
福井・鯖江メガネ 〜雪国の農村は、なぜ世界有数のメガネ産地になったのか〜 Roots Lab No,17
あなたが今かけているメガネが日本製なら、そのフレームは、かなりの確率で福井県のある地域で作られています。
国内で生産されるメガネフレームの約95パーセントが、福井市・鯖江市を中心とする福井県内の産地で作られています。この地域は、イタリアのベッルーノ、中国の深圳・東莞・温州などに広がる産地と並び、世界有数のメガネフレーム産地に数えられます。
なお、本稿で言う「鯖江メガネ」は、鯖江市だけで完結する産業を指す言葉ではありません。発祥は現在の福井市側であり、その後、鯖江市を含む福井・鯖江地域へ広がった産地全体を、いまは「鯖江」という名で象徴的に扱います。
そしてここで、一つの疑問が出てきます。
そもそもなぜ、この地域でメガネフレーム生産が盛んになったのでしょうか?
メガネは精密な工業製品であり、繊細な金具や蝶番を扱い、高度な研磨を必要とします。こうした精密な手仕事は高級品の需要の高い大都市や、熟練技術者の集まる工業地帯で発展するイメージもあります。
なぜ、港湾都市でもなく大都市からも離れておりお世辞にも立地が良いとは言えず、冬に雪深くなるという流通のハンディキャップを抱え、レンズの原料が採れるわけでも、元々メガネ職人の伝統技術が根付いていたわけでもない北陸の一角が、日本のメガネフレーム生産をほぼ一手に引き受けているのでしょうか。
本稿では、福井・鯖江がなぜメガネの産地になったのか、そしてその産地が今どのような立場に置かれているのかを、地理の視点から見ていきます。
第1章 鯖江で「新しく選ばれた」産業
「鯖江はメガネの町」と聞くと、京都の西陣織や有田の磁器とまでは言わずとも、古くからその土地に根づいた職人技であるとイメージしがちです。
しかし、この産業の歴史は意外なほど新しいものです。
始まりは1905年(明治38年)。今からおよそ120年前です。西陣織が千年以上、有田焼が400年以上の歴史を持つことを思えば、新参者と言ってよいでしょう。
しかも、始まった場所は、現在の鯖江市ではなく足羽郡麻生津村字生野、現在の福井市生野町。鯖江市に隣接する、雪深い農村でした。
メガネ作りはこの地で始まり、後に職人たちが独立し、戦後には鯖江の旧軍用地が工場に転用されるなどして、しだいに鯖江を中心とする産地へと広がっていきました。
この産業を起こしたのは、増永五左衛門という人物です。
彼は村会議員を務め、地元の農民が冬になれば田畑は雪に埋もれ、農作業はできず、現金収入を得られず困っている状況を目の当たりにしていました。
そこで五左衛門は、冬でもできて現金収入になる仕事がないかと探しました。
ここで重要な役割を果たしたのが、大阪でメガネに関わる仕事をしていた弟の幸八でした。幸八は、大都市で新聞や書籍を読む習慣が広がり、メガネの需要が高まりつつあることを知っていました。
少ない元手で始められ、これから需要が伸び、冬の屋内で続けられるメガネ製造はこれから伸びる。そう見込んで、兄弟は大阪や東京から職人を招き、村の人々に技術を学ばせたのです。つまりこの地のメガネ製造は、トレンドと地理的条件を読んだ2人の兄弟の選択と行動から始まったのです。
第2章 自然条件と手仕事の素地
なぜ、農村でメガネ作りが根づいたのでしょうか。
理由の一つは、この地域特有の豪雪が独特の地理的条件をもたらしたことにあります。
鯖江を含む福井県嶺北地方は、日本海側の多雪地域です。鯖江は豪雪地帯の中心ではありませんが、冬の積雪と寒さで農作業が止まるため農村の現金収入源が乏しいという構造は、日本海側の農村に共通するものでした。
ところがこの「足かせ」が、メガネ作りには好都合でした。メガネ作りは屋内で、細かい手作業を延々と行います。冬に雪に閉ざされ、満足に外に出ることもできず手が空いていた農村の余剰労働力は、この膨大な作業量をこなす十分なキャパシティを持っていたのです。
雪は、農業にとっては不利な条件でしたが、冬の余剰労働力を生み、それが屋内の手仕事と結びつきました。もしこの地域が雪が降らず温暖で、一年中農業ができる土地だったら、人々が未知のメガネ作りに本気で取り組む動機は乏しかった可能性が高いのです。
豪雪地帯という地理的条件に増永兄弟の選択と行動が重なったことが、この地域のメガネ産業が勃興した大きな要因と言えます。
そしてもう一つ、重要な素地がありました。
この地域には、メガネ製造の伝統こそなかったものの、越前漆器、越前和紙、越前打刃物といった手仕事の産地が近隣に広がっていました。


