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カフェ・ダイバーズ

    コーヒーの海

     アラーム音が部屋に響いた。被っていた布団から腕を伸ばし、枕元のスマホを掴む。寒さと眠気で顔を出すのさえも億劫だ。アラームを止め、潮平凪沙は眠い目を擦る。時刻は午前五時。朝日は昇ってすらいない。
     あぁ、また今日も始まるのか……。
     まだ布団に潜っていたい気持ちを押し殺し、重い身体を起こす。凪沙はベッドから出ると、就寝前に放り投げたカーディガンを羽織って洗面所へ向かった。鏡に映る自分の顔に溜息を吐く。目の下の隈は、ここ数ヶ月でどんどんと色が濃くなっている気がした。それもそのはず、毎晩帰宅は日付が変わってから。入浴や明日の準備をしてから就寝するため、結局ベッドに入る頃には二時だ。そして、誰よりも早く出社しなければならないため、朝は五時に起きる。そんなサイクルが入社してから数ヶ月間毎日続いていた。
    「はぁー……」
     数分に一度の溜息が癖になってしまい、幸せなんてとっくの昔に逃げ切った。春先には艶々だった髪の毛にも、瑞々しさは感じられなかった。
     眠たい、行きたくない……。
     そう思うのに、身体はテキパキとロボットのように身支度を進めて行く。新入社員として勤め始めた頃の気持ちはどんどん薄れていき、今はもう行かなくて済む方法を頭の隅で考えてしまう。適当に髪を梳かし、シワの寄ったブラウスに袖を通す。アイロンなどやっている暇すら惜しい。メイクも簡単に済ませ、冷蔵庫に入っている烏龍茶のペットボトルを一口飲むと、凪沙は鞄を持って玄関へ向かった。
    「はぁ……」
     行ってきますの代わりに溜息を吐く。アパートにドア音が響かないよう、ゆっくりと閉めた。施錠を完了させると、また一つ溜息が出る。吐く息は白く、空気は氷のように冷たい。
     仕方ない、行こう……。
     外に出たら諦める、そんなルールをいつ決めたかも思い出せない凪沙は、重たい足を駅へ向かわせた。

     五駅先の勤務地、海原駅に着く頃には空も明るくなっていた。早朝ラッシュを回避できる時間帯なのは不幸中の幸いだ。しかし、まだ時刻は七時前である。本来ならこの時間に起床し、始業の九時前に到着すれば良いのだが、それを良しとしない上司がいた。
    「新入社員は、朝八時には出勤してフロアの掃除をする事。来てる来ていないぐらいは防犯カメラ見りゃ分かるからな」
     いつからそんなルールになったのかは知らないが、入社した当初、配属先で凪沙を含めた新入社員六名にはそう伝えられた。上司に言われてしまえば従うしかなく、凪沙達はその翌日から言われるがまま、早朝出勤をせざるを得なかった。当初はまだ六人いたため、八時ギリギリに来ても間に合っていたが、既に四名はこの早朝出勤と深夜退勤に白旗を振ってしまい、残ったのは凪沙ともう一人の同期だけだった。その同期も秋の人事異動で別の部署に配属。結局、六人で何とかなっていた作業を一人で行うことになったため、早朝出勤をする羽目になってしまったのだ。否応なしな状況下に、嫌気はさしていたものの、抵抗することはなかった。いや、寧ろ出来なかった。根を上げそうになったのは何度もあった。だが、休みを告げるのにも、自分より早く会社にいる上司はいない。彼らが出社する頃に連絡したとて、誰よりも早く来て掃除をする約束はどうなったと、叱責されると考えたら、我慢して出社した方がマシだと思えた。
     習慣というのはある意味怖い。最初に感じた違和感は、どんどん自分にも周りにも馴染んでいく。オフィスの入り口で社員証をかざし、ビルの中へ入る。警備員と苦笑いを含んだ挨拶を交わし、エレベーターで在籍するフロアへと向かった。扉が閉まると、最寄り駅のコンビニで購入したコーヒーの香りがやっと凪沙の鼻腔へ到達した。
     いつから温かいコーヒーを飲んでいないのだろうか。このコーヒーを口にするのはきっと掃除を終えた時で、すっかり冷め切っている。いつものことだ。それでも朝食のサンドイッチのついでにコーヒーを買ってしまう。せめてフロアのエレベーターホールに設置された自動販売機にコーヒーがあれば良いのだが。ビルに設置された自動販売機全部に置いていない訳じゃないが、朝こそ時間が限られており、とにかく早く掃除を終わらせて何か口にしたい。下手をすれば夕方まで何も食べれないこともあるのだ。食堂階へ寄って缶コーヒー一本を買う事すら惜しい。こんな現状がおかしいのは重々承知だが、行動に起こす勇気は持ち合わせていなかった。
     凪沙は朝一番のコーヒーが好きだった。中学生の頃、いつも飲んでいたココアを切らした母が砂糖とミルクたっぷりのカフェオレを作って出してくれたのが最初だった。高校を卒業する頃には砂糖とミルクが無くても飲めるようになったし、大学の授業の合間にカフェでコーヒーを飲みながら勉強をするのが好きだった。鼻に抜けていく香りに、温かくてほろ苦く甘い味。アルバイトの給料日にチョコレートケーキと一緒に飲むのが楽しみだった。
     しかし、就職してからは、ただの眠気覚ましとして飲んでいるだけだった。それも、冷め切って酸化したもの。あの深く甘いふくよかな香りを楽しんだのは、とっくの昔な気がしてしまうほどだ。休みの日は睡眠を優先するようになったし、同期が退職してからは休日を返上しなければ事務仕事がまったく終わらない。代休も有休も貯めるだけ貯めて、結局使えていないのが現状だった。
     だが、繁忙期間である月末月初の業務はつい二日前に区切りがついた。何事もなければ、久しぶりに一時間の昼休みが取れるはずだ。そう思うと、新しく駅前に出来た、イタリアンレストランがぽんと頭に浮かぶ。ずっと気になっていた店だった。退社後はだいたいディナータイムのラストオーダーに差し掛かってしまうため、行けるのはランチタイムのみだろうと思っていた。
     もしかして、今日がチャンスでは……?
