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無自覚な俺と無愛想後輩の隠れ家ランチ

    【あらすじ】
     勤続年数五年目の金井棗は、生意気で無愛想な新入社員の常盤春渡と上司の板挟みに悩む日々。そんな中開催された新入社員歓迎会で、新人の女性社員をアルハラ紛いの上司から庇って酔い潰れてしまう。酔い潰れた棗を介抱した常盤はそのお礼として名前呼びをさせてほしいと言い出した。後輩なりの近付き方だと思っていた棗だったが、その翌週にはランチに誘われるように。そうして連れて行かれたお店は、棗も知らないオシャレな隠れ家的居酒屋だった。デートで行くようなこの店を、常盤は棗だけに教えた秘密の場所だと言い出して……?
     じわじわと距離を詰めていく後輩と、それに対して変わっていく自分の気持ちに気が付かない鈍感な先輩のもだもだBL。

    「またやったのか、お前……」
     俺は本日何回目かの溜息を吐いた。同時に胃のあたりがキリキリと痛み出す。
    「別に俺はただ『メモを取っていた』だけですけどね」
     腹部を摩る俺を見ながら、後輩の常盤春渡は怠そうに答える。この余裕な表情に何度苛ついたか。
    「言ったろ、俺らより上の世代はまだ紙派のアナログだって。事前に会議のメンツ確認して、メモ帳持ってボールペン持って行くぐらい出来るだろ」
    「はぁ……。コスパ悪いし、はっきり言って面倒です。書くよりスマホに直接メモった方が時短ですし、なにより見直しやすいですよ。金井さんもやったら良いのに」
     常盤はスラスラと俺に意見を言う。勿論、こいつが言いたいことは理解している。むしろ今時なら正論だということだって、十分過ぎるほど分かっていた。俺だってぶっちゃけそっち派だ。だが、そうスムーズにいかないのが現状だったりする。
    「だからさぁ……」
    「金井さん、あまりしつこいとパワハラで報告しますよ」
    「こんなのがパワハラになってたまるかよ!寧ろ、板挟みになっている俺の方がパワハラで訴えたら勝てると思うね!」
    「やってみたらどうですか」
     常盤は興味なさそうにスマホに視線を落としながら言った。
    「また俺を馬鹿にして!」
    「馬鹿にしてませんよ。それじゃ、俺は昼食に出てくるので」
     俺が文句を言う前に、常盤はスマホから目を離さないままフロアを出て行った。
     いっそ、ながらスマホで転けてしまえ!
     俺は小さな呪いを込めた視線を常盤が出て行ったドアに向けた。こうやっていつもいつも俺の話をさらりと流し、聞こうとしない。どうせ誰かに「あいつは童顔だから怒られたって怖くねぇよな」とか言われたんだろ。去年入ってきた新入社員が陰で言っているのをたまたま聞いた。こいつもきっと、そう思って俺を舐めているに違いない。
     あーもぅ。後輩はあの状態だし、上は煩いし……。
     俺は深く溜息を吐いた。分かっている、現代に寄り添っていない会社だっていうことは。俺だってペーパーレスには賛成だ。でも、今までのやり方を急に変えるのは難しい。受け入れる事に時間がかかる人達がまだ沢山いる。現に書類のPDF化を始め、少しずつ改善が見られているが、いきなり全てに対応する事はできない。特に会議中のスマホの使用に関しては上の反応は顕著に出てくる。マナー違反と捉える人間の意見も理解できるため、柔軟な対応や価値観の見直しが必要かとは思うのだが、常盤を始め、今年の新入社員は強行突破勢が多い。以前参加した会議でもスマホのアプリにメモを打ち込む姿勢が良くないと指導を受けた(主に俺たちが)。次回は本人達に直接注意される勢いだったため、常盤には口酸っぱく柔軟に対応するようにと伝えたのだったが、それ以降も常盤はそのスタイルをなかなか崩さないでいた。今回も俺のいないところで以前同様の会議態度だったらしい。ついさっき、会議に参加していた係長から俺にクレームが来たのだ。
     何度言っても常盤は変えようとしないし、ていうか良い加減に会社側が新人へ寄り添うとか、変わろうって考えにはならないのかねぇ……。
     俺からしたらどっちも頑固で柔軟性がない。とにかく板挟みなこの状況が面倒くさくてたまらなかった。


     常盤が俺の所属する課に配属されたのは数ヶ月前。最初こそは無愛想なりにも素直な返事や迅速な対応に関心をしていたのだが、ここ最近は彼なりのやり方を突き通しはじめ、もともとの無愛想に拍車が掛かり、特に俺の前では可愛さの欠片もない後輩となってしまった。教育係に抜擢された俺のせいだと、同期の根岸が笑って言ったが、俺は何度も常盤に「せめて臨機応変にしてくれ」と、伝えたつもりだった。が、全く変える気配はない。強く言い聞かせることも考えたが、強制するのは違う気がするし、そもそも五つ離れていようがいまいが、常盤は業務の指示以外は殆ど俺の言い分はスルーだ。それに、何よりパワハラで訴えられても困る。
     まぁ、アイツに至ってはパワハラさえも跳ね除けそうだけどな……。
     とはいっても、俺のこの板挟み状態も長く続けば俺自身が持たない。ぶっちゃけ他人の行いで注意を受けるのはかなりのストレスだ。胃はキリキリするし、上の人達と常盤が顔を合わせる会議の日程を見るだけで溜息が出る。前日は気になって眠れない時もあるほどだ。大袈裟と言えば大袈裟だが、俺だって一人の人間である。メンタルもそこそこに削られるのだ。
     なのに、だ。つい先日、課長から「そろそろ新入社員の部内歓迎会をやろうと思う。新入社員にはなるべく参加してもらいたいから、彼らの予定を合わせてほしい」と連絡が回ってきたのだ。うちの部に配属されたのは五人。正直言って、全員が揃うのは無理な気がしてならない。特に俺が面倒を見ている常盤春渡に関しては「パスで」の三文字で返事をするのが目に見えている。思わず向かい側に座る常盤の方に視線を向けた。相変わらずの仏頂面で、パソコン画面を見つめている。
     あれで実は女性社員が結構噂しているらしいんだよなぁ……イケメンって存在だけで有り難いとかなんとか。
     嫉妬の眼差しを常盤に投げつけたところで、アイツはこちらを気にも留めない。それより、歓迎会に常盤達をどう誘うかだ。新入社員の気持ちは大いに分かる。俺だってせっかくの休みの前日に頭の硬い上司達と飲みたくはない。しかもアイツの立場だと、俺もその上司達に入ってしまう。新人の時に、「後輩に嫌われる先輩にはならない」と決めたのに。
     いっそ課長が声を掛ければ良いものを……。
     俺はパソコンのメール画面を見て溜息を漏らす。課長から連絡が来たのは一週間前。そろそろ予定を聞いて他の子達との擦り合わせをしなければならない。
    「……気乗りしないなぁ……」
     思わず声に出てしまい、慌てて欠伸の振りをして口を塞いだ。なんとなく、文章からは「絶対参加」の雰囲気が立ち込めている。
     まぁ、歓迎会だしな……。
     冬の忘年会などの飲み会とは別で主役は新入社員だ。彼らに行かないという選択肢はないだろう。だが、彼らは「飲み会など開かなくても歓迎してくれさえすれば良いのに」といった気持ちかもしれない。たぶん、いや、絶対そうだ。
    「おーい、唸りすぎ。どうした?」
     知らず知らずのうちに唸り声をあげていたらしい。顔を上げると、背後に根岸が立っていた。
    「あー……これだよ、これ」
     俺がパソコンの画面を指差すと、根岸は「あぁ、これか」と言って軽く笑う。教育係りじゃないやつはお気楽で良いよなぁ。
    「まぁまぁ。別に普通に聞けば良いだろ。歓迎会って言っているんだからあっちも肩肘張らないだろうし。お前だけだよ、気にしてるのは」
    「どうだか。ながらスマホ世代の相手をろくにした事ない奴がよく言うよ」
     常盤に聞こえないよう小声で言い返すと、根岸は俺のことを鼻で笑う。
    「ろくに相手してないからこその歓迎会だろ。飲み会は面倒、そう思うだろうけど最初の一回は俺達にも、新卒達にもメリットはある。俺は仕事から離れたところで見える人間性で今後の付き合いを考えるべきだと思うね」
     根岸は俺のデスクに飴を一つ置くと、手に持っていた一つを開けて自分の口に放り込んだ。
    「根岸のくせにド正論言うな。俺だってそんな事分かってる。でもそういう会が苦手なやつだっているだろ」
    「そりゃ、お前は苦手だろうけど。会社の人間として歓迎会の誘いをするって考えれば、割り切れるじゃん。それに強制感出さないためのお前ら教育係からの声掛けだろ?」
     またド正論。俺は下唇を突き出し、根岸を睨む。
    「要は言い方とやり方次第。お前が一番分かってるだろ」
     根岸は不貞腐れた俺の背中をバシンと叩くと、「はい、オマケ」と言ってもう一つ飴をデスクに置き、自席へと戻って行った。
     うるさいな、まったく。言われなくても分かっているっつーの……。
     根岸の背中を睨み、俺は小さく溜息を吐いた。
     何が言い方だよ、簡単に言ってくれちゃってさ……。
     沸々と腹の底が熱くなった。同時に嫌な思い出が喉の奥で渦を巻き、口の中がカラカラに渇いていく。俺は飲みかけのペットボトルのお茶を一気に飲み干した。
     俺が新入社員の頃、直属の先輩から強めの指導を受けた経験があった。職場には定刻よりも一時間は早く出勤し、部のデスク周りの掃除をしろだの、飲み会での立ち振る舞いはこうだ、と勝手なルールを押し付けられ、ストレスによって俺は通勤が出来なくなった事がある。会社のカウンセラーに話をし、周りの証言で先輩のパワハラが発覚。どうやら他の人にも当たりは強かったらしく、俺の他にも通勤出来なくなってしまった同期がいた。彼自身は「傷付けようとしてやった訳じゃない。そうやって自分は育てられてきたから同じようにした、先輩に倣っただけだ」と言っていたが、された側の気持ちが分かるはずの人間が、さも当たり前のように他人に同じ苦しさを与えるのはいかがなものか。人事部の判断も俺の思いと同様だったのだろう。彼は隣県へ転勤することになり、その後は彼の方が会社に居辛くなって退職。ストレス要因が居なくなり俺も同期も会社に出て来れるようになった(退職になったのは少し気の毒に思ったけど)。その際に決めたのだ、自分の下に来る者にはそんな思いはさせないように務めようと。だからこそ慎重になってしまうのだ、それが新入社員の歓迎会だとしても……。
     俺はもう一度向かいに座る常盤の方へ視線を向ける。本当に、どう伝えれば『パワハラ』にならないのだろうか……。
     すると突然パソコンのモニターで隠れていた常盤の顔が視界に入り、ばっちりと目が合った。
    「げっ」
     思わず俺は視線を逸らす。
    「なんですか。さっきから」
     常盤のジトッとした目が俺の顔に突き刺さる。
    「いや、別に何でもないんだけど」
    「金井さん、嘘下手ですか?」
     常盤がはっきりとそう言う。言われなくても分かっているよ、そんな事!
    「……分かったよ。ジロジロ見て悪かった。お前に聞きたい事があってだな……」
    「聞きたい事?SNSの使い方ですか?」
    「そのぐらい分かるっつーの!常盤、直近の金曜日の終業後の予定なんだけど……」
     すると、常盤は急に立ち上がり、スマホ片手に俺のデスクの方に回ってきた。
    「な、なんだよ」
     初めて見る常盤の素早い行動に、俺は一瞬怯む。対して常盤は、いつも通りの仏頂面で俺にスマホの画面を向けてきた。
    「直近は殆ど空いてます」
    「え……?あ、えっと」
    「金曜日の夜はいつでも空いてますって言ったんです」
     いや、なんでそんな食い気味なんだよ。仕事中は人の話を怠そうに聞いている癖に。心なしかいつもより目がギラついている気がするのは気のせいか……?
    「聞こえてるってば……。いやさ、近いうちに新入社員の歓迎会しようって話が出ているんだよ。常盤の都合は俺から皆んなに伝えておくから、日程が決まったら…………なんだよ」
     俺は常盤の眉がぴくんと動くのを見逃さなかった。やはり歓迎会を強制イベントだと思って萎縮したのだろうか。
    「……いえ、別に。日程決まったら連絡ください。では、昼休憩に行くので」
    「え、あぁ。うん」
     直ぐ近くの掛け時計を確認すると、もう時刻は正午を指していた。常盤が自席に戻らずそのままフロアを出ていくのを見送ると、俺も財布を取り出した。
     なんだ?あいつ……。
     明らかに常盤の目の色が変わった気がした。しかし、時計を確認した時にはまたいつもの仏頂面に戻っていた。ただ、乗り気のない返事なのはすぐに分かった。新入社員には面倒な会なんだろう。しかし、妙な違和感だけが残る。なんというか、調子が狂う……的な。いつもの常盤なら面倒なら面倒だとハッキリと言うはずだが、今日に限ってはあっさりと、しかも食い気味に予定を伝えた。それだけでも気掛かりだというのに、なんだ、あれは……。日程連絡の話をした途端に肩を落とした気がする。もしかして、今週直ぐに飲みに行きたい事情でもあったとか……?いや、だとしても俺なんか誘わないだろう。それに俺が誘えばきっと「アルハラですか」なんて言いそうに違いない。考えても全く分からない常盤の態度に、俺は一旦区切りをつけて昼食を買いにコンビニへと向かった。