これらの技術が直接的にメガネに転用されたというわけではありませんが、細かな作業を根気よく続ける手仕事の文化が根づいていたことはメガネ生産が根付く上で大きなプラスだったと考えられます。
同じような構造は日本の他の雪国にも見られます。
新潟の燕三条の金属加工、富山の売薬、会津の漆器。豪雪地帯では、冬にの余剰労働力を屋内の手仕事や行商に振り向けることで、独自の産業が育ってきました。
第3章 一つの工場となった町
この地域のメガネ作りには、「分業体制」というもう一つ大きな特徴があります。
メガネフレームを一本作るには、200を超える工程があります。
金属の切断、プレス、ロウ付け、研磨、メッキ、蝶番の取り付け、塗装、組み立て、検品。これらを一つの工場がすべて担うのではなく、多くの小さな事業者が工程ごとに分担しています。産地には、各工程に特化した数百の事業所が集まっています。
この分業が成立したのにも、地理的な背景があります。
増永五左衛門は、技術を独り占めにしませんでした。招いた職人に教えさせた技術を周辺の農家へ広めたのです。ある家は研磨、ある家はロウ付けというように、家ごとに得意な工程を持つようになり、工程ごとに専門化した家内工業が地域に無数に生まれました。
これを支えたのが、産地内の近接性です。
各小工場が近い距離に集まり工程間の引継ぎがスムーズだったことが、精緻な分業のネットワーク化を可能にしました。都市では地価が高く、工程ごとに多くの小さな工房が集積することは難しいため、こうした分業スタイルはかえって生まれにくいのです。
特定の地域に同じ産業の企業や職人や技術が集まり、地域全体の競争力が高まる現象を、地理学や経済学では産業集積、あるいはクラスターと呼びます。広く捉えれば、多数の部品メーカーなど下請けを抱える自動車産業もこの集積志向の立地を持つ典型的な産業分野です。
イタリアのベッルーノのメガネ、ドイツのゾーリンゲンの刃物、スイスの時計。世界の有名な産地の多くが、この構造を持っています。
ここで、以前に見たサントリー山崎と比べると、立地の論理の違いがはっきりします。山崎のウイスキーは、その土地でしか得られない水や気候という、動かせない自然条件に縛られた立地でした。
一方、福井・鯖江のメガネは、自然条件そのものよりも、人と技術が一か所に集まることで力を持つ、集積の立地です。
この集積が、後に世界を驚かせる技術を生みました。
1980年代、福井・鯖江の産地は、加工が極めて難しいチタンを使ったフレームの開発に取り組みました。1981年頃から研究開発が進み、1983年には軽くて丈夫なチタン製フレームの開発・生産に世界で初めて成功したとされています。
これを可能にしたのも「集積」でした。各工程の専門家が集まり、ある工場が失敗しても別の工場が別の方法を試すという分散した試行錯誤が、きわめて難易度が高い素材への挑戦を支えたのです。
第4章 双子の産地と分かれた運命
ここで視点を一度、日本の外へ移してみましょう。
鯖江と並び称される世界有数のメガネ産地、イタリアのベッルーノ。その歴史をたどると、驚くほど鯖江に似ています。

ベッルーノのメガネ産業は、1878年、ドロミテ山地のふもとのカドーレ地方で始まりました。山がちなこの地域に新しい地場産業を根づかせようとする動きの中で、眼鏡工場が生まれたのです。

雪深い農村の鯖江と、山あいのベッルーノは気候や市場との距離、国家制度などの地理的条件が同じだったわけではありません。
しかし、地理的条件に恵まれない土地が暮らしを支えるために外から眼鏡という産業を移植し、家内工業の集積を育てたという構造はよく似ていました。しかも、始まった時期は27年しか違いません。2つの産地は、地球の反対側でよく似た誕生の経緯をたどったのです。
このことからわかることがあります。
それは「雪国だからメガネになった」というだけでは、説明が不足しているということです。何故なら、雪のないイタリアの山あいでも、似たことが起きていたからです。共通していたのは条件が不利な土地で生き抜こうとした人々が、眼鏡という移植可能な手仕事を選んだという選択だったと言えます。
ところが、この「双子」の運命は、その後で大きく分かれました。
かつて、2つの産地は競い合う関係にありました。しかし近年、ベッルーノは鯖江を生産量で大きく引き離したのです。何が、両者を分けたのでしょうか。
同じような経緯で生まれた2つの産地の運命を分けたのは、技術の優劣ではなく、いかに「売る」かという選択の結果だったと考えられます。
第5章 「作る」産地と「売る」産地
ベッルーノは、作るだけの産地から売る力の強い産地へと脱皮しました。
その背景には、イタリアが持つファッション産業と「Made in Italy」のブランド力があります。アパレルの世界でかつてフランスの下請けだったイタリアが自国のデザイナーを育ててブランドを生み出したように、眼鏡もまた、ファッションと結びつくことでその姿を変えました。
ベッルーノの企業は高級ブランドのメガネをライセンス生産し、眼鏡を「視力を補う器具」から「ファッションの一部」へと変化させていったのです。Made in Italyという看板が価値を持つ市場で、売る力を大きく育てたとも言えます。
やがて、ルックスオティカのような企業が、設計から製造、流通までを自社で抱える垂直統合型の企業へと成長しました。彼らが手にしたのは、優れた製品を作る力だけではなく、その価値を世界に認めさせ、自分で値段を決め、自分で売る力でした。
象徴的なのが、レイバンです。