     小さな希望に、胸が高鳴った。トラブル続きで先月中旬からずっと昼休みに外出する事が出来なかったのだ。凪沙はいつもよりてきぱきと身体を動かした。昨日までの自分はもっと動きに時間が掛かってしまっていたと思う。なんて時間の無駄をしていたのだろう。さっさと終えれば、その分メール確認に時間も取れ、いつもより少しだけ温かいコーヒーを飲むことができるのに。そうは言うが、毎日精力的にサービス前残業などやっていられない。とはいえ、少しでもやる気が見えたのは良いことだろう。
     暫くするとフロアの扉が開き、三、四年目の先輩達が出勤してきた。二年目の社員がこの部署に居ないのは、凪沙の同期と殆ど同じ理由からだろう。凪沙は彼らに挨拶をしながらゴミをまとめ、ゴミ箱を廊下へ出した。こうしておけば、ビルの清掃員が回収してくれる手筈になっていた。

     掃除を終え、凪沙はデスクに座ると、朝食のサンドイッチ片手にメール確認に入った。ざっと見たところ、緊急に対応すべきものはなかった。いつも通り業務が進めば、今日の昼休みこそはゆっくり過ごせるはず。
     あぁ、でも。どうせまた午前中に面倒なものを上が回してくるに違いない。
     決まってもいない仕事を想像し、凪沙の肩に何かズンと重たいものがのしかかる。いや、だとしても午前中さえ乗り切れば良い。午後はどうにだってなる。凪沙は肩に乗った見えない何かを振り払うように首を振ると、もう一度パソコンの画面に向き直った。


    「潮平さん、ちょっといい?」
     もう間も無く昼休みに入るというところで、同じチームの先輩、井上に声を掛けられた。どっかの男性社員の怒鳴り声が被り、ほんの数秒ほど反応が遅れた。
    「あ、はい。何でしょう」
     慌てて立ち上がると、凪沙のデスクとだいぶ離れたところで、誰かが叱責されているのが見えた。
    「さっき給湯室行ったら紅茶もコーヒーもなかったよ。補充しておいてくれる?来客用にも使ってるんだからさ」
     井上は苛立ちを隠さずに言った。
    「え、あぁ……はい、すみません」
     凪沙は咄嗟に謝った。が、その補充に関しては残数五つ以下になったら、その都度使った者が補充するルールだったはず。本来なら凪沙だけが注意される事ではない。
     あぁ、もう。まただ。ていうか、井上さんがやってくれたって良いのに……。
     しかし、こういうのは後輩の仕事という考えが井上達にある以上、避けられない。潔く請け負った方が平和に終わる。
    「そういえばコピー用紙も無いよ。総務から貰って来てないでしょ?」
     今度は直ぐ真後ろから別の先輩、矢田が口を出した。
    「あ……すみません、直ぐに貰って来ます」
    「私、いつ行くんだろうって思ってたんだけど、全然行かないんだもんなぁ。まさか気が付いてないと思ってなかったよ。毎日確認するのが新卒の仕事でしょ?」
    「えと……ごめんなさい」
     気が付いてたならその時点で矢田さんがやってくれても良いじゃんか。
    「てか昨日頼んだやつって終わってる?」
    「え、まだですけど……」
     すると矢田が盛大な溜息を吐いた。
    「最悪。それ明日の午前中締めだよ。午後からじゃ間に合わないっしょ……」
    「えっ?でも昨日、急ぎじゃないって」
    「今、納期確認したら急ぎ案件だったの。つーか、先輩から頼まれたら普通すぐにやるでしょ?残業して何してたの?まさか給料泥棒?うわー」
    「ち、違います!別の案件対応してて……!あの、午後すぐに対応しますから」
    「いいよ、もう。私がやった方が早いし」
     今、納期確認したってどういうこと?絶対にもっと前から手元にあった案件じゃない。気がついた時にギリギリになってたのをまた私のせいにして……!
