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岸蔵町奇譚 #1 怪火


     黒い壁の蔵と商家が建ち並ぶ、懐かしい日本の風情が残る区画。直ぐ側を川が流れるその町を、岸蔵町きしくらちょうという。
     近年は古くから建つ日本家屋の趣を生かし飲食店などに改装する流れが活発になっており、一帯は長閑さを保ちながらも、近くにある由緒正しい神社から足を延ばしてやって来た観光客でほどほどに賑わっている。
     そんな目抜き通りから数本奥まった通りに一軒、時が止まったかの様に静かな店があった。
     引き戸が開け放たれた店先から薄暗い店内を窺えば、本の詰められた棚が細い通路を僅かに残してみっしりと聳え立っている。――所狭しと立ち並ぶ本棚で日が遮られている為に、店内が薄暗いのだった。
     その薄暗がりの中に、躊躇いもせず突き進んで行く一人の男がいた。

    「兎園とぞのさん、居ますか?」
    「はいはい。居りますよ」

     本格的なアウトドア用のリュックを背負い眼鏡をかけた中年の男が店の奥に向かって呼び掛ければ、兎園と呼ばれた老齢の男が姿を見せた。
     麹塵きくじんの着流しに白茶の帯を締め、焦茶色の羽織を纏って素足で南部表の雪駄を履いた白髪の男は、見るからに穏やかだ。
     そんな男が微笑みを浮かべ柔らかい声色で返事をすれば、薄暗い筈の店内が草原の様な温かみを帯びる。

    「頼んでいた本は届きましたか?」
    「ええ。三冊、揃ってますよ。研究はどうですか」
    「まあまあです。今は鵺に関する伝承を集めているところですね」
    「それはまた。ご苦労さまです」

     兎園は雪駄を脱ぎ畳敷きの小上がりに上がると、年季の入った文机の前に正座して客からの注文を書き留めている台帳を開いた。取り寄せた本の仕舞われた背後の棚から三冊取ると、台帳に油性ボールペンで引き渡しが済んだ事を示す線を引く。

    「森本さんは変わらずお元気そうで」
    「知りたいと思った事はとことん調べないと落ち着かなくて。倒れている暇があったら現地調査に行きたいと思うと、不思議と体調も悪くならないんですよ」

     兎園が営む書店の常連である森本は、大学で民俗学の教鞭をとる教授である。特に不可思議、妖かしには目がなく、学生以上の熱量を以て精力的に研究を行なっている。

    「そう言えば、聞きましたか? 岸蔵町の寺の辺りで夜、火の玉が浮かんでいるところを見た人が居るらしいですよ」
    「それはまた、身近な所で不思議な話があったものですねえ」
    「私も朝熊からちらっと聞いただけなので詳しくはまだ分かっていないんですが。
     火の玉というだけでは、連想する物が多過ぎていけません」

     妖かしに関し豊富な知識を持つ限られた極一部の者にしか生じない独自の悩みを抱え、森本は険しい表情を浮かべた。

    「森本さんは鵺の調査でお忙しいでしょうから。……森本さんの様にはいかないと思いますが、私で良ければ少し調べてみましょうか」
    「本当ですか!? それは是非ともお願いしたい!」

     書店を訪れる客は滅多にいない為提案してみれば、森本は少年の様に目を輝かせる。
     どこまでも純粋に妖かしを追い求めようとする森本の姿を見て、兎園は微笑んだ。

    「先ずは私も朝熊さんに話を聞きに行ってみます。何か分かったらご連絡しますね」
    「有り難う御座います! ご連絡、楽しみにしています!」

     森本は本の代金を支払うと、忙しなく書店を出て行った。購入した本から情報を集め、また何処ぞへと調査に向かうのだろう。
     兎園は文机の上を片付けると、雪駄を履いて店先に出た。薄暗い店の外は日光を遮る物が無く、目に刺さる陽射しの眩しさに瞬きを繰り返した後引き戸に鍵を掛け、火の玉の調査を始めるべく青空の下へと足を踏み出して行った。


     朝熊とは、岸蔵町の中で古道具店を営んでいる森本と幼馴染の男である。
     年齢は森本より三つ上で、その所為で中学には共に通うことが出来なかったのだと酒を飲み酔いが回るとお決まりの様にくだを巻く。
     古道具を売りながら恵まれた体躯を活かして簡単な家具の修理やリメイクも請け負う為、近年新規出店が増えている岸蔵町にあっては引っ張りだこの様相を呈している。
     兎園が訪ねて行けば、案の定古道具店の店先で木製の棚にペンキを塗っている朝熊の姿があった。

