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Photo bynoriyukikawanaka

毒親という言葉がなかった時代の私の苦悩(小学生編)

    余白の人|自分追求な人

    書きたいことが沢山あってテーマがバラバラになってしまうなぁ。

    今日は私の母について書こうと思う。

    私の母はいわゆる毒親だった。

    今思うと発達障害だったと思う。
    私が思春期を過ごしたのは今から30年程前のこと。
    90年代。
    そのころは、毒親とか発達障害とか、言葉もないし、あったかもしれないけど一般的でないし、メンタルクリニックもなかった時代。
    だから、母は発達障害って言葉も知らないし、自分の生きづらさがどこから来るのかもわからず苦悩を抱えていた。
    当然私も母が発達障害だと知らず、家庭に得体の知れない違和感を感じていた。

    昔の発達障害は変わり者として認知されていた時代。
    母は繊細で、不器用で周囲の発した言葉にいちいち気にして傷ついてみたりみたいな人だった。

    そして、もれなくDNAを引き継いでいたわたしは、繊細で、子供なのに母は母で大変なんだろうと理解していたので察して大人な態度をとっていた。
    察することができたのは、愛情がないわけでは無いこともわかっていたから。母は変わった人だった。

    私は、物心つく頃から母の一方的な話をひたすら聞いてあげるということを日常としていた。
    母の悩みを聞いてあげることで母の支えになると思っていた。

    一般的な母親は子供に興味を持ち「学校どうだった?」とか会話があると思う。私と母の場合はキャッチボールでなくて、ただ母が一方的に話をしてそれを私が聞くだけだった。私から何か話すことに無意味さを感じて私も自分からあまり話すということをしなくなっていった。

    小学生の時私はいじめにあった。
    私立でないのに制服がある珍しい学校で、
    通学時20分くらい歩く間に、制服がない他の小学校の生徒3人から目をつけられて「なんで制服あるの?」「私立なの?」とか話しかけられて軽くいじめられた。
    毎日その子達とすれ違う。通学路を変えてみたり工夫したのだが、それでも完全に避けることができなかった。
    同じ学校の友達とは通学方面も違うから、私は1人ぼっちで戦っていた。
    1対3で、しかも学年が上。いじめがエスカレートして行くんじゃないかって恐怖に震えていた。

    母には言えなかった。
    母には期待できなかったから。どうせ話しても無駄だろう。
    真剣に話を聞いて共感し、対策を一緒に考えてくれるとは到底思えない。母は自分のことで一杯。

    ある日長期化するいじめに耐えられなくなって
    意を決して母に話してみようと思った。

    そして、話した時の母の反応は予想外に最悪なものだった。
    話を聞いても当然共感してくれるでもなく「そんなのやり返しておしまいよ!」
    以上だった。

    ぇえ!?
    期待していなかったけど想像以上にひどい。
    私の辛い気持ちとか全然感じていないし、やり返すことが
    できないから困ってるのに、強くなってやり返せで終わり。
    逆にショックで傷ついただけだった。

    この親は期待できない、今後この親に何か期待するのはやめよう。
    小学校4年生くらいだったと思う。
    この時決意した。
    母に何か悩みを相談するのはやめよう。

    父親も母親以上に子育てに無関心で
    私は一人っ子だったから他に相談する人はいなかった。
    その母に頼れずむしろ私が母の精神的なケアをする。

    そんな感じだった。
    でも、母が好きだった。

     
     
     
    ◻︎ 自分と向き合う時間が好きすぎて退職した人 ◻︎ 公務員として20年勤務し40代で退職 ◻︎ 絶賛わたしらしく生き直し中 ◻︎ ジャンル問わずわたしの実体験を綴る場 ◻︎ 書くこと自体が自分と向き合う時間 ◻︎ 休職・復職・家族との時間などの経験も文章  にしています。

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