    「矢田さんかわいそー。ていうか、もう年末なんだよ?いつまでも新入社員気分なの?」
    「…………はい」
     渋々と返事を返し、凪沙は頭をぺこりと下げる。奥歯を噛み締めたのは何度目だろうか。腹の中で言いたいことはぐるぐると渦を巻くが、味方になってくれる人はいない。さっさとこんな場所から離れたくなり、凪沙は足早に総務部へ向かおうとした。
    「あ、潮平。総務から帰ってからで良いから、これ出しに行って来てくれ」
     井上達とのやり取りを見て何も言わなかったのか、部長が口を開いたかと思えば、凪沙に追加で郵便局へ行くようにと片手に持った封筒を揺らしながら言った。
    「えっと、普通郵便ですか?」
    「よく見ろ、速達だよ」
     確かに宛先に赤い文字で「速達」と書かれていた。午後イチに回せられるなら、と思ったがどうも急ぎの物らしい。
     なんで今……?
    「……わかりました」
     昼休みはもう無い、そう悟って凪沙はゆっくりと返事を返す。その様子を財布と上着を持った井上と矢田がくすくすと笑って見ていた。
    「マジで気が利かないよね」
    「仕方ないよ、まだ新入社員気分だもん。まぁ、前に辞めた子よりは諦め悪いけどさ」
    「しつこいよねー。雑用しかまともにできないし、容量めちゃくちゃ悪いし」
    「仕事できないって本当罪だよねー。そろそろ仕事覚えろって感じ」
    「マジそれ。こんな忙しい時期にイライラさせないで欲しいんですけど」
     凪沙はわざと聞こえるよう話す井上と矢田の声を直ぐにシャットアウトした。先ほど怒られていた社員は、しつこい説教から逃れられていないらしく、まだ捕まっているようだった。こんなのはまだ良い方だ。以前、任された覚えのない案件の担当にさせられており、注文書などの書類発行が遅れていると部長から叱責を受けた事があった。何のことか分からないと告げても、担当は凪沙になっているはずだと部長は引かなかった。蓋を開けてみると、井上が凪沙に業務を下ろし忘れていた事が原因だったのだが、それを井上が認めず、結局凪沙が業務管理不足と言われ、始末書を書かされた。これに比べれば嫌味で終わるのはまだマシである。だが、積もり積もっていくストレスはそろそろ限界も近い。同期が相次いで辞めていった原因は、これが日常茶飯事だった事だろう。誰かの失敗は下の責任。何かと押し付けられ、叱責される。そしてミスした本人からの陰口だ。フォローもなければ、使えないというレッテルを思い切り貼り付け、仕事さえ取り上げる。回ってくるものは雑用がほとんどなのに、繁忙時にはほいほいと業務を振ってくる。もちろん、業務を丁寧に教えてくれる親切な先輩はもういない。反論を試みれば、生意気だと言われ、良くて異動、悪くて自主退職へ追い込まれていく。優しくて良い人ほど追い込まれて早々に辞めていく。これが凪沙のいる部の現状だった。
     世間でいう所謂ブラック企業だが、そんな会社に縋ってしまうのは転職活動をする気力が疲労で削られてしまっているからで、本当ならさっさと辞めてしまいたかった。ただ、新入社員での退職は世間的に「持続性、協調性がない」という烙印を押されてしまう。加えて新入社員故に、大した貯金もない。失業中の生活費がいつまで持つのかも不安だったし、計画性無しに動いて周りから呆れられるのも怖かった。ならばせめて一年はここに籍を置くべきだと、凪沙自身も自分を縛っていた。
     せっかく、久々にランチへ行けると思っていたのに……。下っ端は満足に休憩すらも取れない訳ですか。
     思えば、きちんと昼休みを取れたのは新入社員研修期間までだ。だが、そんな会社にしがみついてしまっているのは自分自身。文句があるなら退職へ踏み切れば良いのだが、どうしたって職業履歴の事が頭に浮かぶ。
     今月はもう帰宅してからか、出勤のない休日にしか一息吐くことも出来ないのだろう。だが、既に月末業務を振られ始めていたため、その休日だってあるかも分からない。みたかった映画はどんどん上映期間が終了していく。行きたかったイタリアンレストランはまたお預けだ。
    「……早く辞めたいな……」
     凪沙は大きな溜息を吐くと、総務部へ重くなった足をゆっくりと運んで行った。



     コピー用紙とインスタントコーヒー、紅茶のティーバッグを補充し終えた凪沙は、部長に言われた通りに郵便局へ出掛けた。郵便局は職場のビルから駅を挟んで反対側にあるため、往復に時間がかかる。この分ではイタリアンレストランは勿論、コンビニすらも寄る時間がはなさそうだ。焦った凪沙は、小走りで郵便局を目指した。
     幸いにも郵便局の窓口は空いていて、スムーズに発送が完了した。時間も何とかコンビニぐらいは寄れそうだ。ホッと一息吐き、凪沙はゆっくりと歩き出す。コンビニに寄ってさっさと戻ろうと思ったが、ふと、商店街が目に入った。