    「朝熊さん。今日も忙しそうですね」
    「お、兎園先生。らっしゃい! 相変わらず俺は騒がしくしてますけど、まあゆっくり見てって下さいよ」
    「古道具も気になるところですが、今日は森本さんの代理で話を聞かせて貰いに来たんですよ」
    「……森本の?」

     妖しい事に目がない幼馴染の名を出され、朝熊は手にしていた刷毛をペンキ缶の中に置いて兎園に向き直った。

    「なんでも、岸蔵町のお寺の近くで火の玉を見た人が居るらしいじゃないですか」
    「ああ、その話ですか。俺も飲みに行った先で他の客が話してるのを偶々耳にしただけなんですが、そうらしいですよ」
    「そのお客さんは他に何か言っていましたか?」
    「そうだなあ……確か、夜歩いてたら小さな赤い火が寺から出てきて、川の方に向かって行くのを見たから怖くなって反対方向に走って逃げた、とかだったと思いますよ」
    「なるほど、憶えていてくれて助かりました。有り難う御座います」
    「先生、あんまり森本を甘やかさないでくださいよ? 良いように使われて妖怪研究の助手みたいにされたらどうするんですか」
    「それも悪くないかも知れませんね。何せ私の店は決まったお客しか来ませんから、暇を持て余して退屈してるんですよ」
    「そんな事言って……後で悔やんでも知りませんよ?」
    「おや、心配してくれるんですか?」
    「そりゃあ、先生はこの町の長老みたいなもんですから。先生に何かあったら、俺だけじゃなく皆が困ります」

     兎園が岸蔵町に店を構えて、かれこれ十余年になる。始めの内こそ兎園は周りにあれこれ聞いて回っていたのだが、兎園の持つ優しさと何事にも動じない在り方は町の住民達の心の拠り所となり、いつしか「先生」と慕われ様々な悩み相談を持ち込まれる事が多くなっていた。ささやかな愚痴から商売の相談まで――尤も、兎園の店も決して繁盛しているとは言い難い状態なのだが。
     しかし不思議と、兎園のアドバイス通りにしてみると上手くいく。その噂が人を呼び、相談がてら茶菓子を持ち込む者、本を購入する者――相談料代わりのつもりなのだろう――様々な御礼の品を携えて、住民達は兎園の元を訪れる。
     兎園も兎園で住民達と話す時間が設けられるのは嬉しいと喜んで応じているので、書店は困った時の駆け込み寺として重宝されているのだった。

    「そんなのんびりしてると、あっという間に百歳になっちまいますよ?」
    「その時はちょっとしたお祝いでもしてください。私はそれで満足ですよ」
    「またそんな事言って。
     ……そうだ、この棚ですがね。納品先が先生の店の向かいなんですよ。引き渡しが近いんで、そろそろこっちに越して来るんじゃないですかね」
    「それは楽しみだ。ご近所に人が来るなんて嬉しいですねえ」
    「あの辺りはまだ空き家が多いですからね。同性の事をこう言うのも何だか変な感じですが、綺麗な異国の生まれっぽい人でしたよ。歳は俺より上だと思いますが……綺麗すぎてちょっと判断が付かなかったですね」
    「会えたら聞いてみることにしますよ。朝熊さんが綺麗だと言うくらいなんです。どんな人なのか楽しみですね」
    「ちょっと、茶化さないで下さいよ。俺だって綺麗な人には綺麗だって言う事くらい有りますって」
    「茶化してなんかいませんよ。思った事を素直に口にできる朝熊さんは素敵だと言ったつもりだったんですが……」

     兎園が困りながら微笑むと、朝熊は照れて無愛想になり小さな声で「……っす」とだけ口にして再び刷毛を手に取り、作業へ戻った。
     これ以上会話を続ける気は無いらしい朝熊に「それじゃあ、また」と言い残し、兎園は件の寺へ向かう為古道具店を後にした。


