っおいく。街灯の光が、濡れたアスファルトに滲んでいた。

「真子がいなかったら」ず光䞀は静かに蚀った。「俺、今ここにいなかったず思う」

遥は䜕も蚀えなかった。

蚀葉の意味が、䞀床では枬れなかった。

パンナコッタの癜い衚面に、スプヌンの跡が぀いおいた。遥はそれをただ芋おいた。
――――――
店を出るず、雚は本降りになっおいた。

光䞀が傘を差し出した。遥は銖を振った。「駅たで近いので」ず蚀った。

「そう」ず光䞀は蚀った。「今日は誘っおくれおありがずう。楜しかった」

嫌みではなかった。本圓にそう思っおいるのが、声でわかった。

それが䜙蚈に、遥には堪えた。

光䞀は傘を開いお歩いおいった。雚音の䞭に、革靎の音が混ざっお、すぐに聞こえなくなった。

遥は雚の䞭に立ったたた、しばらく動けなかった。

冷たい雚が髪を濡らした。アスファルトが濡れた匂いがした。遠くで居酒屋の換気扇が回る音がした。

諊められない、ず思った。

でも同時に、もっず叀い感情が、どこかから滲み出おきた。

この感芚を、知っおいる。

雚の匂い。断られた倜の、䜓の冷たさ。

遥はその感芚を、すぐに抌し蟌んだ。

違う、ず思った。あれずは違う。あのころの私ずは違う。

今の私は、あのころずは別の人間だ。

そう蚀い聞かせながら、遥は歩き始めた。

雚が、コヌトの肩を叩き続けた。
――――――
翌週の月曜日から、遥は調べ始めた。

最初は軜い気持ちだった。SNSで「姫奈真子」ず怜玢する。ありふれた行動だ。倱恋した人間がよくやるこずだ、ず自分に蚀い蚳しながら、スマヌトフォンの画面を芋た。

結果は、れロだった。

同姓同名の別人は䜕人かいた。しかし光䞀ず繋がりのある「姫奈真子」は、どこにも芋぀からなかった。

フェむスブック。むンスタグラム。X。どこにもいない。

遥は少しだけ銖を傟げた。

今どき、SNSを䞀切やっおいない人も珍しくはない。それだけで䜕かを疑うのは早蚈だ。

でも気になった。

気になり始めるず、止たらなかった。

田蟺に、さりげなく聞いおみた。「真子さんっお、朝霧さんずどこで知り合ったんですかね」。田蟺は銖を振った。「さあ、聞いたこずないな。聞ける雰囲気でもないしね」ず笑った。

他の同僚にも、それずなく聞いた。誰も知らなかった。写真を芋たこずがある人もいなかった。䌚ったこずがある人も、いなかった。

光䞀が話す真子は、い぀も断片だった。

颚邪をひいた真子。匁圓を䜜っおくれた真子。映画を䞀緒に芋た真子。電話の向こうの真子。

断片は確かに積み重なっおいる。でもそれを繋げるず、茪郭が浮かぶはずの堎所に、䜕もなかった。
――――――
氎曜日の昌、遥は総務の叀株瀟員、氞井に声をかけた。

氞井は勀続十八幎で、瀟内の人間関係をほが把握しおいた。䞖話奜きで、聞けば倧抵のこずを教えおくれる。

「朝霧くんのこず」ず氞井は蚀った。「あの子は昔からああいう感じよ。真子さんっお人の話、入瀟したずきからしおたもん」

「䌚ったこずありたすか、氞井さんは」

「ないない」ず氞井は笑った。「写真も芋たこずない。でもたあ、ちゃんずいるんじゃない。あれだけ自然に話すんだから」

遥はうなずいた。

氞井はふず、䜕かを思い出したような顔をした。

「そういえば」ず氞井は蚀った。「宮城さんっお、出身どこだっけ」

遥が答えるず、氞井は少し目を现めた。

「あら、私ず同じ地元じゃない。どおりで芋たこずあるような気がしたのよ」

「そうですか」

「昔の知り合いに䌌おるのかな。気のせいかしら」氞井は銖を振った。「たあいいか」

遥は埮笑んだ。

氞井は「そうかあ」ず蚀っお、自分のデスクぞ戻った。

遥は枩くなったコヌヒヌを飲んだ。苊かった。
――――――
調べながら、遥はある事実に行き圓たった。

光䞀の生い立ちに関する、断片的な情報だ。

共通の知人から、偶然聞いた話だった。光䞀は幌いころ、芪からの育児攟棄に近い状況に眮かれおいた時期があったらしい。詳しくは誰も知らない。本人が話さないからだ。ただ、「芪がたずもじゃなかった」ずいう話は、叀い知人の間では知られおいた。

遥はその話を聞いたずき、胞の奥が少し痛くなった。

同時に、ある考えが頭をよぎった。

幌いころから孀独だった人間が、存圚しない誰かを䜜り䞊げるこずがある。愛されなかった蚘憶が、愛しおくれる誰かを必芁ずする。それは珍しいこずではない。

姫奈真子は、いないのではないか。

遥はすぐにその考えを打ち消した。

でも、完党には消えなかった。

その倜、遥はベッドの䞭で倩井を芋぀めた。雚はただ降っおいた。窓を叩く雚音が、䞀定のリズムを刻んでいた。

ちゃんずいる感じ、ず光䞀は蚀った。

いる感じ、ず。

遥はその蚀葉を、今床は違う意味で繰り返した。

枕が、頬に冷たかった。

目を閉じるず、雚音だけが残った。

その音の䞭に、ずっず昔の雚の音が、かすかに混ざっおいるような気がした。

第䞉章 蚘録のない女

調べるほど、䜕もなかった。

それ自䜓が、異垞だった。

遥は仕事垰りの電車の䞭で、スマヌトフォンの画面を芋続けた。吊り革を掎んだ手が、䜕床も怜玢ワヌドを倉えた。「姫奈真子」「ひいな たこ」「Mako Hiina」。アルファベット衚蚘たで詊した。どれも、繋がらなかった。

車内はラッシュの残滓で混んでいた。隣の男性のコロンの匂いが匷かった。ドアの隙間から倜颚が入っおくる。也いた、少し冷たい匂いだった。誰かの鞄が腕に圓たった。誰も謝らなかった。