     確かあの商店街のパン屋が安くて美味しいって聞いたような……。
     凪沙の記憶がうる覚えなのは、滅多にこちら側へは来ないからだった。こっちに来たのは先程のように郵便局に用がある時だけだ。
     バスロータリーを抜け、小走りで駅の向かいにあるアーケードの入口へ向かった。商店街に一歩踏み入ると、職場と同じ駅とは思えないゆったりとした空気に、凪沙は安心感を覚える。シャッターを閉めている店も数軒見えたが、基本的に開店している店が多く、活気が良い。途中、アーケードの途切れる所からも、飲食店の看板やスーパーが見えた。しかし、なかなか目当てのパン屋が見つからない。そろそろ昼食を食べ始めなければ、午後の業務に遅れてしまう。デスクに戻る事を考えると、もう殆ど時間がなかった。凪沙は適当な角を曲がった。諦めて近くのコンビニで何か買ってしまおうと思った。しかし、アーケードの外に並ぶ店も目新しく、つい足を止めてしまう。サラリーマンが並ぶ蕎麦屋に、種類豊富な野菜が並んだ八百屋。可愛らしい動物のモチーフの雑貨屋に、外装が派手な沖縄料理店。その中でも特に、甘い香りが外にまで漂う洋菓子屋が目に止まった。
    「へぇ……」
     職場近所に時間があれば立ち寄りたくなるような店がこんなにも並んでいるとは思わず、凪沙は思わず感嘆の声を漏らした。
     今度、昼休みには真っ直ぐここへ来よう。ううん、休みの日だって良いかもしれない……。
     休日に職場最寄りに来たいと思った事はなかったが、昼休みだけでは回り切れないだろう。たまには職場近所の開拓だって悪く無いと思い始めた時、見慣れたファーストフード店の看板が見えた。今日はパン屋も全部諦め、ここで昼食を買って戻ろうと思った時だった。
    「あれ……?」
     ファーストフード店の直ぐ横に小さな縦看板が置いてあった。新作メニューを紹介しているものかと思ったが、そこには『カフェ・ダイバーズはこの先』という雑な字に大きな錨型の矢印が描かれた紙が貼ってあった。
    「カフェ……ダイバーズ?」
     聞いたことの無い店名に、思わず凪沙は首を傾げる。
     海原で……?
     この海原市は海が近いからこそ海の文字が使われているが、最寄りの浜は数駅先だ。近いと言えば近いが、駅の反対はオフィス街である。何とも微妙な店名だと思った。きっと海好きが開いた個人経営のカフェなのだろう。
     でも、この辺の海ってダイビング名所じゃないよなぁ……。
     お世辞にも綺麗とは言い難い都会の海が頭に浮かび、凪沙は苦い顔をする。
     しかし、それよりも気になるのはこの貼り紙の文字だ。客引き用にしては雑過ぎる。錨型の矢印の下に書かれた営業時間は矢印で殆ど見えていなかった。
    「やってるのかな……」
     定休日の記載はない。しかし、なんとなく興味惹かれてしまう。凪沙の足はファーストフード店から離れ、見知らぬカフェへと進んで行った。

    「……何ここ、可愛い……」
     思わず凪沙はそう呟いた。ビルとビルの間の狭くなった道を進み、突き当たりを曲がると、明るいブルーグレーの壁に白い縁の丸い窓が特徴の小さなカフェがあったのだ。店の入口は真っ白な扉。その直ぐそばに縦看板が置かれており、今日のおすすめドリンクの説明が書いてあった。
     凪沙は窓からそっと中を覗いた。店内はがらんとしており、店員らしき人影がカウンターに見えた。どうやら、定休日ではないらしい。凪沙は腕時計の時間を確認する。ギリギリ、いけるだろう。テイクアウトが出来たらラッキーだ。凪沙は少しだけ緊張した面持ちで扉を押し開けた。
     ドアベルの音と一緒に凪沙は中へ足を踏み入れると、凪沙は店内を見てぎょっとした。壁が大きな水槽になっており、その中で見た事のない大きな貝や珊瑚、色とりどりな海藻や光る花々の周りを、様々な種類の魚が悠々と泳いでいる。全体的にも薄暗くて、まるで水族館だ。もう一方の壁には、珊瑚と造花で出来たフラワーアレンジメントの装飾が施されており、船の舵の形をした時計や、クラゲの形をしたライトがぼんやりと光っている。海の生物をモチーフにしたアンティークがずらりと並び、それら全てが物珍しく、凪沙は小さな息を漏らした。それに加え、歩くたびにふわふわとした感覚が足に残る。まるで海の中に入ったような感覚だ。しかし、窓から覗いた時は可愛らしいオシャレなカフェだったはず。大きさも、もう少し小さく見えた。だが、店内は奥行きもあって天井はやけに高い。これだけの装飾だ、不思議な錯覚を起こしているのかもしれない。
     凪沙が店内の様子に呆気に取られていると、奥の方から「いらっしゃい」というゆったりした声が聞こえた。
    「あの、ここってカフェで合ってますよね……?」