     結局、歓迎会は二週間後に開催が決まった。結構あっさりと日程が決まり、拍子抜けした。誰だ、イマドキの若者は飲み会が嫌いだなんて言い出したやつは。おかげで変な心配をしたじゃないか、まったく……。どうやら、俺の思い込みが先走っただけで日程の決定に関しては杞憂に終わった。
     そして飲み会当日。帰り支度の準備が出来た者達は会社の玄関口で待ち合わせ、会場となる店へと向かった。会場に選んだのは会社近くの創作居酒屋。以前根岸と立ち寄ってからここの出汁巻玉子にハマってしまい、それから度々足を運んでいた。
    「んじゃ、適当に座って。上座とか下座とか面倒なこと考えなくて大丈夫だから。あぁ、でもごめん、なるべく新入社員は先輩の横に座って欲しい」
     新入社員に声をかけ、とにかく先に着いた者達で奥から順に席についた。四卓並んだ宴会席にそれぞれ腰を下ろしていく。俺のお願い通り、先輩社員の間に新入社員が挟まれるようにして座っている。俺の横には常盤と、森野という女性社員が座っていた。森野はあまり話した事のない俺の横に座ったせいか、ソワソワと落ち着かない様子だった。大して仲良くもない先輩の隣りに座らせてごめんな……。森野の気持ちは凄く理解できる。でも、俺が言うのはなんだが、分かって欲しい。こっちはそういう態度になっちゃうのをもう少し和らげようとしているだけだ。見てみろ、俺に慣れた常盤を。他のみんなはまだ緊張が解けず正座で座っているの中で、こいつは既に胡座をかいているぞ。このぐらい砕けてくれた方が俺もやりやすい。でもな、こいつはこいつでちょっとばかし周りに合わせてくれても良いと思うけどな……?常盤の俺に対する態度に悲しくなるのはもうキリがない。まぁ、こういう方が上としては接しやすくて有り難いけれど……。
     数分遅れで部長が到着し、全員の手元に飲み物が並ぶと、部長の音頭で飲み会がスタートした。


    「……何してんだよ、お前は」
     根岸が呆れながら言った。同時に俺の背中を摩る手が強くなる。やめろ、刺激を与えてくれるな……余計に吐く。
    「いやぁ、だって……ゔっ」
     口を開くと途端に吐き気が込み上げた。トイレの便器に向かって顔を突き出す。頭はぼわんとし、えずいた拍子に出た生理的な涙で、視界も霞んでいた。
    「部長が、新卒に飲ませようとするからぁっ」
     口を開くとまた気持ち悪さが喉へと上がる。こんな風になるまでアルコールを摂取したのは久々で、身体の方がびっくりしてしまっている。
    「あーはいはい。分かったからとりあえず全部吐け。楽になってから言い返せよ」
    「ゔぅ……ごめん……」
    「ったく……。あぁいうのは上手くかわすしかないんだよ。まともに付き合うのが間違いだ。かわし方を教えるのが先輩だろ。全部飲んでどうする。相手が可愛いからって結果がこれじゃ、脈なしだな」
     根岸がもう一度溜息を吐いた。同期が呆れるのも仕方ない。酒が苦手な癖に慣れない事をして痛い目を見た、それだけだ。もう既にこの状態になった事で反省は十分にしている。確かにかわし方を教えることが出来れば良かった。でもそんな事が咄嗟に出来るほど俺は器用じゃない。ただ、俺がこうならなければ、後輩がこうなっていたかもしれないと思って、つい身体が動いてしまった。しかも、断れなさそうに森野相手に、だ。飲み会が始まってすぐに、彼女は言いにくそうに「お酒、飲めないんです」と言った。別にお酒を飲むための会じゃないと伝えると、彼女はホッとした表情で「良かった。飲めないとダメかなぁって思っていたんです」と、朝から心配していたと話してくれたのだ。だというのに、酔った部長は彼女にグラスを持たせて瓶ビールを注いだのだ。酔った上での行動だとしても、目に余る。だけどな、別に俺は森野に気が合った訳じゃない。確かに可愛いし、部長が放っておかなかったのは理解できるけど!
    「それにしたって、今日の部長は酷かったな。お前が珍しくグラス持つから、嬉しかったってのもあるんだろうけど」
    「うるせぇ、こんなのアルハラで訴えてやる……」
    「バカ言え。だったらせめて断りの一つでも入れなきゃダメだろ。進んで飲んでたやつが訴えたところで意味ないんだよ」
     バシンと背中を叩かれ、最後の一発が喉の奥から飛び出した。スッキリしたが、まだ気持ち悪い。根岸は咳込む俺に、適当に取ったペーパーを差し出した。
    「もう行けそうか?」
    「……なんとか」
     貰ったペーパーで口を拭い、水を流す。力を入れて立ち上がろうとしたが、やはり苦手なアルコールが回り足元がふらついた。
    「うわっ」
    「おっと……危ねぇな」
     根岸は俺の肩を担いだ。幸いなことに、もう支払いも解散も済んでいた。最終的に文字通り根岸におんぶに抱っこだ。面目ない。森野のフォローは申し訳ないが同期の子達に任せてしまった。こういうのは先輩より同期の方が気を遣わないで済むだろう。というか、こんなデロデロな先輩にフォローされた方が申し訳ない。
    「鞄はどうにか持てよ」
    「うゔ……」
     どうにか荷物を持ち、半ば引き摺られるように外へ出た。昼間は温かくなってはきたが、夜風はまだ冷たくて寒い。なんとか掴んで持ち出した上着を着ようと、根岸に頼んで立ち止まった。
    「……あれ、お前まだ居たのか?」
     俺がフラフラの身体で必死になって上着に袖を通していると、根岸が口を開いた。これ以上吐かないようにゆっくりと顔を上げると、ぼんやりした視界に生意気な後輩の姿が見える。
    「……常盤?」
    「……どうも」
    「どうした、忘れ物か?」
     根岸が尋ねると、常盤は眉を顰める。
    「忘れ物というか……」
     そう呟くと、俺の持っている鞄を手に取った。
    「……え?」
    「金井さんに聞きたいことがあって……。根岸さん、代わりますよ」
    「え、あぁ……さんきゅ……」
     常盤は根岸に代わって俺の肩を担ごうと腕を伸ばす。ぐっと顔が近付いて、常盤の付けている香水なのか、シトラスのさっぱりとした香りが鼻を抜けた。酔い覚ましにもなりそうな心地良い香りで、自然と力が抜ける。
    「悪い……俺、今デロデロのゲロゲロだから、質問は週明けの月曜日でも……」
     正直、担がれるのも困るのだが……。しかし、常盤は俺の言葉を遮り、食い気味に答えた。
    「急ぎの用なので。根岸さん、電車は下りですか?上りですか?」
    「上りだけど?」
    「なら、金井さんは俺が送ります。方向同じなので」
    「お、おう……」
     根岸は常盤の勢いに押され、俺の身体を常盤に渡した。待て待て。送るなら駅までで良いし、駅までなら根岸に送ってもらった方が俺の気持ち的に楽だ。何度も言うが、後輩にこんな自分を背負わせるのは嫌だ。こんな状態で威張れる立場じゃないのはわかっているが嫌だ!
    「い、いい。なんとか歩けるし……」
    「ダメです」
     常盤の身体を押し退けようとしたが、がっしりと腰まで支えられて逃れられなかった。常盤の顔を見上げると、いつもの仏頂面が見えた。こんな時にそんな顔をされると、余計に惨めだ。いっそのことその辺に転がされている方がマシだ。
    「常盤、たまには後輩の申し出を受け入れてやれよ。こういうコミュニケーションが出来るようにっていうのが、今日の歓迎会の目的だろ」
     頑なに離そうとしない常盤を見て、根岸が言った。こいつめ、さっさと帰ろうとしているな……?
    「そう、かもしれないけど……」
     だとしても今じゃない。こんな時ではない!しかし、俺の訴えも虚しく、再び吐き気が込み上げてきて、咄嗟に口に手を当てた。その様子を見た常盤が呆れ顔で溜息を吐く。
    「根岸さん、お先にどうぞ。あなたが居るといつまでもこの人動かなさそうなので、行ってください」
    「え、ちょ……」
    「……分かった。そうさせてもらう。じゃあな、金井。また来週」
    「待っ……うえぇ……」
     この薄情者……!呼び止めようと手を伸ばしたが、瞼の重みと頭痛、吐き気にやられ、俺はぐったりと常盤の身体へ体重をかけた。視線だけ上げると、根岸の背中は既に歪んで遠くに見えた。
    「とりあえず、少し休んでから駅へ向かいますか」
    「……おぅ」
     最早こいつの言う事を聞くしかできない俺は、潔く従うことにした。