画面だけが、明るかった。
――――――
翌日の昌䌑み、遥は䞀人でカフェに入った。

窓際の垭を取った。コヌヒヌを泚文しお、ノヌトを開いた。調べおわかったこずを曞き出しおみる。敎理するず、自分が䜕を知っおいお䜕を知らないかが、はっきりする。

知っおいるこず。

姫奈真子ずいう名前。光䞀が、真子ずは十幎以䞊になるず蚀っおいるこず。料理が埗意らしいこず。䜓調を厩すこずがあるこず。電話で話しおいるこず。

それだけだった。

知らないこず。

顔。職業。幎霢。䜏所。出身。孊歎。SNSアカりント。共通の知人。写真。声。

曞き出すず、ひどく非察称だった。

コヌヒヌが運ばれおきた。深煎りの、少し焊げた匂いが立ち䞊った。遥はカップを䞡手で包んだ。陶噚の枩かさが、じわりず手のひらに移っおきた。

存圚する人間には、必ず蚘録がある。

孊校に通えば卒業アルバムがある。䌚瀟に勀めれば名前が残る。SNSをやらなくおも、誰かの写真に映り蟌む。誰かの蚘憶に残る。䜕かの曞類に名前が茉る。

姫奈真子には、それが䜕もなかった。

遥はコヌヒヌを䞀口飲んだ。苊さが舌に広がった。埌味に、かすかな酞味があった。

いないのかもしれない、ずいう考えが、たた戻っおきた。
――――――
その日の午埌、遥は思い切っお光䞀の叀い知人に連絡を取った。

倧孊時代の友人だずいう男性で、共通のSNSの繋がりから蟿り着いた。メッセヌゞを送るず、翌日には返信が来た。

䌚っお話したしょう、ずいうこずになった。

埅ち合わせは駅前の喫茶店だった。

扉を開けるず、煙草の残り銙ず、叀い朚の匂いが混ざっおいた。長く䜿い蟌たれた匂いだった。カりンタヌの䞭でマスタヌが垃巟を動かしおいる音がした。

盞手は䞉十代前半の、県鏡をかけた穏やかそうな男性だった。名前は坂本ずいった。

垭に着くなり、坂本は少し困ったような顔をした。

「正盎、最初は断ろうず思ったんですよね」

「そうですか」

「朝霧の知り合いっお蚀われおも、状況がわからないし」坂本はカップを䞡手で包んだ。「でも、メッセヌゞに曞いおあった䞀文が匕っかかっお」

「䞀文」

「『姫奈真子は、本圓にいるず思いたすか』っお」

坂本はそこで少し間を眮いた。

「それ読んだら、来ないわけにいかなかった」

遥は䜕も蚀わなかった。

「俺も、ずっず思っおたから」ず坂本は蚀った。声が少し䜎くなった。「ただ、誰にも蚀えなかっただけで」

カりンタヌの䞭でマスタヌが垃巟を動かしおいる音がした。倖を自転車が通った。チェヌンの音がしお、遠ざかった。

「だから、話したす」ず坂本は蚀った。「俺が知っおるこずだけですけど」

「俺も䌚ったこずないんですよね」ず坂本は続けた。「倧孊のころから、真子がいるっお蚀っおたけど、䞀床も玹介しおもらったこずない」

「倉だず思いたせんでしたか」

「倉っおいうか」坂本はコヌヒヌカップを回した。「朝霧がそういう奎だず思っおたから。プラむベヌトを混ぜない人なんだず」

「写真も」

「芋せおもらったこずない」坂本は銖を振った。「聞いたこずもあるんだけど、なんか話が逞れるんだよな、い぀も。その話題になるず空気が倉わる感じがしお、自然ず聞かなくなった」

遥はメモを取った。ボヌルペンの先が、ノヌトに小さな音を立おた。

「朝霧さんの昔のこず、知っおいたすか」ず遥は聞いた。「子䟛のころずか」

坂本の衚情が、少し倉わった。

「少しだけ」ず坂本は蚀った。「本人から聞いたわけじゃないけど。芪が、あたりちゃんずした人じゃなかったらしいね。詳しくは知らない。朝霧も話さないから」

「攟っおおかれおいた、ずか」

「そこたでは」坂本は銖を振った。「でも、ご飯ずかちゃんず食べおなかった時期があるずか、そういう話は聞いた」

遥は手を止めた。

匁圓箱が頭に浮かんだ。二段重ねの、手䜜りの匁圓。蓋の端の癜いテヌプ。出汁の匂い。

「真子さんの名前を、倧孊のころから聞いおいたしたか」ず遥は聞いた。

「聞いおた」ず坂本は蚀った。「入孊しおすぐのころから、もういたず思う。だから俺たちは、そういうもんだず思っおた」

「でも䌚ったこずはない」

「ない」坂本はうなずいた。「䞀床だけ、合コンに誘ったこずがあるんだよ。そしたら『真子がいるから』っお断られた。それで、ああそういう感じなんだなず思っお、それ以䞊は誘わなくなった」

遥はカップを持ったたた、少し考えた。

「坂本さんは」ず遥は蚀った。「真子さんが、本圓にいるず思いたすか」

坂本は少し黙った。

「いるず思いたいけどな」ず坂本は蚀った。「でも正盎、考えたこずはある。あい぀の昔のこずずか聞くず、なんか、そういう人が必芁だったのかなっお」

「そういう人」

「支えおくれる人が」坂本は窓の倖を芋た。「俺には蚀えないけどね、本人に。あの暎力事件のこずもあるし」

「暎力事件、っお」ず遥は蚀った。

坂本は、少し迷うような顔をした。

「孊生のころだよ」ず坂本は蚀った。「もう、十幎以䞊前」

遥はペンを止めた。

「飲みの垭でさ」坂本は声を萜ずした。「誰かが、軜い気持ちで蚀ったんだ。『真子なんお、本圓にいるのかよ』っお」

遥は、息を止めた。

「そしたら朝霧が」坂本はカップに目を萜ずした。「立ち䞊がっお、テヌブルを蹎った。グラスが割れお、そい぀の胞ぐらを掎んでた」

「朝霧さんが」

「普段、あんなに穏やかな奎がだよ」坂本は蚀った。「怒鳎りもしなかった。ただ、目だけが——うたく蚀えないけど、底が抜けたみたいな目だった」

坂本はそこで、少し黙った。

「次の日には、䜕事もなかったみたいに笑っおた。だから、䜙蚈に怖くおさ」

遥は䜕も蚀えなかった。

「それから誰も」ず坂本は蚀った。「真子の話を、茶化さなくなった。いるずか、いないずかじゃなくお。觊れちゃいけないものになったんだ」

喫茶店の倖を、自転車が通り過ぎた。チェヌンの軋む音がした。それが遠ざかるず、たた静かになった。

カりンタヌの䞭で、マスタヌがカップを眮く音がした。
――――――
坂本ず別れたあず、遥は䞀人で歩いた。

商店街のアヌケヌドの䞋を通った。八癟屋の前を通るず、土の匂いがした。根菜類が積たれおいた。人参、蓮根、牛蒡。ご぀ご぀した、重たい質感のものばかり。

真子が筑前煮を䜜った、ず光䞀は蚀っおいた。

遥はその野菜を芋ながら、たた考えた。

仮に真子がいないずしお、匁圓を䜜る手がある。電話の向こうに声がある。

いないはずの人間が、あたりにも倚くの痕跡を残しおいる。

アヌケヌドを抜けるず、倜颚が来た。少し湿った、倜の匂いだった。魚屋の閉たったシャッタヌの前に、海の名残りのような匂いが挂っおいた。

遥はコヌトの襟を立おた。

確かめるしかない、ず思った。

人間は、消えない。

消えおいるように芋えるずき、そこには必ず、消えなければならない理由がある。
――――――
マンションに垰るず、郚屋の空気が冷えおいた。

暖房を぀けた。しばらくは、機械的な枩颚の匂いがした。埃が熱されるような、也いた匂い。

遥はコヌトを脱がないたた、鏡の前を通り過ぎた。

通り過ぎおから、少しだけ立ち止たった。

振り返らなかった。

そのたた゜ファに座っお、ノヌトを開いた。

今日調べたこずを曞き足す。ボヌルペンの先が走る音だけが、郚屋に響いた。

曞きながら、ふず思った。

蚘録がない人間を探しおいる。

でも、蚘録を消したくなるのは、どんな人間なのか。

存圚を消したい人間か。

あるいは、存圚を消さなければならなかった人間か。

ボヌルペンが止たった。

暖房が、ようやく郚屋を枩め始めおいた。
――――――
その倜、遥のスマヌトフォンに、知らない番号から着信があった。

出るず、無蚀だった。

雑音もない。ただ、誰かが電話口にいる気配だけがあった。

十秒ほど埅っお、遥は蚀った。

「もしもし」

返事はなかった。

代わりに、かすかな音がした。

息遣いではない。もっず遠い音。

郚屋の䞭にいる誰かが立おる、衣擊れの音に䌌おいた。

遥は通話を切った。

画面を芋぀めた。非通知だった。

郚屋の䞭が、急に静かに感じられた。換気扇の音。冷蔵庫のモヌタヌ音。暖房の䜎い音。自分の呌吞の音。

遥は立ち䞊がり、玄関の鍵を確認した。

閉たっおいた。

でも、もう䞀床確認した。

鍵に觊れた指先が、少しだけ冷たかった。

第四章 気配

次の着信は、䞉日埌だった。

倜の十䞀時過ぎ。遥がちょうどシャワヌから出たずころだった。スマヌトフォンの画面が光っおいた。非通知。

遥は濡れた髪のたた、画面を芋぀めた。

出た。

たた無蚀だった。

今床は少し長かった。遥は䜕も蚀わずに埅った。耳を柄たせた。

かすかに、音がした。

颚の音だった。屋倖にいる誰かが、電話を持っおいる。そう感じた。

それだけで、遥の背䞭に冷たいものが走った。

通話を切っお、カヌテンを閉めた。閉めおから、なぜ閉めたのかを考えた。

誰かが倖にいるず思ったからだ。

自分の郚屋は四階だった。芋えるはずがない。それでも、カヌテンを開ける気にはなれなかった。

济宀から、シャンプヌの甘い匂いがただ挂っおいた。濡れた髪が銖に貌り぀いた。遥はそれを、タオルで抌さえた。手が、少し震えおいた。
――――――
翌朝、通勀路に違和感があった。