     凪沙が恐る恐る尋ねながら奥へ進むと、カウンターに一人人の男が立っていた。大きなふくよかな体つきの男で、ストライプのシャツに、青い蝶ネクタイをし、デニムの大きなエプロンを付けていた。水平帽に似た帽子を被り、ふっくらとした顔に白いもふもふとした髭を貯え、口にはパイプを咥えていた。
    「間違いないとも。ここはカフェ、ダイバーズ。君は……初めての人だね。なら今回はどうぞこちらへ」
     先程と同じゆったりとした声で男は答えると、凪沙をカウンターの席に座るように言った。凪沙は軽く会釈をし、巻貝のような背もたれが付いた椅子に腰掛けた。男は凪沙と目が合うとにっこりと微笑んだ。
    「あの、手軽に食べれる物とかありますか?結構時間がギリギリで……」
    「おや、お急ぎかい?」
    「昼休み中で……」
    「ふぅむ。まぁ、何とかなるさ。ねぇ、イワトビくん」
     男がそう言うと同時に、カウンター奥の「staff only」と書かれた扉から、ツンツン頭の男が勢いよく出てきた。
    「こら、もっと静かにっていつも言ってるだろう」
    「うるせぇな。時間が無ぇって言ってるヤツに、なぁにチンタラと接客してんだよ!」
     イワトビと呼ばれた男は、ギロリと鋭い目で凪沙を一瞥すると、目の前にメニュー表を置いた。
    「ひぇっ」
     凪沙は思わず声を出した。
    「だから、優しくって言ってるだろう?」
    「おい、お前。急ぎって言ったな。ここはそんな片手間な物、置いてねぇぞ」
     イワトビは大男を遮ってカウンターに乗り出し凪沙に言った。ツンツン頭が揺れ、金色のメッシュが薄暗い店内でもよく目立っている。
    「すぐに出せるのはコーヒー、ツナとたまごのサンドイッチ」
    「ちょっと、そのサンドイッチって僕の賄いじゃないか」
    「うるせぇな、お前がいつもお客サマ第一って言ってんだろうが」
     イワトビに窘められ、大男はしゅんと太い眉を下げた。
    「えっと……じゃあ、そのサンドイッチとコーヒーを」
     凪沙が恐る恐る注文すると、イワトビは「待ってろ」と言って奥へ引っ込んでいった。
    「悪いねぇ、驚いたろう。彼、不器用なんだ」
    「……はぁ」
     もふもふの髭が上下に揺れるのを、凪沙はぽかんと見つめた。すると、彼が立つ直ぐ背後にも小さな水槽があることに気がついた。中には海藻と、小さなひっくり返った植木鉢が入っていて、その上にはピンク色のイソギンチャクがゆらゆらと揺れていた。
    「ここには五郎さんっていうヤドカリがいるんだ」
    「……ヤドカリですか」
    「うん。彼がこのお店のオーナーでねぇ。ちなみに僕がここの雇われ店長。名前はザトウ。でもみんなにクジラ店長って呼ばれてるんだぁ」
    「えっ。オーナーって、ヤドカリが……?」
     それにザトウって……。
     おっとりした喋り方と風貌から、それぽっい渾名なのは何となく理解できる。しかし、オーナーがヤドカリとはどういう事だろうか。いや、そういう設定を持ったお店なのかもしれない。水族館のような店内をぐるりと見直した。雰囲気や揃っている物は彼の話にピタリと当てはまる。きっとここは最近出来たばかりのコンセプトカフェだろう。
    「ふぉっふぉ。久々に良いなぁ、うん。人をびっくりさせるのはやっぱり楽しいねぇ」
    「……はぁ」
     呑気に笑うザトウに、凪沙は苦笑いを返す。
    「あの、ここっていつから在るんですか?こんな素敵なお店、話題になってないのが不思議というか……」
     大きな水槽を眺めながら凪沙は尋ねた。都心に行ったってこんなカフェは滅多にないだろう。しかし、SNSに載せたら間違いなくバズる店内だ。それなのに客は凪沙一人しかいない。いくら手前のファーストフード店が人気チェーン店だからといっても、人が入らなさすぎる。海原市には高校も、それなりに大きな大学もあるし、あの商店街も若者の出入りが多いはずだ。一度ぐらい来たことのある人は絶対にいるだろうし、若い人ほどSNSに写真を上げたがるに違いない。
    「ここはダイバーズ、カフェなのでねぇ」
    「へ?」
     ザトウに答えになっていない返答を返された。にっこりと微笑む彼の咥えたパイプから、白い煙で出来た輪がぷかっと浮かぶ。
    「まぁ要するに、潜りたいヤツのために存在するカフェってこったな」
     裏から戻ってきたイワトビがザトウの横にドリップポットを置き、凪沙の前に分厚いサンドイッチの載ったプレートを置いた。パンの美味しそうな香ばしい香りが凪沙の鼻を抜け、思わず「わぁ、美味しそう!」と子どもっぽい声が出た。
    「それでその、潜るって……あの水槽にですか?」