     常盤は近くのバス停のベンチに俺を座らせると、すぐ側の自動販売機でミネラルウォーターを買って戻ってきた。
    「飲んでください」
     わざわざキャップを外して差し出され、いつもと違う丁寧さにぞわりとする。
    「……要らない」
    「明日、余計しんどいですよ」
     常盤は押し付けるように俺にペットボトルを持たせた。飲み込む唾さえも気持ち悪く感じていた俺は、ペットボトルをそのまま額にくっつけた。ぼやけた視界が冴えていく。
    「……飲んでくださいよ」
    「良いんだよ、頭冷えるし……。で、話って何?」
     どうせ、今日みたいな会は二度と開くなとかそういうクレームだろう。口達者であっても、常盤だって色々飛び越えて課長や部長に直接文句は言わないはずだ。手っ取り早く俺に言ったほうがスッキリするのだろう。俺ならそうするし。
     しかし、常盤はなかなか口を開かなかった。柄にもなく気まずそうな顔をし、俺の横に腰掛けて革靴の爪先を見ている。
    「……おーい。聞きたいことがあるって言ったのお前だろ」
     しかも半ば強引に引き止めて。なんだその顔は。会社でもそうしおらしくいてくれれば可愛いものを……。
     常盤が顔を上げる。すると、さっきの気まずそうな顔が、やたら真剣な顔に変わった。
    「……さっき」
    「ん?」
     俺はペットボトルを額から下ろし、額を拭った。
    「……森野の事を庇ってましたけど……。金井さんは彼女に気があったりするんですか……?」
    「……はぁ?」
     俺の口から気の抜けた声が漏れた。真剣な顔をして何を言い出すかと思えば。根岸といい、常盤といい、俺ってそんなに節操なく見えるのか?
    「そんな訳ないだろ、まったく……。あの場合、俺が代わった方が良いと思っただけでだなぁ」
     そのおかげでこのザマだけど……。
    「本当に、何にもないんですね?」
    「そうだって言ってるだろ。まぁ、可愛い子だとは思うけどさぁ」
     ていうか何の心配だよ。もしかして、本当にそう見えた……とか?だとしたら森野に悪い事をしたかもしれない。だが、あの席では俺が動くしかなかった。もしかして常盤は森野の代わりに文句を言うために……?
     もうすっかり消えたはずの吐き気がまたぶり返す。俺はペットボトルの水を一口飲んだ。ここははっきりさせておいた方が良いかもしれない。
    「……もしかして」
    「送ります」
    「……は?」
     恐る恐る尋ねた俺に常盤は被せるように言った。
    「ほら、立ってください」
    「ちょっ……!急に揺らすなって……!」
     二の腕を掴まれ、無理矢理立たされそうになる。
    「離せって!お前な、もしかして俺より酔ってるんじゃないか?俺なら大丈夫だから、もう帰った方が……」
    「平気です。送ります」
    「あのなぁ……」
     様子は明らかにおかしい。そもそも酔った俺が店から出てくるのを待つところからおかしいのは分かっていた。
     やはり、早めに帰すべきだ。
    「一人で帰れる」
     常盤の手を振り払おうとしたが、力が入らず掴まれたまま。変に力んだせいでこめかみのあたりがじんと痛み、足元がふらついた。
    「おわっ……!」
     思わず常盤の腕にしがみつく。みっともないが、一瞬ヒヤッとした。顔を上げると、不意に近づいたせいで鼻と鼻が触れ合った。
    「わっ、ご、ごめっ」
     慌てて身体を離そうとしたが、そのまま腰に腕を回された。
    「ちょっ……!」
     うわっ、顔近っ!
     女性社員が噂する綺麗な顔が目の前にあると感じ、心臓がバクんと跳ねた。加えて、後輩に支えられたという情けなさに顔のあたりが熱くなる。みっともないところを見せなくなくて、顔を逸らすと常盤が吐いた小さな溜息が耳元を掠った。
    「……やっぱり、送ります」
     低音の声が耳奥に響き、腹の下あたりがまた騒つく。言い返す言葉も見つからず、顔も見られたくない俺は、黙って頷くことしかできなかった。




    「サンキューな、助かったよ」
     自宅アパートの前に着いて、俺は常盤に礼を言った。常盤は部屋まで送ろうとしたが、流石に断った。後輩にこれ以上迷惑はかけられない。夜風に当たってすっかり酔いは覚めていてたし、なにより常盤との近距離に落ち着かなくて一旦頭を冷やしたかった。
    「遅いしもう帰れ。タクシー代ぐらい出すからさ」
     まだ少し痛む頭を抑えながら財布を取り出そうとすると、常盤が「結構です」と、いつもの調子で答えた。
    「俺の家まであと二駅ですし、終電まだありますから。お構いなく」
    「……そっか。んじゃ、今度お礼するよ。ランチとかさ」
     すると、常盤の動きが一瞬ぴたりと止まった。しかし、数秒もしない間に首を横に振る。
    「結構です」
    「んだよ……」
     思わずそう呟いたが、少し歳の離れた先輩と昼食に出かけるというのは、俺にとっては結構勇気のいる事だ。断られても仕方ない。だが、こうまでハッキリと断られたのは結構ショックだ。
    「……別に行かないとは言ってないじゃないですか」
    「は?」
     いやいや、断っておいて何言ってんだ。酔っ払いの俺より頭がぼんやりしているとしか思えない。
    「ご馳走は大丈夫だと言ったんです。なので、ランチは来週にでも行きましょう」
    「なんでそう偉そうなんだよ、お前は」
     俺は溜息を吐いた。俺の顔色を伺ったのか?
    「でも一緒に行くだけじゃお礼にならないだろ」
    「いえ、十分ですよ」
     んな訳ないだろ。先輩と一緒にランチだぞ?気不味くないのか?何話したら良いのかとか、気を遣って逆にストレスになりそうなものだが……。
    「じゃあ、食後のコーヒー一杯奢らせろ。お前が構わなくても俺が構う」
     もう一度断られる前に食い気味に伝えると、常盤は眉を寄せて面白く無さそうな顔をした。
     奢るって言われたら普通そんな顔しないだろうが。やっぱり、変なやつ。
    「あの、だったらコーヒーじゃなくて」
     やっぱり。コーヒーよりも別の物が良いってか。最近の子ってそういうとこあるよなぁ、なんでも現金なところというか、現実主義というか……。
    「棗さん…って呼んでも良いですか?」
    「…………え?」
     今……なんて?
    「ダメならコーヒーでいいです」
    「あ、いや……別に良いけど……。それが何でお前へのお礼になるわけ?」
    「それは……」
     言いにくそうに常盤が口籠る。
    「まぁ、別に後輩に下の名前で呼ばれようが名字で呼ばれようが気にはしないけど」
     嘘。めちゃくちゃ気になる。しかし、常盤のむすっとした顔を見ると、詮索は禁物な気がした。
    「……では、棗さん」
    「お、おぅ」
     なんか、恥ずい……。久々に下の名前で呼ばれ、腹の上あたりが擽ったい。最後に呼ばれたのは年末に実家に帰省した時だったはず。家族以外から下の名前を呼ばれることは、ここ数年なかった。
    「お休みなさい。階段、踏み外さないように気をつけてくださいよ」
    「……もう酔ってないってば。お前も、気を付けて帰れよ」
     先ほどこの整った顔を間近で見たのを思い出し、目が合ったらどういう顔をすれば良いのか分からない。俺は態とらしく下を向くと、常盤の顔を見ないまま、アパートの階段へと向かっていった。


     どうして常盤が俺の名前をそう呼びたいって言い出したのだろうか。次の日、二日酔いでベッドから出られなくなった俺は、気を紛らわせるためにその理由を考えた。だが、何一つはっきりとした理由が浮かび上がらない。考えられるのは、俺と親しくなりたい、なっていると、常盤自身が感じていることだ。多分これは正解だろう。ただ、それだけなら今までの呼び方でも良いはずだ。下の名前を呼ぶ事が必ずしも特別ではない。
     いや、特別っちゃー特別か?大人になってからは減ったが、学生の頃は仲良くなった友人を下の名前で呼ぶのは普通だったしな……。だけど相手はあの常盤だ。俺に対しては四六時中仏頂面しか向けてこない。俺らの関係に特別なんて何一つないのだ。ただの会社の先輩と後輩だ。いや、もしかしたら、同期間での罰ゲームかもしれない。待てよ、それはそれで結構ショックじゃないか……?
     ずきんと、こめかみのあたりが痛む。これ以上最適な答えは出ないとみた。
     まぁ、良いか。呼び方の一つや二つ……。気になったなら直接聞けば良いのだ、酔っていない時に。そうだ、あいつも酔っていたのかもしれない。酔った勢いってやつだ。俺にもそういう覚えがある。学生の頃に付き合っていた彼女は酔った勢いで告白したのがきっかけだった。うん、そうだ。酔った勢いだな、うん。何も深く考える事はない。あっちだって別に深い意味はないのだから。