     川のすぐ側に建つ寺の前にやって来た兎園は、門の前に立ち辺りを見回した。火の玉が飛んで行ったという川の向こう岸には小山があり、その山には城跡がある。

     ……糸口は掴んだね。

     兎園は小山を見つめながら一人頷くと、納得した様子で書店へと戻って行った。

     書店へ戻ると兎園は小上がりの端に腰掛けスマートフォンを手に取り、森本へ電話を掛けた。

    『はいはい、森本です。何か分かりましたか?』
    「ええ、何となくは。……この火の玉の正体、森本さんの見立てではどうですか? 危険なものでしょうかね」
    『浮かんで動く赤い火の玉と言えば、いくつか思い付く物があります。ざっと説明しますと、人魂、鬼火、狐火……というところですかね。
     この内、人魂は基本的には危なくありません。鬼火は種類によって人の精気を吸い取るだとか、物に火をつけるだとかの害をなす物もあるので注意が必要です。狐火も人を惑わせたり追いかけて来たりという伝承がありますが、狐のする事ですから。人が慌てているのを見て楽しんでいるのかも知れませんね』
    「成る程。……実は今夜から、実際に火の玉を見られるまでお寺に通ってみようかと思ってまして」
    『……何ですって!? 兎園さん、もし火の玉と遭遇したらどうする気なんです!』
    「だから危ないものだったら嫌だなあと思って、先に聞かせていただいたんですよ」

     電話越しに森本は息を呑んだ。
     目撃についての聞き込みを依頼した筈が、当の兎園は自主的に、直接火の玉を見て正体を解明しようとしている。勿論、正体が判明すれば嬉しい。しかし幾度となく様々な不可思議の調査を行なってきているにも関わらず、森本はこれまで超常現象にも、この世ならざるものにも遭遇した事が無かった。
     それ故に兎園の身を案じる気持ちとあっさり遭遇を果たされてしまったら羨ましさのあまり怒るか泣くかするかも知れないという身勝手な不安が胸の内で混ざり、何も言葉を返せず葛藤していた。

    『……兎に角、無茶だけはしないでください。兎園さんを巻き込んだ私に言えるのは、それだけです』

     森本の声から先程までの元気が失われている。
     兎園は森本がどれだけ不可思議に遭遇したいと思っているかを知っていた。その為、火の玉を目撃出来るかもしれないという場に立ち会えない森本の心中を思い、何と言葉を掛けるべきか暫し悩んだ。

    「森本さん。私ね、朝熊さんに言われたんですよ。そんな事してたら森本さんの研究の助手にされてしまうぞ、って。
     実際に動いてみて分かったんですが、何だか謎解きの様で……こういうのも存外、楽しいものですね。
     なので、私が行ける範囲でお手伝いできる事があれば、また声を掛けてください。今度は一緒に調査に行きましょう」
    『それは……願ってもない話ですが、良いんですか? 私なんかと居たら、兎園さんまで可怪しな人だと周りに思われてしまうんじゃ……』

     年中取り憑かれた様に人でないものを追い続ける森本は、自身が陰で何と言われているか知っていた。
     それでも妖かしを求める好奇心が勝り、構わずに調査と研究に没頭している。自分の人生なのだから他人は関係ないと割り切る事が出来る。
     しかしそこに兎園を巻き込むとなれば話は別だ。もし兎園が陰で自分と一括りにされ、同じ様に馬鹿にされ、見下される事があれば。――想像しただけで、心が痛んだ。

    「……森本さんは優しいですね。でも、大丈夫ですよ。私も森本さんが研究されているものに興味があるんです。それに、ずっと本の林に囲まれてばかりいるのも退屈ですから。お客も滅多に来ないし……」
    『客が少ないのは兎園さんの仕入れる本が大衆向けじゃないからだと思いますけどね。珍しい本が多いから私のような者には有り難いですけど。
     ……兎園さんが嫌でないのなら、これからは話を仕入れたら取り敢えず持ち込む様にはします。持ち込んだ話を聞いて、気になったものにだけ手を貸してくれたら充分助かりますし、嬉しいですから』
    「そうして貰えると私も嬉しいですよ。……何か進展があればまた報告します。森本さんも調査、頑張ってくださいね」
    『有り難う御座います。今度土産を持って伺いますよ』
    「それは楽しみだ」

     二人は笑い合い、和やかに通話を終えた。
     自宅に居た森本は積み上げられた資料によって空いたスペースが狭まってしまった大きな机にスマートフォンを置き、兎園の言葉を頭の中で反芻する。

     ……同じものに興味を持って、同じ景色を見たいと言ってくれる人が居るなんて。

     森本の心にはもう、怒りも悲しみも妬みも残ってはいなかった。立ち上がり軽く伸びをすると、楽しくなるに違いないこれからの日々を思い、軽い足取りで酒を取りに台所へと歩いて行った。
     自分が酒に弱い体質であると分かっていても、今夜は何だか、無性にそうしたい気分だった。