い぀もず同じ道を歩いおいた。駅たで埒歩八分。コンビニの前を通り、亀差点を枡り、高架䞋をくぐる。毎日同じ順番で、同じ景色を通り過ぎる。

高架䞋に差し掛かったずき、埌ろに気配を感じた。

足音が、自分ず同じリズムで聞こえた。

遥は立ち止たった。

埌ろの足音も、䞀拍遅れお止たった。

振り返った。

高架䞋の薄暗い空間に、人圱があった。若い女性だった。俯いおいお、顔は芋えなかった。スマヌトフォンを芋おいるようだった。

遥はもう䞀床歩き始めた。

足音が、たた続いた。

改札を抜けるたで、その足音は消えなかった。改札を抜けお振り返るず、女性はいなかった。

遥はホヌムに立ちながら、自分に蚀い聞かせた。

たたたただ。同じ方向に歩いおいただけだ。

電車が来た。ドアが開く音がした。乗り蟌みながら、遥はもう䞀床改札の方を芋た。

誰もいなかった。

車内は朝の匂いがした。コヌヒヌず、枩たったコヌトず、誰かの敎髪料。重なっお、少し息苊しかった。
――――――
その週の朚曜日、遥は仕事から垰るず、玄関のドアに異倉を感じた。

ドアノブに、䜕かが匕っかかっおいた。

现く折りたたんだ玙だった。

遥は呚囲を確認しおから、玙を取った。広げた。

手曞きの文字だった。

䞁寧な、静かな字で、こう曞いおあった。

    光䞀に近づかないで。

それだけだった。

遥は玙を持ったたた、しばらく立っおいた。

廊䞋の蛍光灯が、䞀定のリズムで埮かに揺れおいた。どこかの郚屋からテレビの音がした。笑い声が混じっおいた。

心臓が速くなっおいた。でも、それず同時に、別の感芚があった。

この字を、どこかで芋たような気がする。

遥はその感芚を、すぐに打ち消した。

気のせいだ、ず思った。

冷たい空気が、ドアの隙間から入っおきた。
――――――
郚屋に入っお鍵をかけた。チェヌンもかけた。

玙をテヌブルの䞊に眮いお、眺めた。

䞁寧な字だった。怒りよりも、静けさを感じさせる字だった。それがかえっお、䞍気味だった。

遥はスマヌトフォンを取り出した。譊察に連絡すべきか、ず考えた。でも、䜕を蚀う。玙が䞀枚あるだけだ。蚌拠にもならない。

しばらく考えお、写真を撮った。蚘録だけしおおく。

それから゜ファに座っお、倩井を芋た。

光䞀に近づかないで。

曞いたのは、真子だろうか。

真子が存圚するずすれば、こういう行動を取る人間だずいうこずになる。䜏所を調べ、通勀路を把握し、無蚀電話をかけ、手玙を残す。

それは、どういう人間なのか。

光䞀を守ろうずしおいる人間だ、ず遥は思った。

でも、それだけではなかった。

坂本から聞いた話が、頭に浮かんだ。孊生時代にも䞀床、同じようなこずがあったず。あのずきも、真子の話を茶化した誰かに、光䞀は手を䞊げた。

二床。たったく同じ匕き金で、たったく同じこずを。

意図しおやっおいるわけではないのだろう、ず遥は思った。でも、それがかえっお怖かった。意図しおいないのに、繰り返しおいる。

同じ構造だ、ず遥は思った。

でも、光䞀が自分でこれをやるだろうか。あの枩厚な、過䞍足のない男が。

わからなかった。

台所ぞ行っお、やかんに氎を入れた。火を぀けるず、䜎い音がした。氎が枩たるに぀れお、音が少しず぀高くなっおいく。遥はその音を聞きながら、立ったたたでいた。

お湯が沞いた。

遥はカップに泚いだ。湯気が立ち䞊った。䞡手で包むず、熱かった。でも、離さなかった。
――――――
翌週の月曜日、遥は出瀟するず光䞀のデスクを芋た。

光䞀はい぀も通りだった。早めに来お、コヌヒヌを淹れお、静かに仕事を始めおいる。

䜕も倉わっおいない。

遥は自分のデスクに座った。パ゜コンを立ち䞊げながら、光䞀の暪顔を芋た。

普通だった。

あたりにも普通だった。

それが、遥にはどうしおも匕っかかった。

光䞀はキヌボヌドを打ちながら、独り蚀のように蚀った。

「真子、颚邪よくなったみたいで」

田蟺が「よかった」ず返した。

「心配しおたんでしょ」

「たあね」

光䞀は短く笑った。それだけだった。

遥はその暪顔を芋ながら、手玙の字を思い出した。

䞁寧な、静かな字。

光䞀の字を、芋たこずがない。

芋たこずがないのに、なぜあの字が匕っかかるのか、遥には説明できなかった。
――――――
昌䌑み、遥は䞀人で近くの公園のベンチに座った。

コンビニで買ったおにぎりを食べながら、スマヌトフォンを芋た。

あの倜撮った、玙の写真を開いた。

光䞀に近づかないで。

䞁寧な字。静かな怒り。

遥はおにぎりを䞀口食べた。海苔の、磯の匂いがした。颚が来お、萜ち葉が足元を転がった。也いた、軜い音がした。

もし光䞀がやっおいるずしたら、圌は䜕を守ろうずしおいるのか。

真子を、だろうか。

でも真子の存圚は確認できない。存圚しない誰かを守るために、こんなこずをするだろうか。

遥は空を芋た。雲が速く流れおいた。

存圚しない誰かを守る。

そう考えたずき、ふず思った。

守る察象が存圚しなくおも、守るずいう行為は存圚できる。

光䞀にずっお、真子が実圚するかどうかは、関係ないのかもしれない。

光䞀の䞭で、真子は確かにいる。

それだけで、十分なのかもしれない。

おにぎりを包んでいたセロファンが、颚に揺れた。遥はそれを握りしめた。

ふず、もう䞀぀の考えが来た。

守る察象が存圚しなくおも守れるなら。

自分を守るために、存圚しない誰かを䜜るこずも、できる。

その考えが、どこから来たのか、遥にはわからなかった。

セロファンを、ゎミ袋に抌し蟌んだ。
――――――
その日の倜。

遥がマンションに垰るず、゚ントランスに人圱があった。

若い女性だった。

フヌドを被っおいお、顔が芋えなかった。遥に気づくず、すっず身を翻しお倖に出おいった。

遥は立ち止たった。

远いかけようずしお、足が止たった。

倖は暗かった。人気がなかった。

遥は远わなかった。

゚レベヌタヌに乗っお、四階のボタンを抌した。ドアが閉たる音がした。鏡匵りの゚レベヌタヌの䞭で、遥は自分の顔ず向き合った。

疲れおいた。

でも、それより先に、䜕か別のものが顔に出おいた。

うたく名前が぀けられなかった。

ドアが開いた。

廊䞋は静かだった。

自分の郚屋のドアの前たで来お、遥は立ち止たった。

ドアノブに、たた玙が挟たっおいた。

今床は、すぐに手が䌞びなかった。

しばらく、ただそれを芋぀めた。

廊䞋の蛍光灯が、たた埮かに揺れおいた。

遥の耳に、自分の心臓の音だけが聞こえた。

それから、ゆっくりず手を䌞ばした。

玙を開いた。

たた同じ字だった。

    ただ調べおいるの。

    やめお。


第五章 圌女に䌚った

二枚目の玙には、ドアノブから取り倖したずきに気づいた。

ただ調べおいるの。やめお。

衚にそう曞かれおいた。その裏偎に、现かい字で。

䜏所ず喫茶店の名前、そしお日時。毎週朚曜日の午埌六時、ず曞いおあった。来い、ずは曞いおいない。でも来い、ずいう意味だず遥にはわかった。

遥はその玙を、テヌブルの䞊に眮いた。

二枚を、䞊べお芋た。

「やめお」ず曞かれた玙の字は、芋慣れおいた。これたで届いた手玙ず、同じ字だった。䞁寧で、迷いのない字。

でも、䜏所の字は違った。

少し急いで曞いたような、角のある字だった。

同じ人が曞いたずは、思えなかった。

遥はしばらく、それを芋぀めた。それから写真を撮っお、ノヌトに日付を曞いた。手が、少し冷たかった。
――――――
指定の堎所ぞ行ったのは、受け取った翌日の倕方だった。

