見出し画像

主婦歴13年、犯してはならないタブー。

主婦になって13年が経つ。そしてこの13年間、我が家の台所で絶対に犯してはならない禁忌がある。

それは油を鍋に注ぎ、加熱し、食材を投入するという一連の儀式。

そう、揚げ物だ。

私は13年間、一度たりとも家で揚げ物を作ったことがない。唐揚げも、とんかつも、天ぷらも。我が家のコンロで油が爆ぜた歴史はゼロである。

とはいえ私は揚げ物を心から愛している。だからこそ、たまにどうしても油を体内に注入したいという衝動が抑えきれなくなると、一人でとんかつ屋の暖簾をくぐる。

席に座り、メニューを開く。「今日は純粋にとんかつを食べに来た」と自分に言い聞かせる。しかし次の瞬間には、私の指先は『ミックスフライ定食(大盛)』を指している。

せっかくプロの揚げ場に来たのだ。エビフライのプリプリも捨てがたいし、メンチカツの肉汁も吸いたい。なんならカニクリームコロッケのトロトロで口内を火傷したい。初心なんていう生ぬるい理念は、油の香ばしい匂いの前にあっけなく霧散する。

そう、揚げ物は食べるぶんには人類史上最高の発明なのだ。問題は「作る」という行為である。

なぜ私は作らないのか。面倒だから? 後片付けが嫌だから?甘い。そんな生半可な理由ではない。私は知っているのだ。油という物質が持つ、真の恐ろしさを。

あれは、一人暮らしを始めたばかりの若かりし頃だった。「揚げ物って、料理してるっぽいからやってみたい」とままごと感覚で鍋に油を注いだ。

台所は地獄と化した。油は私の予測を遥かに超える飛翔力を見せ、コンロどころか壁、床、果てはなぜか数メートル離れた電子レンジの扉までベタベタにした。フローリングはスケートリンクのように滑り、踏み込むたびにツルッと命の危機を感じる。

さらに恐ろしいのは、使用後の鍋だ。ギトギトの鍋をスポンジでこする。流す。まだヌルヌルする。もう一度洗剤をドバドバかける。こする。流す。やっぱりヌルヌルする。もはや鍋が油を生成しているのかと思う怪奇現象。

あの時私は悟ったのだ。料理の最大の敵は、作る苦労ではない。油というしつこすぎる執着心との死闘なのだと。

娘たちは唐揚げが大好きだし、フライドポテトを出せば目が輝く。もちろん私も食べたい。揚げたてをハフハフしながらビールで流し込みたい。けれど私は13年間、頑なに作らなかった。

ありがたいことに、夫も「なんで家で唐揚げが出ないの?」という野暮な質問をしてこない。結果として、我が家において揚げ物はスーパーの惣菜コーナーまたは、外食産業というプロフェッショナル集団によってのみ供給される高貴な食べ物という認識で完全に固定された。

もしかすると娘たちは、揚げ物というものが工場かお店でしか生み出せない特殊な物体だと思っているかもしれない。一般家庭の台所でも錬成できるという事実を、彼女たちはまだ知らない可能性があるのだ。

そんな我が家に、先日激震が走った。沖縄物産展で、サーターアンダギーの素に出会ってしまったのだ。パッケージの裏面を見ると、粉を混ぜて油で揚げるだけと書かれている。

一瞬、脳内に悪魔が囁いた。

(あれ…これならいけるんじゃね?揚げたてのサーターアンダギー、絶対おいしいよね?娘たち、大喜びで「ママすごーい!」って言ってくれそう……?)

私は袋を握りしめたまま、立ち尽くした。脳内で急速にシミュレーションが始まる。

油を冷ます時間。
油を固める時間。
油ハネでベタついたコンロを拭く時間。
「こんなところにも油飛んでる!」と床に跪いて雑巾がけをする未来の自分。

静かに袋を棚に戻した。13年の実績は伊達じゃない。私の理性は勝利したのだ。

とはいえたまに思う。一度くらい、娘たちに「お母さんの作った揚げたて唐揚げだよ!」と出して、「ママの唐揚げがいちばん美味しい!」なんて言われてみたい気もする。親心として。

作戦を練るか、覚悟を決めて揚げるか、それとも惣菜屋に走るか。葛藤の末、私は今日も静かにスーパーの惣菜コーナーへとダッシュする。

主婦歴13年。我が家の揚げ物のクオリティは、今日も日本の優秀な惣菜技術によって固く守られている。

娘たちよ、ごめん。揚げ物は本当は家でも作れるんだ。でもどうか、もう少しだけその事実を知らないままでいておくれ。

大好物。

いいなと思ったら応援しよう!