     誰が見ても立派な水槽だ。あそこに潜ることさえ出来れば、人魚の気分を味わえること間違いない。しかし、凪沙はここにきてまだ数分だ。そんなことを考えたことは一ミリもない。
    「お前のその服、ウェットスーツ代わりなのか?」
     イワトビは眉を寄せながら呆れ気味に言う。
    「ち、違いますよ!最近は色んなカフェがありますし、ここもこんなに大きな水槽があって、店名も『ダイバーズ・カフェ』って……!そんなの聞いたら普通、ダイビングとか連想するじゃないですか!」
    「まぁ、そう言われればそうだね」
     ザトウが優しく微笑むと、先程イワトビから受け取ったドリップポットを使い、カウンターの後ろでコーヒーを抽出し始めた。今度はコーヒーの香りが三人を取り囲み始める。
    「あぁ、コーヒーもすぐ出るからね。腹ごなしに先にサンドイッチ食べてて」
     ランチに来たというのに腹ごなし?と、首を傾げたが、凪沙は空腹には勝てず、素直に「いただきます」と呟くと、プレートのサンドイッチに手を伸ばした。
    「ん、美味しいっ」
     サンドイッチを齧り、頬が緩むなんてことは初めてだった。分厚いパンはふわふわ、中のツナも身が大きく、たまごは半熟だ。それだけでも充分感動的なのに、マヨネーズとチーズにブラックペッパーが一気に口の中で広がっていく。いつも食べるコンビニのサンドイッチよりも何十倍も美味しくて、凪沙はもう一口続けてかぶり付いた。
    「良い食いっぷりだなァ」
    「はい、めちゃくちゃ美味しいです!ここ最近で食べた物の中で一番ですね!」
     目を輝かせて凪沙が言った。休日も寝るばかりで殆ど料理もしておらず、食事は基本的にお腹が空いたら近所のコンビニへ買いに行くことしかしていなかった。就業中も入社してからランチに行けたのは数えられるほどで、殆どコンビニで軽く済ませていた。夏の長期休暇も取らないまま今日に至り、実家への帰省もしていない。出来立ての温かい物を食べたのは久しぶりだった。
    「おー。そうかそうか、素直じゃねぇか。だがメインはそれじゃねぇんだよ」
    「え?」
    「だぁから、潜るっつったろ」
     キョトンとする凪沙に、イワトビは溜息を吐く。
    「まぁまぁ。いきなりじゃ、すぐ理解して貰える訳ないだろう」
     苦笑いでザトウが間に入った。
    「ここはイワトビくんが言った通り、潜りたい人のためのカフェなんだ。あるだろう、人には何か逃げたいことや忘れたいことって。そういう人の場所なんだよ、このカフェは」
     ザトウがまたにこりと微笑む。
    「逃げたい、こと……」
     凪沙の胸の中で何かがざわついた。
    「キミがここに辿り着いたのには必ず理由がある」
     ザトウは静かに言った。まだ出会って数分足らずの関係だ。勤め先の会社がブラック企業で、先輩からの当たりが強いだなんて二人に伝えていない。
    「……私がここに入ったのは、ただランチを食べるためで」
    「ほらよ」
     イワトビが凪沙のプレート横にコーヒーのカップを置いた。ほろ苦くてどこか甘さを帯びた香りに、思わず凪沙の目が細くなる。
    「物は試しさ。温かいうちにゆっくり沈んでいくのも案外心地良いものだよ」
     ザトウの柔らかい声に促され、凪沙はカップに手を伸ばした。カップに口を付けると、優しくて苦い香りがたちまち口いっぱいに広がっていく。すると、ちゃぷん、という音と一緒に身体が宙に浮いたような感覚がした。
     視界が一瞬にして暗くなる。凪沙はキュッと目を瞑った。立ちくらみかと思ったが、気持ち悪さはない。コポコポというぼんやりとした音が遠くで聞こえる。自分の身体が重く感じた。
    「力を抜いてごらん。そう、深呼吸をするように……」
     ザトウの声が近くで聞こえる。その声はさっきよりも低くハッキリと聞こえ、どことなく心地よさがあった。凪沙は言われた通り力を抜いた。すると、すうっと身体が軽くなり、上へ上へと引っ張られるように身体が浮いていく。どこへ向かっているのかは分からない。ただ、不思議と怖さはなかった。
     突然目の前が明るくなり、目が眩んだ。凪沙は恐る恐る目を開ける。すると、そこは見覚えのない浜辺だった。一瞬、近くの海を想像したが、あそこは観光地でもあって、いつ行ってもどこにいても人通りが多い。
     こんなに静かな場所、どこにあったのだろう……。
     凪沙は周りをキョロキョロと見渡した。周りは暗く、空を見上げると夜空が浮かんでいる。視界が暗くなったのはこのせいだと気がついた。しかし、さっきまではカフェのカウンター席にいたはず。どうして目の前に海があるのだろうか。凪沙は静かに波が揺れる水面をぼんやり眺めた。
     もしかして、これがザトウさん達の言っていた『潜る』ってこと……?