     その日から、夕食後に散歩をする事が兎園の日課となった。
     飲食店が営業を終え徐々に静かになっていく町の様子を眺めながら、ゆっくりと寺の前まで歩く。寺に着くとついでだからと木造の大きな本堂を眺めながら境内を一周し、変わったところが無いと確認を済ませると、来た道を引き返していく。
     ――そんな事を繰り返して三日目の夜。
     今回も変わった事は起きず、二階に居住スペースを備えた書店まで戻ってきた兎園は空き家だった向かいの建物に灯りがついていることに気付いた。
     気を引かれ暫し立ち止まり眺めていると、引き戸が開き中から人が出て来た。
     背後の硝子から透ける灯りに照らされ、柔らかな金色の髪と、影の射す角度が男の動きに合わせて変わり一瞬だけ、鮮やかな緑色の瞳が見えた。
     事前に朝熊から聞いていた通りその容姿は兎園に異国を思わせた。歳は兎園より二回り若いくらいに――つまり半世紀程生きている様に思われたが、見慣れていない、故に耐性がない種類の美しさに圧倒され、自然と目が引き寄せられる。
     戸締まりをし振り返った男は、向かいの建物の戸の前に鍵を手にしたまま立ち、じっとこちらに視線を注ぎ続ける兎園の姿に気付くと穏やかな微笑みを浮かべた。

    「こんばんは。そちらにお住まいの方ですか?」
    「……ええ。書店を営んでおります、兎園と申します」
    「勢田と申します。引っ越して来たばかりですが、準備ができたらここでカフェを開かせていただきます」

     勢田と名乗った男は兎園の前まで歩み寄ると手を差し出した。握手を求められているのだと気付き一拍遅れて兎園が空いている方の手を差し出すと、勢田は軽く手を握り、離した。

    「夜にはアルコールも出しますが、席数の多くない店なので騒がしくはならないと思いますし、ご迷惑にならない様気を付けます。気になる事があれば遠慮なく仰ってください」
    「うちはそんなにお客も多くないし決まった人しか来ない様な店ですから、そんなに気を遣わなくても大丈夫だと思いますよ。
     そちらの営業が始まったら、その時は是非伺わせてください」
    「勿論です。向かいにお住まいなんですから、サービスしますよ」
    「それは嬉しいお申し出です。これから宜しく、勢田さん」
    「こちらこそ、宜しくお願いします。……ゆっくりお話ししたいところですが、今夜はもう遅いですから、これで失礼します」
    「ええ、おやすみなさい」

     兎園が軽く頭を下げると勢田は手を振ってそれに応え、何処かへ向かって歩いて行った。その背が小さくなり夜の闇に溶けるまで見送ると、兎園は手にしたままだった鍵をようやく鍵穴に差し込んで回し、自宅へと戻った。


     それから二日後の朝、兎園が店を開けると向かいの商家の前を箒で掃いている勢田の姿があった。
     戸の開く音で勢田は顔を上げ、ぱっと笑顔を浮かべて兎園の名を呼び駆け寄った。その様子に兎園はゴールデンレトリバーを思い浮かべつつ、にこやかに挨拶を述べる。
     太陽の光の下で改めて見る鮮やかな緑色の瞳は初めて見た時と変わらず印象的だが、目の下に薄く刻まれた皺から矢張りある程度の年齢ではあるのだと窺えた。艶のある金色の髪を耳の下で緩く結び顎に少しの髭を生やしている為に、柔らかさと男らしさが絶妙なバランスで混ざり合っている。
     ――美しい人だが、決してそれだけに留まる人ではない。
     襟のあるシャツを着ている事も手伝い、勢田の外見は美しさの割に不思議と浮世離れはしておらず、地に足の付いた落ち着いた人という印象を見る者に与えた。

    「おはようございます。こんなに早くから掃除ですか?」
    「ええ。掃除をしながら考え事をしていました。……突然ですが兎園さん、コーヒーはお好きですか?」

     突然話の流れが変わり兎園は面食らったが、勢田がカフェを開くと話していた事を思い出せば頭の中で情報が繫がり、投げかけられた問いに答えを返した。

    「コーヒーに詳しい訳ではないですが……時々飲むくらい、でしょうか」
    「エスプレッソマシンが設置出来たので、良ければ味見として飲んでみていただけませんか?」