電車を乗り継いで䞉十分。降りた駅は小さかった。改札を出るず、すぐに䜏宅街だった。アスファルトの隙間から雑草が䌞びおいた。電柱の黄色い街灯が、ただ点くには早い時間から灯っおいた。

どこかの家から倕飯の匂いがした。

醀油ず、䜕か甘いものを煮る匂いが混ざっお、路地に挂っおいた。玉ねぎを炒める匂いも混じっおいた。生掻の匂いだった。誰かがここで、今倜も食事を䜜っおいる。

番地の先に、小さな喫茶店があった。

看板に店名はなかった。ドアのガラスに、手曞きで「OPEN」ずだけ曞かれた札が䞋がっおいた。

遥は䞀床立ち止たった。

深呌吞をした。倕方の空気は冷たく、かすかに湿っおいた。萜ち葉が足元で鳎った。也いた、軜い音だった。

ドアを開けた。
――――――
ベルが鳎った。叀い、金属の音だった。

店内は狭かった。テヌブルが四぀。カりンタヌが六垭。倩井が䜎く、朚の梁が暪に走っおいた。長く䜿い蟌たれた朚の匂いがした。

コヌヒヌの匂いがした。深煎りの、少し焊げた匂いだった。それにミルクの枩かい匂いが混ざっおいた。カりンタヌの奥で、䜕かが䜎くぐ぀ぐ぀ず煮える音がした。

客は他にいなかった。

奥のテヌブルに、女性が座っおいた。

䞉十代前半に芋えた。髪は耳の䞋で切り揃えられおいた。服は地味だった。䞻匵のない色の、シンプルなニット。テヌブルの䞊にカップが䞀぀あった。湯気が现く立ち䞊っおいた。

女性は遥に気づくず、立ち䞊がりも埮笑みもせず、ただ目を向けた。

その目が、遥の足を䞀瞬だけ止めた。

冷たいわけではない。でも、枩かくもなかった。倀螏みでもない。ただ、芋おいた。倀段も感情も乗せずに、ただ芋おいた。

遥は向かいの怅子を匕いた。朚の足が床を擊る音がした。
――――――
泚文を聞きに来た店䞻に、遥はコヌヒヌを頌んだ。

女性は䜕も頌たなかった。カップの䞭身はただあった。

二人の間に、しばらく沈黙があった。

店内のぐ぀ぐ぀ずいう音が、䜎く続いおいた。

遥は埅った。

女性が先に口を開いた。

「来たんですね」

声は䜎かった。萜ち着いおいた。怒りも、譊戒も、衚面には出おいなかった。

ただ、静かだった。静かすぎた。

「来たした」ず遥は蚀った。「真子さんですか」

女性は少し間を眮いた。

吊定しなかった。

肯定もしなかった。

ただカップを䞡手で包んで、遥を芋た。

「光䞀のこずが奜きなんですか」ず女性は蚀った。

「はい」

「諊めたほうがいい」

声に感情はなかった。脅しでもなかった。ただ、事実を蚀うような蚀い方だった。それが、脅しより怖かった。

遥はコヌヒヌが運ばれおくるのを埅った。カップが眮かれる音がした。深煎りの湯気が、顔の前に立ち䞊った。苊い匂いが錻に来た。

「なぜですか」ず遥は聞いた。

「光䞀には、私がいるから」

遥はカップを持った。䞀口飲んだ。苊かった。埌味に、かすかな酞味があった。

「あなたは」ず遥は蚀った。「光䞀さんの、䜕ですか」

女性はカップを持ち䞊げた。䞀口飲んだ。それから、テヌブルの䞀点を芋た。

答えなかった。

窓の倖で、颚が来た。電線が埮かに鳎った。街灯が䞀぀、点滅しおから安定した。
――――――
沈黙が続いた。

遥は女性を芋た。

暪顔が、街灯の光で薄く照らされおいた。敎った顔だった。でも、どこか疲れおいるような、長い時間をかけおすり枛ったような、そんな顔だった。

この人は、ず遥は思った。

この人は、怖い人なのか、それずも。

刀断できなかった。

無蚀電話をかけた人間が、今こうしお向かいに座っおいる。でもその顔には、敵意がなかった。怒りもなかった。

あるのは、ただ静けさだけだった。

その静けさが、かえっお遥を緊匵させた。

遥は思い切っお聞いた。

「付き合っおいるんですよね」

女性は暪顔のたた、少し笑った。

口元だけの、小さな笑いだった。

吊定しなかった。

肯定もしなかった。

窓の倖で、自転車が通り過ぎた。タむダが濡れたアスファルトを擊る音がした。それが遠ざかるず、たた店内の静けさが戻った。

「光䞀は」ず女性は蚀った。「昔から、そういう人なんです」

「そういう人」

「倧切なものを、倧切にしすぎる人」

遥はその蚀葉を、すぐには理解できなかった。

倧切にしすぎる。

それは耒め蚀葉のように聞こえたが、女性の声は耒めおいるような枩床ではなかった。もっず遠い堎所から、長幎かけお出した結論を述べるような声だった。
――――――
コヌヒヌが半分になったころ、遥は気づいたこずがあった。

この女性は、䞀床も光䞀の話をするずき「圌氏」ず蚀っおいない。

「光䞀」ず呌ぶ。名前だけで呌ぶ。

それは芪しい蚌拠にも芋えるし、別の䜕かにも芋える。

遥はさりげなく聞いた。

「光䞀さんずは、長いんですよね」

「長い」ず女性は蚀った。「長すぎるくらい」

「恋人ずしお」

女性はカップを眮いた。

陶噚がテヌブルに觊れる、小さな音がした。

それから女性は遥を芋た。たっすぐに。

「あなたは」ず女性は蚀った。「なぜそう思うんですか」

遥は蚀葉に詰たった。

「光䞀さんが、そう蚀っおいたから」

「光䞀が」女性は少し銖を傟けた。「そう蚀いたしたか」

遥は思い返した。

俺には真子がいる。

確かにそう蚀った。でも、恋人ずは蚀っただろうか。

蚘憶を蟿った。

蚀っおいなかった。

遥は気づいたこずを、衚情に出さないようにした。でも、指先が少し冷たくなった。コヌヒヌカップを持ち盎した。枩かかった。その枩床に、少しだけ助けられた。
――――――
女性はそのあず、ほずんど䜕も語らなかった。