     しかし、その考えは直ぐに間違いだと気が付いた。
    「常盤。俺、先々週も言ったよな……?頼むから臨機応変に動いてくれって」
    「俺なりの臨機応変に動いたつもりですけど」
     仏頂面で常盤が言い返す。週明け一発目の会議は、前回常盤が指摘をされた会議の進捗報告会だった。現代的な姿勢で挑む常盤に対し、散々上から嫌味が飛んだのにも関わらず、常盤は懲りもせず自分のやり方を突き通した。まさに我が道を行くってやつ。誰が俺と仲良くなりたいだ、勘違いした俺が恥ずかしい。
    「はぁ、お前も嫌味で返すのかよ」
    「また何か言われたんですか?あの人達も諦め悪いですね」
    「お前も、だっつーの」
    「時代遅れって言ってやれば良いでしょう?」
    「ったく……。そりゃ、上の人達が変わって今のやり方を吸収するべきだけど。俺が毎回受ける仕打ちも少しは気にしてくれよ」
     俺が溜息を吐くと、常盤は一瞬申し訳なさそうな顔をしたが、すぐさまいつもの仏頂面に戻る。
    「……善処します」
    「すぐしろ。マジで」
     膨れっ面で言った常盤に俺はぴしゃりと言った。
     本当頼む。胃が痛くて仕方ねぇや。
    「そんな事より棗さん、お昼行きませんか」
    「え、あぁ。良いけど……」
     そんな事って。ていうか名前。こいつ、やっぱり酔っていなかったのか。
     しかし、呆れて言葉も見つからない。俺はお前が嫌な思いすると思って間に立っているんだけど……しかし、それを伝えるのは流石に格好がつかない。まぁ、今はまだ許してやろう。そのうち徐々に上も折れてくるはずだ。
    「で、何食う?」
     外に出る前に会議資料を一度デスクに戻すため、エレベーターホールへ向かう。常盤は俺の問いに少し考え込む。
    「俺の好きなもので良いんですか」
    「良いよ。俺、嫌いな食べ物ないし」
    「へぇ、意外ですね。子ども舌っぽいのに」
     このやろう、可愛くないな……!
    「決めた。俺はお前とは行かねぇ」
    「……冗談ですよ。この前、出汁巻玉子が好きとか言ってたから。あそこの少し甘かったし」
    「甘いからって子ども舌とは言わないだろ……お、お疲れ」
    「あ、お疲れ様です」
     エレベーターホールに着くと、先に森野が立っていた。別の会議室で会議に参加していたのだろう、会議用のプロジェクターとノートパソコンで両手が塞がっていた。本来なら各部屋に設置されるべき物なのだが、以前まで資料室として使われていた部屋が今年度から会議室に変わったため、まだプロジェクターは未設置だったりする。そのうち業者に設置を頼むらしいが、それまでは総務部に借りに行かなければならない。こういう膨大な資料をデータ化するのは手早かったが、スマホを使ったメモ取りに関しては許容されていない。全く、ついていけない大人達は面倒である。会議に参加したメンバーの中で新人は森野だけだったのだろう。プロジェクターは小柄な彼女には重そうだった。
    「金井さん、この前はありがとうございました」
    「いや、全然。大した事してないよ」
     本当に。寧ろ自ら潰れに行って醜態を晒しただけだ。
    「でも、本当に助かったので……ありがとうございます」
     エレベーターが着いて、三人で乗り込む。常盤が行き先のボタンを押すと森野は別の階を押した。
    「ついでにそれも手伝おうか?」
    「えっ、いいですよ。これぐらい一人で持てますから」
     手を差し伸べると森野は首を横に振った。その割にはエレベーターが来る間に何度も持ち直している。
    「そうですよ。これは新入社員の仕事です」
    「なんでお前が断るんだよ」
     割って入った常盤を嗜める。仏頂面の眉間の皺が増えた。
    「俺が付き合います」
    「えっ」
     森野が目を丸くして常盤を見上げた。へぇ……良いとこあるじゃん、常盤。
    「いいよ、本当に私一人でも持てるから」
    「落としたらどうすんだよ」
    「なっ……!落とさないように持って行くから大丈夫だし!」
     食い下がる森野に常盤は溜息を吐いた。
    「棗さん、俺の資料よろしくお願いします」
    「お、おぅ」
     常盤は俺に会議資料を押し付けると、森野からプロジェクターを取り上げた。
    「ちょっ、常盤くんっ」
     へぇ、もしかして……そういうこと?
    「棗さん、資料置いたら一階に来てください。俺はこれ置いたら直ぐ降りるので」
    「あ、うん……分かった」
     常盤に指図されるのは癪だが、ここは頷いた。目の前で困惑する森野に口角が上がりそうなのを堪えていると、エレベーターが止まった。
    「んじゃ、また後でな」
     俺はエレベーターから降りると、にやけないようその場からすぐに退散した。エレベーターのドアが閉まるのを少し離れたところで確認すると、思わず頬が緩み始める。
     なんだ、常盤って結構可愛いとこあるじゃん……!先週の夜も、きっと俺が心配というよりか、森野のとの事が心配で俺を待っていたのだろう。あの仏頂面の常盤がなぁ……。だったらもっと優しい顔でいりゃ良いのにさ。今時中学生でももっと上手いことやるだろうに。あぁ、もしかして照れ隠しってやつか?だとしたら俺にもあの顔はおかしいだろ。飲み会で森野を庇う以前からあの顔だ。照れ屋拗らせとか難儀なやつめ。あ、さては俺に恋愛相談を持ち掛けたくてわざわざ親しみ込めた名前呼びを……?いや、これは回りくどいか。でも、もしかしたら相談はガチであるかもしれないよな……!
     俺は緩んだ顔でそそくさと資料をデスクに置くと、足早に下の階へ降りて行った。
     いやぁ、春だねぇ!
     久しぶりに甘酸っぱいものを見て、思わずスキップになりそうだ。こういう人の恋路というのはどんなものよりも気分が良い。後で俺から色々聞いてみようか。いや、ここは先輩らしく見守るに徹してやろう。うん、あいつが相談を持ち込んだら色々アドバイスをするに限る。その方がスマートだし、あいつのことだ、外野から何か言えば気持ちを引っ込めてしまいそうだしな。
     浮き足立つ気持ちをなんとか抑えながらビルの玄関口へ降りると、既に常盤が待っていた。
    「……なんですかその顔」
    「えっ、あー……あはは。別に」
     にやけ顔を指摘され、俺はわざとらしく誤魔化した。常盤は何か言いたげな顔をして俺を見ていたが、スマホに目を向けると「行きましょう。俺、行きたいところがあるんです」と言って、先輩の俺を置いてさっさと自動ドアを出て行った。