     兎園が少々驚きながら私で良ければ、と返せば、勢田は出来たら店まで届けると言い残し小走りで開店準備中の自店へと戻って行った。
     兎園が店先に営業中の札を出し、店の奥へ戻りがてら本棚から一冊手に取り小上がりで店番をしつつ本を読んでいると、勢田がやって来て手にしていた紙製の耐熱コップを兎園へ差し出した。

    「お待たせしました。エスプレッソはあまり飲まれないかと思ってカプチーノにしてみたんですが、どうでしょう」

     カップの中を見ればきめ細やかに泡立ったミルクとコーヒーによってリーフ模様が描かれており、それを見た兎園は可愛らしいですね、と笑顔で呟いた後ひと口飲んだ。

    「牛乳が入っているお陰で飲みやすいです。考えてくれて有り難う御座います」
    「いえ、試飲をお願いしたのは私の方ですから。兎園さんのお気に召したなら良かったです。営業が始まったら、是非いらしてください」
    「こんなに美味しいコーヒーが飲めるなら、私の様な者でも通いたくなります。その時は宜しくお願いします。
     開店の準備、頑張ってくださいね」

     勢田は照れ混じりの微笑みを浮かべながら営業の邪魔になってはいけませんから、と軽く頭を下げ、書店を後にした。
     カプチーノをもうひと口飲むと兎園は手元の本に視線を戻した。その日は客も片手で数える程しかやって来ず、森本からの連絡も無く。本を読み時折カプチーノを口に運びながら、兎園は日中を穏やかに過ごした。


     その夜、書店を出た兎園は辺りが不自然な静けさに包まれていると気付き、店に戻り煙管を帯に差すと再び外に出て、組紐で吊った叺かますを腰元で揺らしながら寺までの道を歩いた。
     月明かりに照らされた道が白々と明るい。不自然な静けさと相まって、今夜は何かが起こりそうな予感がした。

     寺が見えてくると、遠くからでも境内の一角がぼんやりと明るくなっているのが分かった。ゆっくりと、人が歩くのと変わらない速度で灯りは動き――やがて門の前に差し掛かり、その姿を現した。
     噂に聞いていた通り火の玉は赤く、牡丹の花ほどの大きさで、兎園の前を通り過ぎ川の方向へ向かって移動を続けていく。兎園はその後を、念の為少し距離を取りつつ追った。
     やがて川へ差し掛かると、宙に浮く火の玉は速度を落とさず揺ら揺らと、流れる水の上を横切っていく。火が向こう岸へ渡り終えるのを見届けると、兎園はぐ、と脚に力を溜め――跳んだ。
     月明かりが反射して煌めく川に影が落ちる。
     高く跳びあがった兎園の姿が月を覆い隠した一瞬、川は黒い水の流れとなり、その瞬きの間の後には、再びきらきらと月明かりを受けて輝いていた。

    「……よいしょ、と」

     兎園は対岸へ軽やかに着地すると裾を払って整え、顔を上げ何事もなかったかの様に再び遠ざかった灯りを追って行く。
     火の玉を追う内に舗装された広い道路から周囲に緑が増えていき、やがて山の中へと入った。ガードレールの切れ目にひっそりと立つ公園入口の案内看板を横目に、山道へと続く心ばかりに草の刈られた道を、火の玉と兎園は登って行った。
     山道を登ると、小山の頂上には木々に覆われていない拓けた空間があった。何も残っていないその空間に建てられた標柱が、辛うじてそこにかつて城があった事を示している。
     城跡まで辿り着くと火の玉は移動を止めた。――目的地に着いたのだと、兎園は理解した。

    「……やはりそうですか。戦乱の世に振り回されて、主君を幾度も変えざるを得なかった……魂は未だ、彷徨い続けていたんだね」

     上杉、武田、織田、羽柴……そして徳川。乱世を生き残る為とはいえ、主君を失う度に背負った哀しみ、怒り、嘆き……そういった様々なやり切れない感情がこの世への未練となり、未だ留まっている――それこそが火の玉の正体であると、聞いていた火の玉の動きとこの辺りの地形から立てていた推測は、城跡へ辿り着いた事で確信へと至った。