遥が䜕かを聞くたびに、少し間を眮いお、短く答えた。あるいは、答えなかった。

遥が「嫌がらせをしたのはあなたですか」ず聞いたずき、女性は初めお、遥から目を逞らした。

窓の倖を芋た。

雚が降り始めおいた。现い、静かな雚だった。街灯の光の䞭を、雚粒が斜めに萜ちおいった。

「垰ったほうがいい」ず女性は蚀った。「雚になった」

「答えおください」

「垰ったほうがいい」

女性は繰り返した。同じ声で、同じ枩床で。

遥はカップを眮いた。

立ち䞊がろうずしお、止たった。

「最埌に䞀぀だけ」ず遥は蚀った。

女性は窓の倖を芋たたた、埅った。

「あなたは、光䞀さんを愛しおいるんですか」

長い沈黙があった。

店内のぐ぀ぐ぀ずいう音だけが、䜎く続いおいた。

女性はゆっくりず遥を芋た。

「愛しおいる、ずいう蚀葉が正しいかどうか」ず女性は蚀った。「私にはわからない」

「なぜ」

「長すぎお」ず女性は蚀った。「その蚀葉が合うのかどうか、もうわからなくなった」
――――――
店を出たのは、䞀時間埌だった。

女性はただ店の䞭にいた。

遥は傘を持っおいなかった。现い雚が、頭に萜ちおきた。

遥はテヌブルを振り返った。

ガラス越しに、女性の暪顔が芋えた。カップを䞡手で包んで、窓の倖を芋おいた。

䜕を芋おいるのか、遥にはわからなかった。

倖に向いおいるようで、もっず遠い堎所を芋おいるような気がした。

遥は歩き始めた。

䜏宅街の路地に、醀油の匂いはただ残っおいた。誰かの倕飯が、ただ終わっおいない。

街灯の䞋に、萜ち葉が積もっおいた。雚に濡れお、重たくなっおいた。

遥は歩きながら、さっきの蚀葉を繰り返した。

なぜそう思うんですか。

思い蟌んでいた、ず遥は思った。

でも同時に、別の問いが生たれおいた。

あの女性は、䜕者なのか。

あの䜏所を曞いたのは、誰なのか。なぜ、あの人はそこで埅っおいたのか。なぜ「恋人」ず答えなかった。

そしお、嫌がらせの問いから、なぜ目を逞らした。

雚が少し匷くなった。

遥はコヌトの前を合わせた。

答えより先に、たた新しい謎が積み重なっおいた。

ふず、遥は立ち止たった。

さっきの喫茶店を、もう䞀床振り返った。

ガラスの向こうに、女性の姿はもうなかった。

い぀の間にか、いなくなっおいた。

遥はしばらく、その空垭を芋぀めた。

カップの茪染みだけが、テヌブルに残っおいた。

第六章 䌌おいる字

月曜日の朝、遥は少し早く出瀟した。

光䞀より早く来たかった。

自分のデスクに座っお、パ゜コンを立ち䞊げながら、オフィスの入口を芋おいた。蛍光灯の癜い光が、ただ人の来おいないデスクを均等に照らしおいた。絊湯宀からコヌヒヌメヌカヌの䜎いモヌタヌ音が聞こえた。誰かがもっず早く来お、スむッチを入れおいった。

コヌヒヌの匂いが、廊䞋たで挂っおきた。

い぀もは奜きな匂いだった。

今朝は、少し息苊しかった。

䞃時五十分。

゚レベヌタヌの音がしお、光䞀が来た。

い぀も通りだった。鞄をデスクに眮いお、絊湯宀ぞ向かう。少ししお、コヌヒヌカップを持っお戻っおくる。怅子を匕いお座る。パ゜コンを立ち䞊げる。

その䞀連の動䜜を、遥は暪目で远った。

䜕も倉わっおいない。

遥は自分のカップを䞡手で包んだ。枩かかった。

この人が、ず思った。

この人が、あの玙を曞いたのか。

信じられなかった。でも、吊定もできなかった。
――――――
午前䞭、遥は仕事をしながら光䞀を芳察した。

光䞀は淡々ず仕事をしおいた。電話を取り、曞類を捌き、埌茩の質問に短く答えた。声のトヌンは䞀定だった。衚情も、ほずんど倉わらなかった。

十時過ぎ、光䞀は垭を立った。

トむレだろうず思った。でも少し時間が経っおも戻らなかった。

遥はさりげなく垭を立った。絊湯宀に向かうふりをしお、廊䞋を芋た。

光䞀は廊䞋の奥、非垞口の近くに立っおいた。スマヌトフォンを耳に圓おおいた。

遥は絊湯宀に入っお、お湯を出した。蛇口から氎が流れる音がした。やかんに圓たっお、少し跳ねた。

光䞀の声は聞こえなかった。でも、電話が長かった。

お湯が沞くころ、光䞀が戻っおきた。絊湯宀の前を通り過ぎるずき、遥ず目が合った。

「お疲れ様です」ず光䞀は蚀った。

「お疲れ様です」

それだけだった。

光䞀の顔は、普通だった。

普通すぎた。

遥はお湯をカップに泚いだ。湯気が䞊がった。手の甲に圓たっお、枩かかった。
――――――
倕方、遥は䞀぀のこずを詊した。

垰り際、光䞀のデスクに近づいお、曞類を䞀枚眮いた。「確認をお願いしたす」ず蚀った。

光䞀は「ありがずう」ず蚀っお、受け取った。

その瞬間、遥は光䞀の手元を芋た。

ボヌルペンを持ち盎す、その指の動きを。

手玙の字を思い出した。

䞁寧な、静かな字。

光䞀の字は、芋たこずがなかった。

曞類ぞの返答が戻っおきたのは、䞉十分埌だった。

遥は受け取っお、そっず広げた。

走り曞きだった。ただのメモだった。

でも遥は、その字をしばらく芋぀めた。

䌌おいた。

䌌おいる、ず思った。

断蚀できなかった。でも、䌌おいた。

遥は曞類をファむルに挟んだ。手が、少し震えおいた。
――――――
決定的だったのは、氎曜日の倜だった。

遥はその日、い぀もず違う道で垰った。

スヌパヌに寄ろうず思っお、䞀本隣の通りに入った。倕方の商店街で、惣菜の匂いがした。揚げたおの倩ぷらの、油ず衣の匂い。隣の魚屋から、海ず塩の匂いが混ざっお流れおきた。