     実際に水に潜った訳ではないが、そんな感覚になった気はした。
    「ザトウさんっ」
     凪沙はザトウを探した。ついさっき、側にいたような気がしたのだが、その姿がや見えない。
     すると、心地よい温かい風が吹いた。潮風かと思ったが、塩辛い香りの代わりに、コーヒーの苦くてふくよかな香りがする。まるでコーヒーの香りがする海だ。
    「うわぁ……」
     凪沙は浜辺で見つけた流木に腰掛けた。目の前には夜の海と、見たことのない満天の星空が広がっている。周りはとても静かだが、時折り穏やかな波の音が、コーヒーの香りを纏って聞こえてくる。凪沙はふぅ、と一息吐いた。カフェもそうだが、不思議とこの空間にいることは嫌ではない。むしろ心地良さがあった。
     数分の間、凪沙はぼうっと海を眺めていた。コーヒーの香りが運ばれてくるたびに頬が緩む。
     あぁ、いいなぁ……。
     ここなら誰にも邪魔されないでゆっくり休憩することができるし、明日起きれるかどうかを心配しなくても済む。時間を忘れて眠りにつける日は、この一年殆どなかった。それに、仕事をやらたら回してくるくせに、残業が多いと小言を言ってくる上司もいない。職場では大抵誰かが叱責する声や平謝りばかりしている社員の声が響き、耳をすませば誰かの陰口が聞こえている。入社前に見た会社のパンフレットに書いてあった『風通しの良い会社』なんて誰が言ったのだろう。文字通り、一息吐くだけで神経を使う会社の間違いではないだろうか。
     毎日ギスギスとした空気をやり過ごし、自分にかかる負荷を背負ったまま一日を終える。そんな毎日をこれからも続けていくのだろうか……。
     再びコーヒーの香りがふわりと凪沙の鼻を抜けていく。それと同時に満点の星空で何かがスッと動いたのが見えた。
    「……あっ」
     すると流星が一つ、また一つと、夜空を走り始める。
    「うわぁ、すごい」
     星の雨のように流星が走る。走る流星達は
    だんだん重なり合って、一つの大きな川へと姿を変えた。まるで天の川のような大きな星の帯になり、ゆらゆらとコーヒーの海を照らし出した。その光景は圧巻で、凪沙の胸を躍らせる。淡いミルク色に輝く星々にうっとりと目が奪われた。
     いきなり沖の方でザバァン、と音が鳴った。すると、コーヒーの香りが天高く舞い、大きく水飛沫が飛んだ。
    「わっ……!」
     空を見上げた凪沙は口をあんぐりと開けた。巨大なザトウクジラが勢いよく水面からジャンプし、凪沙の視界を埋めたのだ。心臓がばくんと跳ねる。思わず腰掛けていた流木から立ち上がり、凪沙は目を丸くしてクジラを見上げた。まるで神話の空を飛ぶクジラだ。身体中がソワソワして落ち着きがない。こんなにドキドキしたのは久しぶりだ。楽しい、すごい、綺麗、などのポジティブな形容詞がぽんぽんと頭に浮かんでくる。同時に、胸の辺りでつっかえたものがすぅっと溶けていく気がした。重くて嫌だった、じとっとした気持ちが静かに身体から抜けていく。
     あれ、なんだろう……。
     代わりにじんわりと温かいものが凪沙の胸の中へ入っていく感じがした。不思議と嫌ではない。凪沙は文字通り胸を撫で下ろす。心臓はまだ騒がしいが、いつもより気持ちは落ち着いている気がした。
     星空を泳ぐクジラは、コマ送りのようにゆっくりと身体を翻し、再び海へと潜っていった。尾鰭が海へと消えていく寸前に、もう一度コーヒーの香りが凪沙を包む。なんだか胸がいっぱいで、身体中が熱を帯びているのを感じた。
    「すごく……大きかったな……」
     小さな声で凪沙はつぶやいた。コーヒーの海は再び穏やかに水面を揺らしている。すごく、大きなものを感じた。それは他のものが全部小さく見えるほどに大きかった。
     凪沙は片手を星空に翳した。クジラほど大きくないが、こうしてみると緩やかに輝き流れる天の川が掴めそうな気がした。
    「……私の見ていたもの、全部小さい世界だったのかも」
     大学を卒業し、新卒で入社した会社は人生の全てではない。外から見ても分からなかったものは、内から見て判断しても良い。会社はここだけではない。外に出れば色んな会社や色んな人がいる。縮こまることを決め込むより、あの大きなザトウクジラのように、広い世界に飛び込むのも良いのかも知れない。
     凪沙はゆっくり大きく深呼吸をした。ふくよかな甘さを帯びた、少し苦いコーヒーの香りが凪沙を包んだ。
    「うん……やっぱり、コーヒーの香りって安心する……」
    「そうだねぇ、コーヒーの香りにはリラックス効果も、ストレス減少効果もあるからね」
     さっきまでしなかったはずのザトウの声が近くから聞こえた。凪沙はハッとすると同時に気の抜けた声を漏らした。
    「えっ、あれぇ?」
    「ふぉっふぉっ。おかえり」
     凪沙は何度も瞬きをしながら、辺りをぐるっと見渡した。
    「えぇっ、だって私、さっきまで……」
     自分はほんの数秒前まで浜辺にいたはずだった。波の音もはっきりと聞こえていたし、風だって吹いていた。足にも砂を踏む感触がはっきりと伝わっていたというのに。
     途端に凪沙はハッとして腕時計の時間を確認した。
    「え……?」
     腕時計を見ると、最後に確認した時刻と大して変わりがない。
    「余裕で時間あるだろ」
     慌てた凪沙を鼻で笑いながらイワトビが言った。カウンターに頬杖をつき、細い目を更に細くしながらニヤニヤと笑っている。確かに彼の言う通り、時間はまだあるようだ。一瞬安堵したが、その違和感に凪沙はもう一度腕時計を見た。凪沙は鞄からスマホを取り出し、ロック画面の時計を確認した。
    「えぇ、ウソ……!両方一気に壊れちゃった!」
     凪沙が今にも泣きそうな声で嘆くと、イワトビがゲラゲラと笑い出した。