     常盤に連れられて来たのは歩いて十分ほどの居酒屋だった。お昼はランチ営業をしているらしく、外に手書きの昼メニューが設置されていた。店内は綺麗な和テイストで、カウンターが五席と座敷が二卓、テーブル席が一席の小さな店だ。駅からだいぶ距離のある場所のせいか、このランチ時にカウンターに二人しか客はいない。奥のテーブル席に座ると、常盤は昼のランチメニューを俺に差し出した。
    「俺は日替わり定食で」
    「え、そうなの。じゃあ、俺もそれ」
     俺が答えると、常盤が店員を呼んで注文した。
    「ここ、いつからあるんだろ」
     店内を見渡したながら俺が呟くと、常盤が「二十年以上前かららしいですよ」と答えた。
    「え、そうなの?こんなところがあるなんて、全然知らなかった」
    「少し奥まってますもんね」
     一言そう言って常盤は出されたお茶を啜る。会話が途切れ、店内に流れる音楽がはっきり聞こえた。
    「……あのさ」
     沈黙に耐えかねて俺が口を開いた。何を話すなんて決めていない。そのせいで自然と気になっていたことを口にした。
    「森野は誘わなかったんだな」
    「……は?」
     常盤の眉がぴくんと動く。その視線があまりにも鋭く、ヒュッと喉がなった。
    「あ、いや、ほら、昼時だったし。同期だから誘いやすいかなぁって」
    「同期だからって必ず誘う義理はないですよ」
    「そうだけどさぁ」
     俺に遠慮して誘わなかったのは想像がつく。こいつのチャンスを無にしてしまっていたら、あまりに申し訳ない。きっと資料室で良い雰囲気にはなっていたはずだ。
    「俺は棗さんを誘ったんです」
    「まぁ、そうなんだけど」
    「俺が誘って不服でもありますか?」
    「……その上から目線には不服はあるけど、お前には別に……いや、そうじゃなくてさ!森野だよ?それにこういう店って、気になってる子とかと行った方が絶対良いと思うんだよな、雰囲気良いし、静かだし。それに……」
     うかうかしていると、誰かに先越されてしまう。しかもあんなに可愛いくて素直な良い子、そういないぞ。そう続けようとしたが、常盤の視線がさっきよりも鋭く刺さり、喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
    「……なんだよ」
     怖いぐらいに強い視線に耐えかねていると、常盤は溜息を吐いた。
    「別に」
     その目は明らかに余計なお世話だと言っているような気がして、やはり見守り徹した方が良かったとすぐに反省した。
    「……棗さんって、鈍いですね」
    「へ?」
     鈍いって、何が。いや、鈍くないだろ。森野にベクトルがんがん向けているお前の気持ち既に分かっているんだから!むしろバレてないって思っているお前の方がどう考えても鈍いだろ。あぁ、でもここはこいつに合わせておかないと。機嫌を損ねて、森野に気持ちを伝える気を削いでしまっては夢見が悪い。しかし、常盤は何故か嬉しそうにくすりと笑った。
    「でもその方が都合良いです。俺的に」
    「俺的にって、どういう……」
     聞きかけたと同時に俺と常盤の目の前に定食が運ばれた。今日の日替わり定食は、イワシ尽くしらしく、イワシの竜田揚げとイワシの刺身、そして味噌汁と白米がお盆に並んでいた。竜田揚げの横にこんもりと盛られたキャベツには胡麻ドレッシングが綺麗にかけられている。
    「ここのイワシの竜田揚げ、ふわふわなんですよ。日替わり限定なので毎日は食べられないけど。棗さん、いただきましょう」
    「あ、うん」
     常盤の口から「ふわふわ」なんて似合わない言葉が発せられ、不覚にもどきりとした。いや、ツッコミ入れたくなってピタリと止まったというか。あの仏頂面から可愛いオノマトペが出てくるとは思っても見なかったのだ。多分、いや、きっとそうだ。びっくりしてドキドキしているってやつ。それ以外に考えられない。
     とりあえず、と割り箸を割って竜田揚げを一口齧った。
    「う……まぁ!何これ、めちゃくちゃふわふわじゃん!」
     外はカリッと、中はふわっと柔らか。どこかのキャッチコピーで使われていそうなありきたりな感想だが、それがピタリと当てはまる。添えられていた具沢山のタルタルソースに絡めると、さらに食感が増えた。
    「ふふっ」
    「……んだよ」
     ふと顔を上げると、目の前の仏頂面が砕けていた。目が合って、胸の奥がズンと疼く。
    「棗さん、リスみたいになってますよ」
    「…………美味いんだから仕方ないだろ」
     指摘されて顔が熱くなる。あまりの美味しさに頬張ってしまい、常盤と来ていることを忘れていた。
    「だから言ったでしょ、ふわふわだって」
    「まぁ、思ってた以上にな」
    「ふふふ。連れて来て良かったです」
     常盤は嬉しそうにそう言うと、黙々と定食を食べ始めた。
     常盤って、こんなふうに笑うんだ……。
     気にした事がないというか、そもそも常盤が笑ったところをはっきりと見たのは今日が初めてのような気がする。これは確かに、女性陣が黙っているわけが無い。仏頂面がこんなにも変わるのだ、ギャップ萌えなんて言葉さえチープに聞こえる。そう思うと急にまた胸の奥が騒がしくなった。なんだか顔を上げるのが気まずくて、視線を下げたまま味噌汁を啜る。出汁の香りが鼻腔の奥に広がって、またふにゃりと頬が緩んだ。
    「棗さん」
     名前を呼ばれ顔を上げると、常盤が自分の頬を指差しながらニヤリと笑った。
    「ここ、ハマりました?」
     悪戯に成功して喜ぶ子供のような顔。その顔も初めて見た。ドクンと身体の奥で心臓が返事をすると同時に、味噌汁をゴクリと飲み込む。
    「……そうかも」
    「かもって……。せっかく、棗さんにだけ教えた秘密の店なのに。まぁ、本音は顔に書いてありますけど」
     あ、また笑った。この顔は森野を誘っていたら見られなかったのかもしれない。それに俺にだけって……なんだよ。こんな良い店、デートの口実にぐらい使っていそうなのに……。
     味噌汁のせいなのか、常盤のせいなのか分からないが、身体の芯が熱くなった。
    「また、一緒に来てくれます?」
    「え?」
    「棗さんとまたお昼ご一緒したいって言ったんです」
     え、俺と?
    「別に、良いけど……」
     ただ、昼食を誘われただけだというのに妙に気恥ずかしくなり、声が尻窄む。
    「約束ですよ」
     ……なんでそんな真剣な顔で言うんだよ。まったく、今日の常盤は何だか調子が狂う。
    「……へいへい」
     俺が適当に答えると、常盤は一瞬だけ微笑んで、またいつものような仏頂面で黙々と昼食を食べ進めていた。



     次に常盤に誘われたのは週末だった。もう少し期間が開くと思っていたが、たまたま同じタイミングで作業に一区切りついたところだった。場所は前回と同じ店。その日の日替わり定食は豚の生姜焼き。そしてこれまた前回同様に二人して同じものを頼んだ。次に来た時は、日替わり定食以外を頼もうと二人で話をした。
    「じゃ、また誘います」
    「おう」
     簡単な口約束を交わし、各々デスクへ戻る。ログアウトしていたパソコンを立ち上げると、戻ってくる途中コンビニで買ったコーヒーを一口啜った。
     意外だよな……。
     チラリと向かいに座る常盤に視線を向ける。何を話しても返しはいつも通り無愛想だし、全然先輩として立ててくれないし。たぶん人を相手にするのが面倒だと思っているのではないだろうか。それなのに、常盤は日数を開けずに俺をもう一度昼食に誘ってくれたのだ。
     俺は全然嬉しいけどさ。後輩から誘われる先輩って、慕われている証拠だし。それに……。
     先日の常盤の笑顔を思い出し、胸が熱くなる。
     あぁ、でも今日はいつも通りだったな。ずっと無愛想でずーっと生意気。どうせならよく見ておけば良かったね。あんな風に笑うなら、普段から笑っていればいいものの……。
     無意識に溜息が出る。すると、俺の溜息に気が付いた常盤と目が合った。
    「あ……」
    「……なんです?」
    「いや、特にに何も」
    「……そうですか」
     二人の間に気不味い沈黙が流れる。だんだんと周りが騒がしくなってきて、昼休みもそろそろ終わるようだった。


     次の週、約束通り常盤は俺を昼食に連れ出した。その次の日も、その次の日も。そのうちに会議や急ぎの仕事がない限り、常盤と昼食に出掛けるようになって行った。行くのは決まってあの店だったが、時々時間のない日は二人でファーストフード店へ行ったり、珍しく店が混んでいる時は、コンビニ弁当を買って近くの公園で済ませたり。相手が常盤なので、会話はあったりなかったりだが、しだいに他の誰かと一緒にいるよりも楽に感じるようになっていったし、常盤も以前より俺に対して色んな表情を見せるようになってきた。まぁ、あの笑顔だけは全然見せてはくれないのだけど……。

     しばらくして常盤は俺とは別の業務を任されるようになった。いよいよ、独り立ちである。常盤に関しては他の新入社員よりも物覚えが早かったし、業務に関してはそこまで心配する点はなかった。
     本当、出来る子なのになぁ……。
     俺は文字通り頭を抱える。そう、本当に仕事は出来るのだ。ミスも少ない。ただ、やはり上の言うことを聞かない節が少々ある。せっかく色々と任せて貰えるタイミングになったというのに、また会議中のスマホ使用で注意を受けた。例の如く、本人ではなく俺が、だ。
    「彼は確かに仕事は出来るみたいだが、もう少し柔軟になって欲しいね」
    「……はぁ」
     給湯室でコーヒーを淹れていると、課長もマグカップを持ってやって来た。
     ならお前らも柔軟に対応してくれよ、新入に対してさぁ……。なんて言える訳もなく、俺は課長に苦笑いを返した。上が現代っ子に寄り添ってくれた方が全部丸く収まると思いますけどね。
    「部長達もパソコンを開いたまま会議参加されるじゃないですか」
    「部長達は仕方なく開いているんだよ。メールもすぐ見なきゃいけないし」
     嘘つけ。すぐ返信来たことなんて無いわい。
    「パソコンつけてたらそのままメモを打ち込む事だってありますよね。書くより打った方が早いって時もありますし……。常盤の場合、スマホのフリックのが早くて正確なのだと思いますよ」
     以前と言い方を変えて、同じことを伝える。何度目だ。お願いだから、もうどっちかがさっさと折れてくれ!
    「しかしなぁ。これから入ってくる社員に示しがつかなくなっていくのは避けたいだろう?」
     寧ろこれから入ってくる子達のがもっとスマホ依存症だよ。文字書く機会がどんどん減っている現状を知ってて言ってるのか、この課長は。そう言ったところで無駄だろうと思い、また苦笑いを浮かべる。はっきりと「あんたらが古い」と言えたらなんて楽なのだろうか。
    「それに、このままだと君の評価に響くぞ」
    「……へ?」
    「新人教育も仕事の一つ。君の役割りだろう」
    「いやぁ、まぁ……そうですけど」
     そこゴリ押しされるの違くない?それってパワハラの部類になりません?ていうか、俺も否定しろよバカ!
    「評価面談はまだ先だが、続くようだと監督者として弱いと判断されるぞ。昇進昇格のためにも、少しは上の言い分は汲み取った方が身のためだ。よく考えろよ」
     そう言うと、課長はコーヒーを一口啜ってから自席へ戻って行った。
    「……はぁ」
     思わず溜息が出た。この話をされると一気に肩の辺りが重くなる。課長の言いたい事は分かる。分かるんだけどさぁ……!もう俺を飛び越えて本人に直接言ってくれ。言ったところでどうせ常盤は自分のスタイル変えないだろうけど。良いじゃん、現にそれでミスなく仕事しているんだし!それに、新人なのにもう他の人のフォローにまで回っている。これ以上ない良い人材だろ。そういう子が欲しいって年度末に言ってただろうが!要望叶って優秀な人材が自分の部署に配属されたって喜べよ!まったく、会議中のスマホ使用ぐらい目を瞑ってほしいね。別に遊んでいる訳じゃないんだし。
     「しかし、昇進昇格って……」
     興味がない訳じゃないが、今それを引き合いに出すことはないだろう。
     誰もいない給湯室で舌打ちをし、俺は「ご自由にどうぞ」と書かれたお菓子ボックスから個包装のクッキーを三枚取ると、大股で自席へ戻って行った。