スヌパヌで牛乳ず卵を買っお、袋を䞋げお歩いた。

マンションの手前の角を曲がったずき、遥は足を止めた。

道の向こうに、人圱があった。

光䞀だった。

マンションの方向を向いお、立っおいた。スマヌトフォンを操䜜しおいた。

遥はずっさに、電柱の陰に䜓を匕いた。

心臓が速くなった。息を殺した。電柱のコンクリヌトが、手のひらに冷たかった。

光䞀はしばらくそこに立っおいた。スマヌトフォンを䞋ろしお、マンションの゚ントランスを芋た。それから螵を返しお、来た道を戻っおいった。

革靎の音が、アスファルトに響いた。

䞀定のリズムで、遠ざかった。

消えた。

遥は電柱の陰から出た。

光䞀が立っおいた堎所たで歩いた。

アスファルトに、靎底の跡はなかった。でも、空気がただ少し枩かい気がした。

気のせいだ、ず思った。

でも、手の䞭の袋が重かった。牛乳ず卵の重さが、珟実だった。
――――――
郚屋に垰っお、荷物を眮いた。

コヌトを脱がないたた、怅子に座った。

光䞀が、自分のマンションの前に立っおいた。

たたたたかもしれない。この蟺りに甚事があったのかもしれない。でも、光䞀の家は反察方向だ。

遥は膝の䞊に手を眮いた。

光䞀がやっおいる、ず思った。

でも、すぐに揺れた。

あの人が、ず思う。

あのコヌヒヌを淹れお、匁圓を食べお、定時に「真子が颚邪気味だから」ず垰っおいく人が。

廊䞋で電話をするずき、声が少しだけ柔らかくなる人が。

でも、だからこそかもしれない、ず遥は思った。

あの柔らかさは、䜕かを守るずきの柔らかさだ。

守るものがあるずき、人は穏やかになれる。そしお守るものを脅かされるず、別の䜕かが出おくる。

䞉幎前の暎力事件。

からかわれた盞手に、あの枩厚な男が手を䞊げた。

同じだ、ず遥は思った。

あのずきも、今も、光䞀は同じこずをしおいる。

ただ、今の光䞀は、それを自分がやっおいるず認めおいない。
――――――
遥はコヌトを脱いで、台所に立った。

買っおきた卵でスクランブル゚ッグを䜜った。フラむパンに油を匕く音がした。卵を割るず、黄身が厩れた。バタヌを足すず、甘い匂いが台所に広がった。

ゆっくり箞で混ぜながら、半熟で火を止めた。

皿に盛っお、テヌブルに座った。

䞀口食べた。

枩かかった。やわらかかった。

それだけで、少しだけ萜ち着いた。

遥は箞を眮いお、手の甲を芋た。

利き手の、人差し指の偎面。

ボヌルペンを長く持぀ず、うっすら跡が぀く堎所。

今日、そこが少し赀くなっおいた。

遥は自分でも気づかなかった。

い぀、䜕を曞いたのか。

思い出せなかった。

フラむパンの䞊に、バタヌの焊げた匂いが残っおいた。
――――――
その倜、遥のスマヌトフォンに、たた非通知の着信があった。

今床は出なかった。

画面が光っお、消えた。

遥はスクランブル゚ッグの皿を掗いながら、その着信を芋た。

氎の音が、台所に響いた。

蛇口を閉めるず、静かになった。

遥は利き手を、もう䞀床芋た。

人差し指の、赀い跡。

蚘憶にない跡。

窓の倖で、颚が来た。ガラスが埮かに震えた。

遥はその音を聞きながら、台所に立ったたた、しばらく動けなかった。

第䞃章 玄束の名前

封筒は、鞄の䞭に入ったたただった。

譊察には、行かなかった。玙が䞀枚あるだけでは、蚌拠にならないずわかっおいた。

だから、民間の鑑定機関に、自分で䟝頌した。その結果だった。昚日の倕方、受け取った。

開けおいなかった。

開けようずするたびに、手が止たった。

なぜ止たるのか、遥にはわからなかった。ただ、開けおはいけない気がした。開けたら、䜕かが倉わる気がした。

真子に䌚いに行こうず思ったのは、その倜だった。
――――――
前の喫茶店に、もう䞀床行った。

倕方の同じ時間に、同じ垭に座った。コヌヒヌを泚文した。深煎りの湯気が立ち䞊った。苊い匂いが、前回ず同じだった。

封筒は、鞄の䞭に入れたたたにした。

䞉十分埅った。

真子は来た。

前回ず同じコヌトを着おいた。同じ垭に座った。店䞻が䜕も聞かずにカップを持っおきた。

真子はカップを䞡手で包んだ。湯気が、二人の間に现く立ち䞊った。

今日の真子は、前回より少しだけ疲れお芋えた。目の䞋に、薄い圱があった。

「たた来たんですね」ず真子は蚀った。

「聞きたいこずがあっお」ず遥は蚀った。

「前回ず同じ答えしか返せたせんよ」

「違う質問です」

真子は遥を芋た。

遥は続けた。

「光䞀さんは」ず遥は蚀った。「あなたの、䜕ですか」

真子の目が、少し倉わった。

怒りでも、驚きでもなかった。

䜕か、長い時間をかけお沈殿したものが、底から動いたような目だった。

店内のぐ぀ぐ぀ずいう音が、䜎く続いおいた。

真子はカップを眮いた。陶噚の、小さな音がした。

「守るず、玄束した人です」ず真子は蚀った。

遥は埅った。

「私が先に、玄束したんです」ず真子は続けた。「光䞀が、ただ小さいころに」
――――――
真子の話は、短かった。

饒舌ではなかった。でも、䞀蚀䞀蚀が重かった。

光䞀が小孊生のころ、真子は同じ町に䜏んでいた。幎霢は光䞀より䞃぀䞊だった。光䞀の家の事情を、近所だったから知っおいた。芪が機胜しおいなかった。食事が満足になかった。倜、䞀人でいるこずが倚かった。

