
子育ては「そういうもの」なのか。
「そういうもの」だと最初から思っていたら、
人は悩むことは少ないと思う。
もし家を買うとき、建売だったら、
「そういうもの」だと購入前から分かっている。
理想と現実のすり合わせをした上で買う。
注文住宅だったら、一から自分たちの理想のマイホームを作る。
打ち合わせでは完璧だと思っていたのに、いざ形になっていくと、想定外なことや、理想と違ってがっかりすることもある。現実とのギャップに戸惑いが生じる。
初めから「そういうもの」だと思っておけばいい。
なんて言われても、思考はそう簡単には切り替えられない。
子育てに関しても、それが言えると思っている。
結婚して子供を産むが当たり前にあった時代の人たちは、「そういうもの」だと思って子育てをしていたのだろうか。
コロナの時、手当たり次第予約を取った子育てサークルやサロンは悉く中止になり、「そういうものなのか…」と肩を落とした。
気が付けばみんな顔を見合わせてマスクを外し、少子化対策だの子育て支援だのが新聞に並んでいた。
わずか数年の間に、いくつもの時代を駆け足で通り過ぎた気がする。
時代の断片を見てきて、『中途半端な気持ちや覚悟で子供を持たないほうがいい』とは言い切れないところに着地したのかと思った。
子育てをすると、子供時代の二周目を体験できる。いい意味でも、悪い意味でも。
私自身、二児の母であるが、子育てしていく中で、「じゃあ、自分が子供の頃はどうだったか」と思い返す場面がある。
子育てに関する情報も支援も多くある今、自分の中での正解を見つける途中、
過去の記憶が、その正解と少し違うことに気づいて、苦しむことがある。
あの頃の親は必死だったのだろうけど、子供の私にとったら知ったこっちゃない。
『中途半端な気持ちや覚悟で子供を持たないほうがいい』
というフレーズが私の方に向かってきて、やがてそれが、雲状になって、“今”の私の頭上に長いこと滞在する。
富士山の頂上付近のガスのように居座っては、ふと消えて、晴れ間が見えることもある。
「ああ、どうしよう。これも足りない気がする。あれも抜けている気がする。他の家はこうしてるらしい。」
なんてあたふたしながら、自分の子供の旅支度の装備を整えている。
私が卵液をフライパンに流し込んでいるときに、予測不能な事態が起きる。こういうのは決まって朝の余裕のない時間帯だ。
早く終わらせたいのに言い訳されたり誤魔化されたりしてチラッと時計に目をやって最終的にオーバーヒートを起こす。
そんなこと、子供からしたら知ったこっちゃない。
夕方、汗と砂で汚れた子供たちをお風呂に入れ、洗濯物を取り込んで、ベッドに腰を落とした。
あっちの方で、何かを取り合う音がする。
先に言いつけに来るのはどっちだろう。
頼むから、今は一人にして!
そんなことをまだ一人で眠れない子供の前で言い放って、縮こまって、
「投げ出したい投げ出したい…」なんて初号機を前にするパイロットと真逆のことを呟きながら冷静な自分を呼び戻すんだ。
「そういうもの」だと切り替えて、立ち上がった。
これは、やらなければ前に進めないものだと、脳が冷静に判断した。
グリルパンの上に、切り身を並べて焼く。
片手鍋に油を回したら勝手に豚汁は始まる。
冷ます時間を考えると、早めに作るに越したことなかった。
ポトリ。という音とともに床に敷かれたチラシの上にホッケのほぐし身が着地した。
私がしゃがんで拾うと、順番に「抱っこ」と覆い被さってきた。
重さに耐えきれなくて思わず床に倒れたけど、この重さは、私が積み上げてきたものではないのかもしれない。
子供は勝手に成長していた。
ついでに親も成長させてもらっている。
そういうものだ。
「成長してる」と感じたもの勝ちなんだと、思った。
湯婆婆みたい。と言われるようになるのは時間の問題かもしれない。
ジュエリーを眺めているときに幸せを感じる。
服やメイクで自分を仕上げていくのが楽しい。
かつて親からは煙たがられていた趣味や嗜好は、いつしか私を守り、維持するものになっていた。
私は、大丈夫。