    「お前、常盤になんて言ったんだ?」
    「へ?」
     翌日、会議から戻った根岸に声をかけられた。
    「今日、こっちでミーティングがあったんだけどさ。初めて見たよ、あいつがペンでメモってるとこ。新品の手帳まで出してさ、スケジュール確認ぐらいはスマホでやりゃあ良いのによ。あと、めちゃくちゃ表情も柔らかくなったっていうか……?眉間に皺寄せてないあいつ久々に見た。たぶん、配属初日ぶりぐらいに」
     根岸がケタケタと笑う。いや、そんな事はどうだって良い。え、今なんて?常盤が、ペンでメモを?表情が柔らかく?いやいや嘘だろ?仏頂面でコスパがどうのって言って人の言う事全く聞き入れないあいつが?
    「今日って雪予報……?」
    「バカ。もうすぐ夏だっつーの。それで、どう言ったんだよ?」
    「どうって……」
     何も言っていない。いや、それには語弊がある。だいぶ前から周りに合わせてくれと頼んできた。しつこく頼んだところで変える姿勢はまったくなさそうだったが、何でまたこのタイミングで……。
    「ま、お前の頼みが通じたってことか。板挟みも楽じゃねぇもんな」
    「あはは……そう、だけど」
     腑に落ちない俺の背中をバシンと叩く。
    「あ、丁度いいや。久々に昼飯行こうぜ。常盤攻略について今後のために聞いておきたいし」
    「攻略って……。まぁ、良いけど」
     俺が誘いに乗ると、根岸は財布を取りに自席へと戻って行く。常盤の席に目を向けると、まだ戻ってきてはいない。ここ最近昼休みは毎日のように一緒に出ていたし、一言声を掛けた方が良いだろう。フロアの扉へ視線を向けると、丁度他の社員に紛れて常盤が戻って来た。
    「お、お疲れ」
     目が合って声をかけると「お疲れ様です」といつも通りの調子で常盤が答えた。
    「お前、手帳買ったんだって?」
    「……棗さんが用意しろって言ったじゃないですか」
    「まぁ、そうだけど……」
    「近所で安く手に入ったので。たまには先輩の言う事を聞いても良いかと思ったんですよ。何か問題でも?」
     ギロリとした視線に背筋が伸びる。これのどこが表情の柔らかい人間だよ。全然変わりないじゃないかっ!
    「いや、問題はないけど……まぁ、うん。分かってくれたなら良いよ。ありがとな」
     そうだ。常盤は口煩い上長達に合わせてくれただけだ。スマホをずっと見てるのは確かにマナー違反かもしれないが、時短という点では彼のやり方も許容していく考えをこっちが持たないといけないというのに。
    「何がありがとうですか……まったく」
    「え?」
     ボソリと呟いた常盤の声は小さくて聞き取れなかった。
    「いえ。何でもありませんよ」
     常盤はそう言って会議資料を片付けると、腕時計を確認して俺の方に向き直る。
    「昼、行きましょう」
    「あ、今日は根岸に誘われてて。常盤も来るか?」
     常盤の眉がピクリと動く。
    「……いえ。今日はいいです」
     いつもより覇気のない声で常盤が返事をする。別に遠慮なんてしなくても良いのに。根岸の方に視線を向けると、財布片手に出入り口付近の壁に寄りかかっていた。
    「んじゃ、また明日な」
    「はい」
     常盤の返事を受け、俺は根岸の元へと向かう。
     また明日、か。
     ほわんと胸の辺りが温かくなる。そういえば毎日のように一緒に昼食へ向かっていたが、こうやって面と向かって約束をしたのは初めてだ。
     こういうのもなんか、良いな……。
     心なしか足取りが軽くなり、俺は根岸に悟られないよう、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。



    「さてと、どこ行く?」
    「根岸の気分は?」
    「んー、麺類」
    「なら中華料理店に一票」
    「あぁ、あそこね。久々に行きたいかも」
     会社のビルを出ると、根岸と二人で駅の反対側へと曲がった。会社近くに安くて美味しい町中華の店があり、うちの社員の行きつけの店といっても過言ではない。昼休みになると、同じ社員証を首から下げた人達が、席を埋め尽くしているのをよく見かけた。最近は常盤と隠れ家居酒屋に出向いている事が多かったため、かなりご無沙汰だ。ちなみにここの回鍋肉が俺のお気に入りだったりする。
     店の前に着くと、根岸が店内に入ろうとする俺を制した。
    「なんだよ」
    「……どうしよう。餃子定食も捨てがたいな」
     茶色く薄汚れたガラスの中に並んだ食品サンプルと、日焼けしてほとんど品名が見えないメニューを見ていた根岸が唸った。この店は食券購入式のため、利用者は店内に入る前にメニューを決める。根岸の他にも直前にして心変わりをしている人間が数人、腕を組んで悩んでいた。
    「麺類はどうしたんだよ」
    「そうだった……じゃあ単品で餃子……いやそうなると米食いてえしなぁ」
    「ライス付ければ良いでしょ」
    「あのなぁ、アラサーの胃袋って結構貧弱なんだぞ」
    「そんな事言って、頼んだら頼んだで食べちゃうくせにさ。俺、先入るよ?」
    「待てって……あ」
    「ん?」
    根岸が通りの向こう側に何かを見つけた。
    「へぇ、やっぱあそこくっついてるんだ?」
    「あそこ?」
     根岸が顎で指した先を見ると、そこには森野と常盤の姿があった。
     え……。
     ヒュッと、冷たい空気が体内に入り込んだ。視線の先に見える二人は、仲良さげに歩いている。常盤が他の人と笑っているのを初めて見た気がし、胸の辺りが小さく痛む。
     あれ、なんで……?あぁ、あいつら同期だ。昼ぐらい一緒に行くか……。
     やけに煩い心臓を根岸にバレないよう宥めた。そうだ、俺も同期の根岸とこうやって昼食に出掛けている。別になにもおかしくはない。
     ゆっくりと深呼吸した。慌てる必要はないのに、何故だか焦ってしまう。
    「お。曲がってったなぁ。あの奥ってあまり行かないけど……お前、あの先に何あるか知ってる?」
    「えっ?あぁ、あの先は……」
     あの先って……。
     心臓がドクンと音を立てた。その曲がり角は俺もよく知っている。ここ最近、常盤と毎日歩いている場所だ。
     俺にしか教えていないって、秘密の店だとか言っていたのに……。
    「お前も知らないか」
    「あ、えっと……うん。知らないかな……」
     根岸の声に目が泳ぐ。
    「森野と常盤が一緒にいるところをよく見かけてるって話聞いてたけど、あれマジなんだなぁ。森野、結構狙っていたやついたと思うぞ」
     ニヤリと悪戯っぽく根岸が笑う。
    「へ、へぇー……」
     俺は搾り出した声で相槌を打つので精一杯だ。
    「確かによく一緒に退社してるとこ見るよな」
    「そ、そうなの?」
     全然知らなかった……。新入社員は早めに帰らせているから……って訳じゃないのか?
     ジン、と急に体内が熱くなる。喉の奥も重く、上手く息が吸い込めない。心臓は握りしめられているように苦しい。よく一緒にいるって、いつ一緒にいたんだよ。最近は俺とばかり一緒にいたはずだろ?昼休み以外も、俺がコンビニに出掛ける時だって呼んでもいないのにくっついて来る。業務内容だって森野とは全然違うはずなのに……。
     もしかして、俺が二人のことを全然知らないだけ?知ったところで関係ないけど、なんていうか、俺って常盤とは距離の近い先輩だったはずじゃん。もしかして、蚊帳の外ってやつ……?いや、日本語の使い方間違ってないか?
    「ま、詳しくは知らないけど。美男美女でお似合いなんじゃないの?」
     お似合い、ねぇ……。
     言われて見れば確かにそうだ。並ぶ姿に違和感はない。むしろ俺と常盤が並んでいる方が歪に見える。整った仏頂面後輩と、低身長で童顔の先輩。どちらが先輩かわからないと揶揄われた事だってあるぐらいだ。
     別に気にすることじゃないか……。俺が最初に森野を誘わないのかって聞いたんだし。もしかしたら俺のその一言がきっかけかもしれないし……。やっぱあいつ、飲み会とプロジェクターの件って……。
     何故だか言葉にならない小さな痛みがチクチクと胸を刺す。身体の不調はなかったはずなのに。
    「金井、混む前に行こうぜ」
    「あ、うん」
     曲がり角をぼうっと見つめる俺に根岸が声をかける。そうだった、下手したら食べ終わるのが昼休み終了ギリギリになってしまう。
    「もう決めたの?」
    「おう。半ラーメン、半ライス、単品餃子!」
    「……コスパ悪いな」
     根岸の後に続いて店内へ入りながら、俺は常盤が良く口にするセリフを吐いていた。