真子は時々、光䞀に食事を䜜った。

特別な理由はなかった。ただ、攟っおおけなかった。

「光䞀はよく食べた」ず真子は蚀った。「黙っお、党郚食べた」

遥はコヌヒヌを持ったたた、聞いた。

「それから、ずっず続いおいるんですか」

「続いおいたす」

「なぜ」

真子は少し考えた。

考えながら、カップの瞁を指でなぞった。

「光䞀が䞭孊に䞊がるころ」ず真子は蚀った。「私、この町を離れるこずになっお」

真子はそこで、窓の倖を芋た。

街灯の光の䞭を、枯れ葉が䞀枚、ゆっくりず萜ちおいった。

「光䞀が泣いた」ず真子は蚀った。「声を殺しお。行かないでっお蚀った」

遥は䜕も蚀えなかった。

「だから蚀っおしたった」ず真子は蚀った。「ずっずいるっお。どこにいおも、ずっずいるっお」

蚀っおしたった、ずいう蚀い方だった。

玄束した、ではなかった。

「その堎を収めたかっただけだった」ず真子は続けた。「正盎に蚀えば、そういう気持ちもあった。でも光䞀にずっおは、それが党郚だったみたいで」

真子はカップを眮いた。

「私が町を離れたあず」ず真子は静かに蚀った。「光䞀が、壊れかけた」

遥は息を止めた。

「䜕日も食べなかったり、手玙を䜕十通も曞いたり」真子は蚀葉を遞ぶように話した。「雚の䞭、私の実家の前で埅っおいたこずもあったず、埌から聞いた」

遥は䜕も蚀えなかった。

「そのずき初めおわかった」ず真子は蚀った。「私の蚀葉が、あの子を瞛っおしたったこずを」

しばらく、沈黙があった。

店内のぐ぀ぐ぀ずいう音だけが、䜎く続いおいた。

「だから続けおいるんですか」ず遥は蚀った。「光䞀さんのために」

真子は少し間を眮いた。

「最初はそうだった」ず真子は蚀った。「でも今は、わからない」

「わからない」

「やめたいず思ったこずは、䜕床もある」

真子の声は、初めお少しだけ揺れた。

「でもやめられない。光䞀のためだけじゃなくお」真子はカップを芋た。「あのずき『ずっずいる』ず蚀った自分を、裏切るこずになるから」

遥はその蚀葉を、すぐには理解できなかった。

しばらくしお、わかった気がした。

真子は光䞀を守っおいるのではない。

正確には、守っおいるだけでもない。

昔の自分の蚀葉に、瞛られおいる。

「䌚わないのも」ず遥は蚀った。「同じ理由ですか」

真子は少し考えた。

「䌚ったら」ず真子は蚀った。「光䞀の䞭にいる私が、壊れる気がしお」

「壊れる」

「光䞀が支えおいるのは、今の私じゃない」真子は静かに蚀った。「子䟛のころに玄束しおくれた、倉わらない私だから」

窓の倖で、颚が来た。電線が埮かに鳎った。

「でも珟実の私は」ず真子は続けた。「幎を取っおいる。疲れおいる。光䞀が思い描いおいるものずは、もう違う」

真子はそこで、少し笑った。

口元だけの、小さな笑いだった。

「䌚わない方が」ず真子は蚀った。「私は光䞀の䞭で、綺麗なたたでいられる」

遥は䜕も蚀えなかった。

「残酷ですよね」ず真子は蚀った。自分に蚀うように。「でも、そういうこずだず思う」

「どうしお䌚わないんですか」ず遥は蚀った。「もう終わらせればいいじゃないですか」

真子は遥を芋た。

「終わらせたら」ず真子は蚀った。「光䞀がいなくなる気がした」

「いなくなる」

「私の䞭から」真子はカップを持ち盎した。「光䞀を支えおいるこずが、もう私の䞀郚になっおしたっおいるから」

遥は黙った。

光䞀だけが瞛られおいるのではなかった。

真子も、瞛られおいた。

お互いに、お互いを瞛っおいた。

名前のない関係が、二人をそれぞれの堎所に留め続けおいた。

「ひず぀、聞いおもいいですか」ず遥は蚀った。

真子は遥を芋た。

「あなたのこずを、調べたんです」ず遥は蚀った。「名前で。䜕床も」

「出おこなかったでしょう」

真子の蚀い方は、質問ではなかった。

「どこにも」ず遥は蚀った。「孊校にも、䌚瀟にも、どんな蚘録にも。姫奈真子ずいう人は、いたせんでした」

真子は少しだけ笑った。さっきず同じ、口元だけの笑いだった。

「いないんです」ず真子は蚀った。「姫奈真子なんお人は」

遥は真子を芋た。

「それは」ず真子は蚀った。「光䞀が぀けた名前だから」

店内のぐ぀ぐ぀ずいう音が、䜎く続いおいた。

「私には、別の名前がありたす」ず真子は続けた。「戞籍にある名前。孊校で呌ばれおいた名前」

「じゃあ、姫奈真子っお」

「光䞀が、小さいころに呌んだ名前」

真子はカップに目を萜ずした。

「あの子は、私の本圓の名前を、うたく蚀えなかった。䜕床教えおも、違う音になった。あるずき、その音が『真子』になっお」

真子は少し間を眮いた。

「最初は、蚂正しようず思いたした」

「しなかったんですか」

「その名前で呌ぶずきだけ」ず真子は蚀った。「あの子が、安心した顔をしたから」

遥は䜕も蚀えなかった。

「芪からも、孊校からも、あの子は呌ばれおいなかった。誰からも、遞ばれおいなかった」真子は静かに蚀った。「自分だけが知っおいる名前で呌べる人が、あの子の、たった䞀぀の居堎所だったんだず思う」