    「だって!私、海に居たのに…………海?」
     凪沙が首を傾げると、イワトビは更に大きな声でゲラゲラと笑う。凪沙が困惑の目をカウンター越しの二人へ向けると、ザトウと目が合った。
    「あれだね、海を眺めていると時間を忘れるってやつさ」
    「だけどこんなことって……」
     あり得ない、そう凪沙が続けようとした。だが、さっきまで見ていたもの、感じたものには確かに感触があった。自分の全てを包み込むような星空とコーヒーの香り。それに、ずっと抱えていた胸のつっかえがスッキリと消えている。
    「あったんだからそれで良いだろ。アンタは時間を忘れることが必要だった。スッキリしたろ?」
     そう言うと、イワトビは顎で凪沙の手元にあるコーヒーを指した。まだ冷めていないそのコーヒーは、ほろ苦い香りを放っている。
     あ……これ。
     さっきの海と、同じ香りだ……。
     消えたはずの景色が、香りによって鮮明に思い出される。広くて大きなコーヒーの海から受ける風は、心地よくてホッとした。肩の荷を下ろし、何も考えずにいられたあの時間は、凪沙の中で渦を巻いていたものがピタリと消えた。刺々しくて、嫌味ったらしい職場の雰囲気とは違う、あのゆったりとした空間。もっと早く、辿り着きたかった。もっと早く、自分の限界に気がつけば良かった。
     凪沙の目に涙が浮かんだ。吸い込んだ空気が冷たくて、鼻の奥がつうんと痛む。
    「……おや、大丈夫かい?」
     ぐずっと、鼻を啜る凪沙にザトウが尋ねる。すると、アイメイクが落ちることも気にせず、凪沙はぽろぽろと涙を落としながら言った。
    「はい、ありがとうございます。私、決めました」
    「お?」
     イワトビがニヤリと笑った。
    「会社、辞めます」
     涙を袖で拭きながら凪沙は言った。
    「大きなことを決めたね」
    「ふふふ、全然。ザトウクジラに比べたら小さいことですよ」
    「アホかお前。あんなの比べるもんじゃねぇだろ」
    「あはは、確かに。でも、人の限界も比べるものじゃないってことも分かりましたから」
     凪沙は静かに笑ってコーヒーのカップに口を付けた。ほろ苦さの中に甘さを乗せ、凪沙の身も心も温めていく。飲み込んだ後に広がるスッキリ感は、退職を決めた凪沙の気分まで爽快にさせた。
    「辞めるって決めたらなんか胸のつっかえなくなって気持ち良いですね。今なら海で泳げちゃいそうなぐらい身が軽いです」
    「んな呑気なこと言ってて良いのかァ?辞めたら今度は職探しがあるんだぜ?」
     イワトビが嫌味ったらしく笑いながら言うと、凪沙はムッとした顔で言い返した。
    「分かってますよ。でも、もう自分の気持ちを押し殺すような職場は嫌ですから。じっくり時間かけて次を探そうかなって……」
    「ふぉっふぉっふぉ。なら、飛び込み先が決まるまでここのお手伝いはどうかな?」
    「えっ」
    「ハァ?」
     イワトビと凪沙がほぼ同時に声を上げた。
    「でも、ここって潜りたい人しか来れないんじゃ……」
    「そうだぜ、人間が好きに出入りできる場所じゃねぇだろ!」
    「出入りできるようにすれば問題ないさ」
     そう言うとザトウはエプロンのポケットから小さな鍵を取り出した。薄桃色のそれは、所々穴が開いてあり、凪沙が想像していた以上に軽かった。
    「この水槽に住んでいる珊瑚で作った鍵だからね。これさえあればいつでもここに辿り着ける。ただし、失くしたらそれっきりだ」
    「……でも、本当に良いんですか……?」
     明らかに面白くなさそうな顔をしているイワトビを横目に見ながら凪沙が尋ねた。
    「実はね、この辺りまだよく分からなくてね。土地勘が少しでもある人が居てくれると助かるんだよ」
     ねぇ?とザトウがイワトビに目配せする。すると、渋々と小さな声でイワトビが小さな舌打ちをした。
    「……ヘマすんじゃねぇぞ」
     無愛想百パーセントな答えだが、イワトビなりの譲歩に凪沙は思わず笑みが溢れる。
    「ふぉっふぉ。こういうのはね、勢いよく飛び込むのがコツさ。そしたら、なるようになるんだから」
    「……ありがとう、ございます」
    「ふぉっふぉっふぉ。会社、辞めたら訪ねておいで。僕らはいつでもここにいるから」
    「フン」
     にこりと微笑むザトウの横で、イワトビが鼻で返事をした。
    「…………はいっ」
     凪沙は満面の笑みで返事をした。久しぶりに気持ちの良い返事を返すことができ、その目にまた涙が溢れ出した。


     カラン、というドアベルの音と共に店から出る。振り返ると、そこにはブルーグレーの壁に白い縁の丸い窓が特徴の小さなカフェがあった。外からは想像もつかなかった中の広さを思い出して、凪沙はじっとその看板を見つめる。
    「不思議なお店……」
     でも、ここが私の新しい職場か……。
     大学を卒業し、飛び込んだ先はを見誤った。その自分が次に飛び込む先に選んだのは不思議な店。もしかしたら今の職場よりも辛い可能性だってある。だが、ここで見たあの景色は広くて壮大だった。
    「……なるようになるか」
     気楽な言葉がこんなにも心強いなんて。職場の近所を清々しく歩く自分に笑いながら、凪沙は退職届用の文具を買いに、商店街へと歩き出した。


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    創作小説を書いています。 原作『添い猫屋DREAMOON』単行本発売中 BLとファンタジーが好き。 趣味はゲーム&読書 感想いただけたら嬉しいです!

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