     昼食後、喫煙者の根岸はソワソワと足早に会社へと戻って行った。分煙化が急速に浸透した結果、会社付近では吸える場所は殆どなく、喫煙者は社内の喫煙室へと向かう。生きにくい世の中だ、とボヤいていたが、最近は煙草の値段が跳ね上がり禁煙を考えているとも言っていたが、あの様子ではまだ当分先になるだろう。一方俺は食休みを兼ねてゆっくりと歩いて戻る。これは最近ついたクセだった。それまで一人だったり、根岸や同期と一緒の時は食べてすぐ社に戻って仕事に入っていた。ギリギリまでゆっくり休むことを考える事はなく、とにかく早めに仕事が片付く方が良いと考えていたのだが、常盤と一緒に昼を過ごすようになってから一変した。彼は「すぐ戻るのは勿体ないです。労働者の権利なので十分休みましょう」と、俺をコンビニや近所の公園まで食休みがてらの散歩に連れ出したのだ。それが何日も続けば生活の一部になってしまう。それに、このだらだらとした時間は気持ちよくて、身体が軽くなる……はずだった。今日に限っては違うらしい。体調は万全な筈なのに、何かが引っ掛かる。
     胸焼け……とは違うな……。
     昼食後にこんな風になったのは初めてだ。特に、根岸から常盤に「何を言ったら改心させられたんだ」と再度質問されたあたりから様子がおかしい。いや、そもそもさっき森野と一緒にいる時から胸の辺りに違和感があった。新入社員の時、心労が酷かった時とはまた違う。
     なんか飲もう。そしたらきっと気分が変わるかも……。
     気持ち悪いとも違う違和感を消すべく、俺はそのまま近くのコンビニへと立ち寄った。真っ直ぐ飲み物が並ぶ棚へと向かい、やっぱり淹れたてホットコーヒーにするか、アイスコーヒーにするか悩んでいると「あっ、金井さん」と声をかけられた。
    「……あれ、森野?」
     振り向くと森野がにこりと笑顔を向けて立っていた。手にはコンビニ限定のチョコレート菓子とホットのボトル缶コーヒーを持っている。
    「偶然ですね。ここ、会社近くじゃないのに」
    「あぁ、そうだね。昼食の帰りだよ」
    「私もなんです」
     森野はにこりと微笑む。俺は彼女の付近をキョロキョロと見渡した。
     あれ。常盤は……?
    「一人?」
    「はい。あ、さっきまで常盤くんと一緒に居たんですけど、散歩に行くって言うのでそこで別れました」
    「へ、へぇー」
     常盤の名前を聞いて、一瞬自分の動きが止まったが、俺は慌てて相槌を打ちながらホットのボトル缶コーヒーを棚から取り出した。
    「どうかしました?」
    「いや、別に。あ、それ奢るよ」
    「え、良いですよ。自分で払います」
    「良いって。会っちゃったんだから、俺に払わせて」
    「ふふふ、なんですかそれ。それじゃあ、お願いします」
     森野はくすりと笑って俺に菓子とコーヒーを手渡すと「外で待ってます」と言ってコンビニから出ていった。
     やっぱり、笑うと可愛いもんな……。
     何もしていないのに何故か負けた気になる。今日の俺はいまいち自分でも調子が掴めない。会計を終えて外に出ると森野が嬉しそうに駆け寄ってきた。
    「ありがとうございます」
    「いいえ。でも良い先輩だって他の人に言いふらすなよ」
    「え、良い先輩だって言いふらすのはダメなんですか?」
     コーヒーとお菓子の入ったビニール袋を受け取りながら、森野が首をかしげる。
    「そりゃ、奢る相手増えたら困るし」
    「あはは。そうですね。それに常盤くんにも怒られちゃいます」
    「え、常盤?」
     開けようとしたボトル缶の蓋から手を離す。なんで今、常盤が出てくるんだ……?
     森野は俺の困惑した顔を見てまた笑う。揶揄われているのかどうなのかの判断も付かず、俺は眉をハの字に寄せた。
    「常盤くん、いつも金井さんの話してますよ。口煩い優しい人だって」
    「……口煩いって……よく言うよ、同じ事言わせるあいつが悪いっつーの」
    「ですね」
     相槌を打ちながら森野がコーヒーの蓋を開けた。
    「その口煩いのを独占してるのは常盤くんだけですし」
    「独占って……」
    「知ってますか?金井さんにかっこいいところ少しでも見せたいからってスマホメモしてたって」
    「……はぁ?」
     かっこいいところって、スマホメモが?ていうかなんで常盤が俺にそんなところを見せたいんだよ。
    「その顔はまだ何も分からないって顔ですね……。じゃ、私から話すのはやめときます」
    「えっ、言い出しておいて?」
     途中でやめられると気になって仕方ないから全部話してくれても良いのに。森野は「それから」と付け加えると、さっき買ったチョコレート菓子を一つ俺に手渡した。
    「あの仏頂面も、金井さん専用ですよ」
    「……え?専用?」
    「あ、噂をすれば……」
     専用ってなんだと聞き返そうとすると、森野が横断歩道の向かい側を指差した。その先には散歩から会社に戻る途中の常盤がいる。こちらに気がついた常盤は横断歩道の手前で足を止めた。
    「専用の詳細は本人から聞いてくださいね」
    「えっ」
    「私は先に戻ります。この後またプロジェクター運ばないとなので……コーヒーとお菓子、ごちそうさまです」
    「森野っ!」
     信号が青になったのを確認した森野は、ペコリと頭を下げ、駆け足で横断歩道を渡って行った。
     なんなんだよ、あいつ……!
     可愛い後輩の女性社員の背後がだんだんと悪魔に見えてくる。向かいに渡った森野は常盤に何か伝えると、手を振って会社へと向かって行った。
    「棗さんっ」
     向かいにいる常盤に名前を呼ばれてハッとする。信号機が点滅し始めていた。彼女の言っていた事がまったく理解できないまま、慌てて横断歩道を渡る。
    「ギリギリセーフっ」
     渡り切ると丁度、信号が赤に切り替わった。
    「子どもみたいですね」
     常盤はやはり仏頂面で俺を見る。この顔が俺専用って、余程嫌われているか何かだぞ。
    「……うるさいな。ほら、行くぞ」
     森野と居るところを見かけてから、常盤に会うのが勝手に気不味く感じた俺は数歩先を歩いた。
    「棗さん」
    「ん?」
     振り向かずに返事をする。顔を突き合わすのが癪だった。その理由はよく分からないけど。
    「今夜、時間ありますか?」
    「退社後ってこと?」
     顔を見ないまま、エレベーターホールでボタンを押した。横に常盤が並んで立ち止まるのを、革靴で確認する。
    「はい。俺、棗さんに言わないといけない事があって」
     話さないといけないこと、ねぇ……。
     おおよそ想像がつく。きっと、森野との事だろう。彼女が言っていた専用だとか独占とかは、きっと嫌いな先輩への牽制や皮肉に違いない。後輩からの誘いはなるべく断りたくなかったが、二人になるのはあまり気乗りしない。このモヤモヤは一向に晴れないし、さっきの胸のざわつきは森野と話した後で更に悪化した。
    「……良いよ。仕事終わったらここ集合な」
     丁度良いタイミングでエレベーターのドアが開く。
    「はい」
     常盤は静かに返事をした。退社後まであと数時間。それまでになんとかこの胸焼けともいえないモヤモヤがおさまってくれれば良いが……。