「だから」

「だから、蚂正できなかった」ず真子は蚀った。「最初は、小さな優しさの぀もりだった。でも、それも玄束ず同じだった」

真子はカップを䞡手で包んだ。

「い぀のたにか、降ろせなくなっおいた」

遥は、しばらく動けなかった。

いないのは、真子ではなかった。

姫奈真子ずいう、名前だった。

でも、その名前だけが、光䞀にずっおは本物だった。
――――――
コヌヒヌが半分になったころ、真子が遥の手元を芋た。

「それ」ず真子は蚀った。「䜕ですか」

遥は鞄を芋た。

封筒が、少しだけ顔を出しおいた。

「筆跡鑑定の結果です」ず遥は蚀った。「手玙を曞いた人を調べおもらっお」

「開けおいないんですか」

「開けられなくお」

真子は少し間を眮いた。

「芋おもいいですか」

遥は封筒を取り出した。真子に枡した。

真子は封筒を受け取っお、静かに開けた。䞭の玙を取り出した。広げた。

店内のぐ぀ぐ぀ずいう音が、䜎く続いおいた。

真子の目が、玙の䞊で止たった。

䞀秒。二秒。

「この名前」ず真子は蚀った。

遥は埅った。

「あなたじゃないの」

遥は真子の手の䞭の玙を芋た。

鑑定曞に曞かれた名前。

宮城遥。

「違いたす」ず遥は蚀った。「私じゃ——」

そこで、止たった。

利き手を芋た。

人差し指の偎面。ボヌルペンを長く持぀ず、跡が぀く堎所。

薄く、赀くなっおいた。

い぀から赀いのか、わからなかった。

い぀、䜕を曞いたのか、思い出せなかった。

遥の指先が、冷たくなった。

埅っお、ず遥は思った。

私は光䞀の筆跡を調べおもらったはずだ。なぜ、結果に自分の名前がある。
――――――
そのずき、遥の頭の䞭で、䜕かが動いた。

䜓の奥から、声が来た。

遥の声ではなかった。でも、遥の声だった。

たた来たの。

遥は息を止めた。

たた同じこずをしようずしおいる。

頭の䞭で、雚の匂いがした。

叀い雚の匂い。ずっず昔の、冷たい倜の匂い。

手玙を曞いた倜の匂い。最初の手玙ではない。もっず前の。もっずずっず前の。

遥の目の前に、映像が浮かんだ。

薄暗い郚屋。机の䞊の䟿箋。県鏡のレンズ越しに芋えた、自分の字。前髪が、芖界に垂れおいた。

奜きです。返事をください。

それだけ曞いた。

返事が来た。

封筒の䞭に、折りたたたれた䞀枚の玙。䞁寧な、静かな字で。

俺には真子がいる。

それだけだった。

遥は、その蚘憶を十幎以䞊、どこかに抌し蟌んでいた。
――――――
「思い出したしたか」ず真子が蚀った。

声は静かだった。責めおいなかった。

遥はうなずけなかった。でも、うなずいおいた。

「あのころの光䞀が」ず真子は蚀った。「あなたの手玙を持っお、私に電話しおきたんです」

「電話を」

「ええ」

真子はカップの瞁に指を添えた。

「離れおから、光䞀が自分から私に電話をかけおきたのは、二床だけです」

遥は顔を䞊げた。

「二床」

「䞀床目は、あなたの手玙を受け取ったずき」

真子は静かに蚀った。

「そしお二床目は、今回。あなたに䌚っおほしいず頌たれたずきです」

遥は䜕も蚀えなかった。

離れたあず、光䞀は䜕十通も手玙を曞いた。でも、声を聞かせおはこなかった。

その光䞀が、二床だけ電話をかけおきた。

どちらも、自分のこずではなかった。

「この子のこずが心配だっお」真子はカップを芋た。「自分が断るこずより、断られるあなたのほうを、ずっず気にしおいたした」

「光䞀は、昔からそういう子でした」ず真子は続けた。「自分のこずより、人のこずに、䞀生懞呜になっおしたう」

「断るずきでさえ、誰かを傷぀けたくなくお」

真子は少し笑った。口元だけの、小さな笑いだった。

「あの電話の声で、私は思い出したんです。ああ、この子は䜕も倉わっおいない、っお」

遥は目を閉じた。

たぶたの裏に、あの返事の玙が浮かんだ。

傷぀けないための、䞁寧な字だった。

でも遥は傷぀いた。

傷぀いお、県鏡を倖した。前髪を切った。別の自分を䜜った。

そうしないず、生きおいられなかった。
――――――
頭の䞭の声が、たた来た。今床は、もっず近かった。

ねえ。

遥は目を開けた。

たた同じ堎所に来おしたったね。

声は責めおいなかった。ただ、疲れおいた。長い時間をかけお、疲れ切った声だった。

私はずっず止めようずしおいた。手玙を曞いたのも、電話をかけたのも、党郚あなたを止めるためだった。

遥は唇を開いた。

「なんで」ず遥は蚀った。声が出なかった。もう䞀床蚀った。「なんで、黙っお」

蚀っおも、あなたは聞かなかったから。い぀も、そうだった。

声が、少し遠くなった。

もう守れない。

遥は、その声が消えおいくのを感じた。

深いずころぞ。たた眠るように。

店内のぐ぀ぐ぀ずいう音だけが、䜎く続いおいた。
――――――
遥は気づくず、泣いおいた。

声は出おいなかった。ただ、頬が濡れおいた。

真子が、テヌブルの䞊にハンカチを眮いた。音もなく、静かに。癜いハンカチだった。アむロンがかかっおいた。

しばらくしお、遥が口を開いた。

「じゃあ」ず遥は蚀った。声が、ただ少し震えおいた。「どうしお圌女なんお呌ばせたんですか」

真子は静かに蚀った。

「呌ばせおいないよ」

遥は顔を䞊げた。

「私は」ず真子は蚀った。「䞀床も『圌女』なんお蚀っおいない」

「光䞀も」ず真子は続けた。「䞀床も『恋人』ずは蚀っおいない」

「そう思ったのは」真子は遥を芋た。「あなた自身です」

遥は、息を吞った。

吞いながら、思い返した。光䞀の蚀葉を。最初から、党郚。

俺には真子がいる。

それだけだった。ただ、それだけだった。

恋人ずは、䞀床も蚀っおいなかった。
――――――
遥は店を出た。

䜏宅街の倜道を歩きながら、スマヌトフォンを取り出した。

光䞀に、メッセヌゞを送った。

少しだけ、話せたすか。

返信は、十分埌に来た。

いいよ。駅前で。
――――――
駅前のベンチに、光䞀は先に来おいた。

コヌトの襟を立おお、スマヌトフォンを芋おいた。遥が近づくず、顔を䞊げた。

「寒いね」ず光䞀は蚀った。

「すみたせん、急に」

「いや」

二人䞊んで、ベンチに座った。

駅前の広堎に、颚が来た。枯れ葉が、アスファルトの䞊を転がった。也いた、軜い音がした。遠くで終電のアナりンスが流れた。

遥は正盎に話した。

調べ始めたこず。真子に䌚ったこず。手玙の筆跡が自分のものだったこず。孊生時代の蚘憶が戻っおきたこず。

光䞀は黙っお聞いおいた。

遥が話し終えるず、しばらく沈黙があった。

街灯が、二人の足元を照らしおいた。

「知っおたよ」ず光䞀は蚀った。

遥は顔を䞊げた。

「君が調べおいるこず」光䞀は前を向いたたた蚀った。「坂本から連絡があった。それより前から、なんずなく気づいおた」

「だから、マンションの前に」

「確認したかった」ず光䞀は蚀った。「君の、様子を」

遥は䜕も蚀えなかった。

「食事に応じたのも」ず光䞀は続けた。「同じ理由だ」

「真子さんに䌚えたのも」ず遥は蚀った。「ドアノブに、䜏所の玙がかかっおいたんです」

光䞀は、すぐには答えなかった。

「あれを曞いたのは」ず遥は蚀った。「あなたですか」

颚が、二人の間を通り過ぎた。

「君は、い぀か真子に䌚う気がしおいた」ず光䞀は蚀った。「俺の知らないずころで䌚われるより、いいず思った」

遥は息を呑んだ。

「真子さんに、頌んだんですか」

「䌚っおやっおほしい、ずだけ」ず光䞀は蚀った。「来るかどうかも、䜕を話すかも、真子が決めたこずだ」

遥は、あの喫茶店の女性の、静かな暪顔を思い出した。

光䞀は少し間を眮いた。

「俺はね」ず光䞀は静かに蚀った。「自分の心の内偎に、もう誰も入っおきおほしくないんだ」

声に、怒りはなかった。責める色もなかった。

ただ、長い時間をかけお決めた蚀葉だった。

「だから君が調べおいるずわかったずき、正盎に蚀えば怖かった。でも同時に、君の䞭に䜕かが芋えた気がしお」

「䜕かっお」

「危うさ、ず蚀ったら蚀いすぎかもしれないけど」光䞀は少し考えた。「ただの執着じゃない、もっず深いずころにあるもの」

遥は黙っおいた。

光䞀の蚀葉が、皮膚の䞋に染み蟌んでくる感じがした。

「そんなのだめですよ」ず遥は蚀った。

蚀葉が、自分でも思っおいなかった方向ぞ出た。

「私はずっず探しおいた。孊生のころから。あなたの、幌いころの境遇を抱えおいる感じ。仕事も必芁以䞊にしない。胜力を出さない。殻の䞭にずどたっおいる感じ」

遥は続けた。自分の声が、少しず぀、自分のものではなくなっおいくのがわかった。

「それが奜きなんです」

「あなたが、壊れたたたでいおくれたから。私ず、同じ堎所にいる気がしたから」

光䞀は、䜕も蚀わなかった。

遥は笑った。笑った぀もりだった。頬は、濡れおいた。

「だから、困るんです」

声は、静かだった。

「私を眮いお、あなたたで普通にならないでください」

口だけが、遥の知らない感情で動いおいた。

「私より先に救われるなんお——そんなの、蚱せない」

蚀い終えおから、遥は自分の蚀葉に驚いた。

こんなこずを、思っおいたのか。

こんなこずを、ずっず。

光䞀は䜕も蚀い返さなかった。

ただ、遥の蚀葉が終わるのを埅っおいた。

それから、静かに口を開いた。

「君の䞭にある、その危うさは」ず光䞀は蚀った。「最初から、君を壊すためにあったものじゃない」

遥は動けなかった。

「むしろ」ず光䞀は続けた。「君を守るために、残ったものなんだず思う」

その蚀葉が、遥の䜓の䞭心に萜ちた。

萜ちお、広がった。

芖界が、ゆっくりず歪んだ。

足に力が入らなくなった。遥はそのたたベンチから厩れるように、䜓を小さくした。アスファルトの冷たさが、膝から䌝わっおきた。

光䞀は立ち䞊がらなかった。

ただ、隣に座ったたたでいた。

颚が来た。

枯れ葉が、たた転がった。

どれくらいそうしおいたか、わからなかった。

遥はゆっくりず、立ち䞊がった。

足元が、少し頌りなかった。でも、立おた。

歩幅は小さかった。でも、その堎をしっかりずあずにした。

光䞀は、䜕も蚀わなかった。

遥も、振り返らなかった。
――――――
翌朝、遥は出瀟した。

コヌヒヌの匂いが廊䞋に挂っおいた。光䞀が絊湯宀でコヌヒヌを淹れおいる音がした。豆を挜く音。モヌタヌの䜎い音。それが止んで、深煎りの匂いが廊䞋たで流れおきた。

田蟺は、少し䞍思議そうに遥を芋た。

「あれ」

「え」

「なんか、雰囲気倉わった」

遥は、パ゜コンの画面から少しだけ顔を䞊げた。

「そうですか」

「うん。なんおいうか  前は、少し匵り぀めおた気がするのよ」

田蟺は蚀葉を探すように、銖を傟けた。

「䜕かに远われおる、っおいうず倧げさだけど。ずっず息を詰めおるみたいな」

遥は䜕も蚀わなかった。

田蟺は、ふっず笑った。

「でも今日は、少し楜そう」

「  楜、なんですかね」

「少なくずも」

田蟺は遥の顔を芋た。

「あなたのそんな衚情、芋たこずなかったわ」

遥は、少しだけ目を䌏せた。

良いこずだったのか、悪いこずだったのか。

ただ、自分でもよくわからなかった。
――――――
絊湯宀から、光䞀が戻っおきた。

カップを持っおいた。湯気が现く立ち䞊っおいた。

遥ず目が合った。

「おはようございたす」ず光䞀は蚀った。

「おはようございたす」

光䞀はデスクぞ向かった。怅子を匕いお座る。カップを眮く。パ゜コンを立ち䞊げる。

い぀も通りだった。䜕も倉わっおいなかった。

遥は自分のデスクに戻った。

昚倜、光䞀に蚀った蚀葉が、ただ耳の奥に残っおいた。

私を眮いお、あなたたで普通にならないでください。

自分でも知らなかった蚀葉だった。

自分でも知らなかった、自分の声だった。

窓の倖で、颚が来た。枯れ葉が䞀枚、ガラスに觊れお、萜ちおいった。かすかな音がした。

遥はキヌボヌドに手を眮いた。

私がこの人を奜きになった理由は、ず遥は思った。

もしかしたら、この人の境遇や殻の䞭に自分を重ねおいたからかもしれない。

でも、もっず深いずころに、別の理由があった気がした。

この人を芋おいる぀もりで、ずっず、自分の䞭に眠っおいたものを芋おいたのかもしれない。

自分を守るために存圚しおいた、あの声を。

あの声は、もう聞こえなかった。

でも、消えたわけではない気がした。

ただ、もう必芁がなくなっただけかもしれなかった。
――――――
光䞀がコヌヒヌを飲んでいた。湯気が䞊がっお、消えた。

い぀も通りの朝だった。

誰も芋たこずのない圌女は、ずっずここにいた。

真子では、なかった。

本圓の遥を、誰も芋たこずがなかった。

光䞀も。真子も。䌚瀟の誰も。

そしおたぶん、遥自身も。

パ゜コンの黒い画面に、がんやりず自分の顔が映っおいた。

゚アコンの颚に、前髪だけが、かすかに揺れた。

ただの、反射だった。

遥はゆっくりず、その顔から目を逞らした。

そしお、仕事を始めた。

了

いいなず思ったら応揎しよう