ルックスオティカは1999年にこのアメリカ発のサングラスブランドを買収すると、生産をイタリア側の製造力を軸に再編し、販売の場も高級店へと寄せていきました。
そしてレイバンを、安売りされるサングラスから世界的なファッションブランドへと変貌させたのです。ベッルーノの強さは、作る力だけでなく、ブランドをデザインし、売り方を支配する力にありました。
一方、福井・鯖江は、「作る力」を徹底的に高めました。その結果、チタン加工に代表される技術は、世界有数の水準に達しました。
しかしその多くは他社ブランドの製品を製造するOEM、つまり下請けとしての高度化であり、自ら消費者に価値を伝え、ブランドとして売る力は長く育ちませんでした。
イタリアの眼鏡産業が生産の約9割を輸出するほど外向きの市場を持つのに対し、福井・鯖江は長く国内市場とOEMに支えられてきたのです。
統計データがこの差をはっきり示しています。
鯖江の眼鏡関連の出荷額は、1992年の1,166億円から、2016年には691億円へと、ほぼ半分に減少しました。それと反比例するように同じ時期、低価格で量産する中国の産地が急速に伸び、ある報告では、温州の生産額がおよそ20年で10倍以上に拡大したとされます。
つまり、低価格帯や量産品では、中国など海外の産地の存在感が大きくなっていったのです。
地理的条件は優れた技術を育てる要因ですが、それが評価と販売力に直結するわけではありません。そこには地理的条件の及ばない、人為的な戦略という要因が強く関わっているのです。
そして、その帰結を象徴する出来事が2018年に起きました。
ベッルーノ県アゴルドを拠点に成長した世界最大級の眼鏡企業ルックスオティカが、鯖江の主要メーカーの一つ、福井めがね工業の株式67%を取得したのです。ブランド力と販売網を制した側が、技術を究めた側の製造力を取り込んだのです。
第6章 もし、鯖江が「売る」産地を選んでいたら
もし鯖江が、技術を磨くのと同じ熱量で、ブランドと販売を育てていたら。もしOEMではなく、自分の名前で売る道を選んでいたら。或いはベッルーノがOEMに徹し続けていたら、双子の産地の運命は違っていたかもしれません。
そして、「売る」を選んで再生した日本の産地も、実際にあります。愛媛の今治タオルです。

今治もまた、安い輸入品に押され、かつて600ほどあったメーカーは100あまりに減り、海外ブランドの下請けとなっていました。つまり、鯖江とよく似た苦境に陥っていたのです。
その今治が、2006年からのブランド化に乗り出しました。「今治タオル」という産地全体のブランドを作り、その看板のもとに各社が販売を行うのです。これは、フランスのシャンパーニュ地方が、ワインの産地としてブランドを築いたのと同じ発想でした。
独自の品質基準を設け、それに合格したタオルだけにブランドのマークを与え、販売することで、今治は生産を再び増加に転じさせ、輸出も伸ばしていきました。「よい物を作っているだけでは売れない」を、「よい物を作っているからこそ売れる」へと転換した事例の一つであり、「作る産地」が「売る産地」に転換した成功例とも言えます。
地理的条件をどう生かすかは、人間側の選択です。出発点のよく似た2つの産地ですが、両者の現在地はベッルーノは「売る産地」、鯖江は「作る産地」を究めた結果であると言えます。
しかしそれはあくまでも現在地であり、これからの選択により未来は変化していく可能性があります。
近年、鯖江では、若い経営者たちが自分たちのブランドを立ち上げ、産地として世界へ売り込む試みを始めています。産地統一のブランドを掲げ、聖地として人を呼び込む動きも進んでいるのです。
まとめ
雪深い北陸の冬、現金収入を断たれた農村の人々が生き抜くために選んだ手段の延長線上に、メガネ産業があります。同じ頃、地球の反対側のイタリアの山あいでも、よく似た選択をした人々がいました。
この地域には元々、メガネ生産の素地はありませんでしたが、冬の余剰労働力と手仕事の文化があり、都市の需要トレンドを読んでメガネ産業に賭けた人々の選択がありました。
不利に見える地理的条件が、人々の選択により産業を育てるきっかけになることもあります。つまりこれは「奇跡」ではないのです。
そして、その産地がこの先どうなるかも、これからの人々の選択が決めていくでしょう。
過去の人々が地理的条件の中で選択した積み重ねが文化や産業として残り、今を生きる人々の選択によって、未来に向けて形を変えていくのです。
地理とは、生存戦略の記録である。
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