     退社後に常盤に連れてこられたのは、いつも二人で来る隠れ家居酒屋だった。
    「……なんでここなんだよ」
    「なんでって、棗さんここ気に入っているでしょう?」
    「まぁ……そうだけど」
     そうだけど、今日の今日でここは来たくなかった。エレベーターホールで待ち合わせし、会社のビルを出るところまでは大した事なかったのに、この店に向かっているとわかった時点でまた胸のざわつきが戻ってきたのだ。
    「棗さんとサシ飲みもしたかったので」
    「そうかよ」
     常盤は通されたテーブル席に着くと、嬉しそうに夜のメニューを眺める。
    「なんか機嫌悪いですか?」
    「別に」
     不貞腐れたような物言いが、自分の機嫌を剥き出している。情けないな、後輩相手に。しかも、常盤が誰かといたところを見てから調子が悪いなんて。納得いかないが、認めざるを得ない。でもどうしてもこの感情がはっきりとしなくて、苛立ってしまう。
    「だいたい、なんで俺だよ」
    「話があるって言ったじゃないですか。あ、とりあえずビールで良いですよね?」
     仏頂面でそう言われると、なんだか責められているようで更に腹立たしい。俺は適当に返事を返すと、不機嫌な俺に構わず常盤はビールと一緒に何品か注文した。
    「で、話ってなにさ。正しい手帳の使い方でも教えて欲しいってか?」
    「その前にさっきから何に苛立っているんですか」
     さらっと俺の嫌味をかわす。そういうところがムカつくんだよ。
    「お前に言ったところで解決しないから。話って、どうせ森野のことだろ」
     常盤の眉がピクリと動いた。
    「森野は関係ありませんけど。本当に、さっきからなんなんですか」
    「なんなんって……。なんで森野が無関係なんだよ。関係大アリだろ?」
    「いいえ、まったく」
    「……嘘だぁ」
    「嘘じゃないですよ。本当に、何を勘違いされているのか知りませんが……」
    「だ、だって、今日の昼に森野とここに来たんだろ!」
     思わず常盤の声を遮った。
    「あ……ごめん」
     言ってしまってからしまったと慌てて顔を背けた。しかも後輩相手に大きな声を出して。先輩として最悪だ。だが、これには訳がある。直接はっきりと言えるような勇気はないが、きちんとした訳が……。
    「……見ていたんですか」
    「た、たまたまな」
     沈黙が二人の間に流れる。その間にビールやつまみが続々とテーブルの上に並べられていった。
    「……とりあえず、飲んでください」
     最初に口を開いたのは常盤だった。俺の手前に運ばれたビールのジョッキの持ち手を、こちらに向ける。
    「お、おぅ……」
     一口ビールを飲み込んだ。カラカラに渇いていた口の中が一気に潤っていく。乾杯もせずに人と酒を飲むのは初めてだった。
    「この店を通過して奥に行くと、ファミレスのある通りに出るんです」
    「え……?」
    「俺は森野とファミレスに昼食を食べに行きました」
     そう言って財布から今日の日付のレシートを取り出す。印字されている時刻は丁度昼休みの時間帯だ。
    「秘密のこの店は、棗さんとしか来ていません。他に、何か聞きたいことは?」
     俺は首を横に振った。喉元に迫っていたざわつきの半分が消えた気がする。
    「ごめん、俺……。本当にどうかしてて。なんか、森野とお前が一緒にここに来たのかもって思ったら、なんか悔しくて……。何言ってんだって感じだよな。ただちょっと仲良い先輩後輩なだけなのに」
     言っていて自分でも訳が分からなくなる。常盤はただの後輩だ。それ以上でもそれ以下でもない。なのに、誰か他の人と一緒にいることが耐えられない。今日一日中悩んでいたモヤモヤも、それが答えなら納得がいく。でも、なんで。どうして。
     ふと、顔を上げると常盤と目が合った。同時にドクンと心臓が高鳴るのを感じる。
    「……無自覚ってやつですか」
     常盤が小さく笑う。以前見たあの柔らかい笑顔だった。しかし、無自覚って……俺が?
    「気が付いてないなら俺が言いますけど、覚悟できてます?」
    「は、覚悟って……」
     一瞬、身構える。覚悟するほどのことに気が付いてないって、俺相当鈍感すぎやしないか。常盤の柔らかかった表情が、真剣な顔に変わり、その雰囲気に思わず唾を飲み込んだ。
    「……棗さん、俺のこと好きでしょう?」
    「え…………?」
     全身が急に熱く感じた。額に汗がじわりと滲み、息を吸い込むのが苦しいほど、心臓はどくどくと音を立ていた。
    「や、そ……そんなことは……」
     否定しておきながら、この身体の熱や動悸、モヤモヤや苛立ちに理由をつけるならそれが一番しっくりくる事に納得がいき、途端に顔中が燃えるように熱くなった。
    「俺は棗さんが好きです」
     常盤の真剣な目が俺を捉えて離さない。心臓の音がさっきよりも余計に大きく聞こえた。
    「な……」
     何を言っているんだ、そう言ってやろうと思ったのに、咄嗟のことで声が出なかった。
    「真っ赤ですけど」
    「お、お前がっ!変なこと言うからだろっ!」
    「で、どうなんですか」
    「どうなんですかって……」
     また心臓が跳ねる。無自覚、と言われた意味がようやく分かった。じわじわと羞恥の波が迫ってくる。この気持ちを自覚する前に嫉妬して、子供みたいに拗ねて、当たって……。全部に合点がいく。森野といるだけでモヤモヤしていた気持ちは、嫉妬から生まれた常盤への独占欲だ。そうと分かるとほんの数分前の自分を思い出すだけで、顔が更に熱くなっていく。あぁ、もぅ、穴があったら直ぐにでも入りたい……っ!
    「ふふふ、また顔に書いてありますよ」
    「う、うるさいな……」
     ぼそりと言い返した俺を見て、常盤は笑う。恥ずかしさが募って心臓が飛び出そうだ。もう一度ビールを一口飲み、深呼吸をする。もう認めるしかない。だってもう、答えも気持ちも全部常盤に筒抜けだ。すると、俺の思考を察したのか、常盤が先に口を開いた。
    「俺、入社前から棗さんの事が気になってて……」
    「え、入社前?」
     常盤が頷いた。
    「でも、常盤と俺が話したのって入社してからじゃないか?」
     すると、常盤はくすりと静かに笑った。
    「去年の春にあった企業説明会覚えてますか?」
    「え?」
     そう言われて記憶を探る。確か、人事部に頼まれて説明会中に登壇した覚えがあった。乗り気になれず、何度も断ったが、以前休職した俺だからこそ、話せる話があると言われて最終的に首を縦に振ったのだ。その言われ方すら問題視されそうだが、そんな事よりもこれから入社する学生達こそ、こういった部分を理解して就活するべきだと考えていた。人事部の担当者もきっと同じだったのだろう。
    「……それがどうしたんだよ」
    「俺、そこで棗さんを好きになったんです」
    「企業説明会で?確かあそこで俺……」
     登壇して話したのは、パワハラ問題についてだ。業務内容は外部に漏れる可能性を加味して大雑把な説明になったが、この件に関しては感じた事を全部自分の口で話した記憶がある。
    「社のマイナスイメージになるような話をわざわざしていたのはこの会社だけ。同じように苦しむ社員を出さないよう、社内全体で見つめ直しているって」
    「まぁ……どうせネットで調べれば分かる事だし、隠す事もなかったしな」
     当時、世間では大きく取り上げられなかったが、SNSの拡散によりネットニュースの隅で小さく取り上げられていた。ちなみに呟いていたのは俺の同期達。リテラシーがどうのってその辺も当時は社内で問題視された。
    「あの時、誰もが働きやすい環境を考えていきたいって話を真剣に話していたじゃないですか。あの日の棗さんの目を見て、あぁ、好きだなぁって」
    「だからって……俺、男だし」
    「俺も男ですけど」
     ここで性別をつつくのはブーメランだと、常盤は言った。
    「それに、いつも仏頂面じゃねぇか。俺の事口煩いヤツだと思ってるのかと……」
     言っていて昼間森野と話したことを思い出す。
    「口煩い先輩には変わりないでしょう」
     常盤は遠慮なくズバッと言った。
    「でも、口煩い優しい人ですよ。俺の為なのはよく分かっています。呆れても言い続けてくれるのは棗さんだけなので」
    「……分かってんのかよ」
     分かっていて、毎日のように言われ続けるのはどうかしているとも思うが、森野の言っていた「独占」の意味がようやく分かって、顔面が熱くなるのを感じる。同時に俺の顔が赤くなったらしく、常盤がくすりと笑った。
    「……笑うな」
    「嬉しいんだから笑いますよ」
     いつもの仏頂面が消えている。眉間の皺が一本もない。
    「……そうやっていつも笑ってれば良いだろ。誰に対しても無愛想で……。そうしたらもっと他の人からも可愛がられる後輩になったんじゃないの?」
    「良いんです、これで。その方が棗さんは放っておかないでしょ」
     あぁ、そういう事……。目の前の男の思考が分かって一瞬腹が立ったが、その策にまんまとハマっている自分がいて、言い返せない。ニヤリと見せた悪戯な顔ですら、俺にしか見せていないと分かると、嬉しくて口角が上がりそうだった。
    「それからもう一つ」
    「まだ何かあるのかよ」
    「えぇ、あります。森野の事です」
     その名を聞いて背筋がぴんと張る。俺に好意を寄せていると言われたとしても、確かに彼女との関係は気になっていた。心臓がまた一層速くなる。俺は手元のビールを一口飲んだ。
    「あいつは、ただの相談相手です。まぁ、相談相手に決めたのは、棗さんですけど」
    「は、俺?」
     いやいや、森野を相談相手にって、勧めた記憶は一切ないけど?
     見当がつかないといった俺の顔を見て、常盤は続けた。
    「棗さんが飲み会で庇ったでしょう。俺、てっきり彼女の事が気になっているのかと思ったんです。でもハッキリ違うと言われたので、逆に森野を牽制することにしたんです」
    「……お前なぁ」
    「でも、おかげでもっと俺の事気になってくれたので。作戦勝ちですね」
     得意気にそう言うと、常盤は俺の方へ向き直った。
    「したかった話は以上です」
     答え合わせが一通り終わって、空気がピリッとした。常盤のおかげで俺の中で渦を巻いていた気持ち悪さは殆ど綺麗に消え去っている。
    「棗さん」
    「……ん」
    「俺と付き合ってください」
     その真剣な目に、思わず目を逸らした。心臓が飛び出しそうで胸が痛くなる。言われるだろうと覚悟した言葉、嬉しいはずの言葉に、恥ずかしさが勝ってすんなりと声が出ない。
    「……棗さん」
     常盤が黙り込んだ俺の顔を覗き込む。居た堪れなくて俺は咄嗟に「も、もう一個聞きたいことがある……っ!」と口にしていた。
    「もう一つ?なんですか」
     常盤の顔が一瞬でいつもの仏頂面に戻る。俺は不機嫌スイッチを入れてしまったらしい。
    「な、なんで急に手帳買ったんだよ……」
     取り繕うように絞り出したのは、スマホメモの件だった。あれだけ口酸っぱく言い続けてもなかなか譲歩しなかったくせに、今日になって手帳持参とは。しかも、俺のいない会議で。根岸から言われたのが少し悔しかったのもある。これに関しては思っても言わないけれど。
    「用意したらしたで文句ですか」
    「単に気になっただけだよ」
    「俺のせいで棗さんの昇進昇格が止まったら嫌ですから」
     昇進昇格って……。
    「……お前、まさかあの話聞いてたのか?」
    「あの課長ならやりそうじゃないですか」
     俺は額に手を当てて溜息を吐いた。
    「別にお前が気にする事じゃないだろ……」
    「気にするに決まってるでしょう。俺がただの見栄でやってることなんですから」
    「見栄って……別にスマホでメモ取ることは悪い事じゃないだろ。頭が硬いだけなんだよ。まぁ、やり方やルールは双方合意が合って然るべきだけど。お前も課長達も、自分の意見を押し通すだけで話し合いに持っていかないのが悪い。尚且つ、俺みたいなのを間に挟むのはタチが悪い」
    「……すみません」
     常盤が珍しく素直に謝る。いつにも増してその姿が可愛いと思えるのは、自覚した故だろうか。
    「それに、あれが理由で俺の出世が止まったらそれこそ労基に走るよ」
     俺はもう一度出そうな溜息をビールで流し込んだ。これで俺の聞きたい事は全部終わった。常盤に対して抱いたモヤモヤは綺麗に消えた。
    「棗さん。それで、返事は?」
    「返事は……」
     ゴクンと唾を飲み込む。忘れていた動悸がまたぶり返した。この歳になって誰かに告白されるとは思ってもみなかった俺は、なかなか気持ちの整理がつかない。もだもだと返事を先延ばしにしても、常盤に失礼なのは分かっていた。
     ええい、こんな事もう今後あるかないかだ。それに、森野の件でたった数時間嫉妬しただけで息苦しかったのだ。ここで後悔するような事はしたくない。俺は深呼吸をして口を開いた。
    「……会社内での先輩後輩を守れるなら……」
     声が震えて、我ながら情けない。加えて、恥ずかしさと嬉しさにアルコールが混ざって涙目になり、思わず下を向いた。
    「死んでも守ります」
    「……あと、その仏頂面やめろよ」
    「……それは、難しいですね」
    「なんでだよ」
    「棗さんだって、締らない顔した彼氏なんて嫌でしょう?」
    「……可愛い気があって良いと思うけど」
    「棗さんの前ではできる後輩、かっこいい彼氏でいたいので」
    「見栄っ張りめ……」
    「なんとでも言ってください」
     でも、自分のためにそう見せたいと頑張る常盤が少し愛おしく思える。
     本当に、俺……こいつが好きなんだな。
     自覚して、実感して、苦しかった全部が嬉しさに変わっていく。こんな多幸感に溢れたのはいつぶりだろうか。大人になってから、こんなにも擽ったい恋愛をするとは思っても見なかった。学生の頃なんて、付き合う時点でキスや手を繋ぐぐらいは終わっていたり、一歩先に進むのが普通だったのに。こうやって、きちんと気持ちを確かめ合うのも良いものだ。少しばかり、恥ずかしさが上回るけれど……。
     頬が緩み、一気に緊張が解けていく。店内に流れる音楽もやっと聞こえてきた。
    「棗さん」
     常盤がビールのジョッキを持ち上げた。
    「ん?」
    「今日から、よろしくお願いします」
    「……こちらこそ」
     差し出されたジョッキに自分のジョッキを軽く当て、小さな声で「乾杯」と呟くと、常盤がはにかみながら「乾杯」と答える。そのふいに緩んだ表情はやっぱり仏頂面と比較すればするほどに可愛らしい。別に締まらなくたって構わないのに。じっと見つめながらジョッキに口を付けると、常盤と目が合って思わず互いに吹き出した。


    「棗さん。今後は酔っても根岸さんに頼るの禁止ですよ」
    「はいはい」
    「次、酔って潰れた時は部屋まで運びますからね」
    「分かったよ、肝に銘じておくから」
    「じゃあ、今日はたくさん飲んでください」
    「……お前、アルハラで訴えるぞ」

     
     
    創作小説を書いています。 原作『添い猫屋DREAMOON』単行本発売中 BLとファンタジーが好き。 趣味はゲーム&読書 感想いただけたら嬉しいです!

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