    「大丈夫。貴方の子孫は平和な世を生きている。……だからもう、安心して良いんだよ」

     兎園は火の玉に向かって優しく声を掛け、帯に差していた煙管を取ると叺かますから刻み煙草を摘んで取り、火皿に乗せ火をつけた。ゆるゆると吸い、煙を火の玉に吹き付ける。
     これまで一定の大きさを保っていた火の玉は煙を浴びると大きく揺らぎ、揺らいだ端から消えていく。
     程なくして、赤色の火の玉は綺麗さっぱり、文字通り煙に巻かれて消えた。
     兎園はもう一服した後、煙管を大きく振り遠心力で灰を払った。宙を舞う灰は地に落ちる事なく、そのまま燃えて消えた・・・・・・・・・・。

    「……さて、これで済んだね」

     兎園は煙管を帯に差し最後に火の玉が浮かんでいた方向に手を合わせると、振り返り上ってきた山道を下り、家路へと向かった。


     兎園が書店に戻り鍵を取り出そうとすると、既に日付が変わっている時刻であるにも関わらず背後で引き戸の開く音がした。驚いて振り返れば、勢田が勢い良く駆け寄ってくる。

    「兎園さん、おかえりなさい。……こんな時間にすみません。お聞きしたいことがあるので、少し店に来てもらえませんか」
    「それは……構いませんが」

     勢田は興奮した様子で兎園の手を掴み、カフェになる予定である商家の一階部分へ引き込んだ。
     既に内装や家具が整いいつでも開店出来そうな状態の店内でカウンター席に兎園を座らせると、勢田はカウンター内の棚からワイングラスを取り出して兎園の前に置き、既に開いているボトルからワインを注いだ。
     グラスの中で揺れる鮮やかな赤色の湖面を困惑しつつ見つめる兎園を余所に、勢田は一人で飲んでいたのであろう既にワインが注がれたグラスを口に運び、大きなひと口を流し込んだ。

    「どう聞いたら良いのか分からないので、単刀直入に聞きます。……兎園さんは、ただの人間ではありませんね?」
    「……どうしてそう思うんです?」
    「偶々、見てしまったんです。兎園さんが……川を跳び越えるところを」

     妖かしの影響で一帯に人は居ないと踏んでいたが故の行動だったのだが、何故か勢田は外に居て。……そして、見てしまったらしい。
     事の次第を知ると、兎園は注がれたワインをひと口飲み、小さく溜め息を溢した。

    「……言い逃れできそうにないから言いますが。私は平穏に暮らしたいだけなんです。だから……勢田さんの警戒を解くために打ち明けますが。誰にも言わないと約束してくれますか?」
    「ええ。私はただ、自分が目にした光景に納得のいく答えが欲しいだけです。
     危害を加える気はないと言うのなら、兎園さんの平穏を壊さないと約束します」
    「分かりました。……実は、私。狐なんです」

     兎園の告白を聞き、勢田はゆっくりと瞬きをした。

    「……狐、なんですか?」
    「はい。生まれて千年以上経って、長らく人に混じって生活しています」
    「……千年」
    「なので、跳べるんです。……化かしている訳じゃないですよ?」

     本来隠し通す筈だった秘密を打ち明けているというのに、兎園は楽しそうにふふ、と笑いを溢した。

    「……怖ろしくなりましたか? 私の事が」
    「いいえ、寧ろ……興味が湧きました。もっと貴方の事を教えて下さい」
    「これ以上は内緒ですよ」

     兎園は焦る様子もなくワインを飲み微笑んでいる。そんな兎園を前にして、勢田は目を輝かせていた。

    「折角すぐ側に住むことになったんです。ゆっくりで良い。……これから沢山教えて下さい、兎園さんの事を」
    「これ以上は内緒だと言ったばかりなんですがねえ」
    「……では引換えに、私の秘密を教えます」
    「勢田さんの秘密、ですか?」

     兎園は自分の正体に匹敵する程の秘密を持つものなど滅多に居ないだろうと思っていたが、勢田は引け目を感じさせない佇まいで堂々としていた。

    「ええ。実は私もただの人間ではありません。
     ……吸血鬼、なんです」

     今度は兎園が驚く番だった。目の前に立つ勢田をじっと見つめ、少し考えてから兎園はあ、と声を上げた。

    「だから今夜、外に出て居られたんですね。妖かしの『人払いをする』力が、勢田さんには作用しなかった」
    「そういう事でしょう。……なので私が今夜兎園さんを見たのは、見るべくして見た、という事になるかと」

     吸血鬼と聞き連想する数々のイメージを思い浮かべ、兎園は困った表情を浮かべた。

    「私なぞより、勢田さんの方が余程……町の人達の血を吸うのは、止めて欲しいのですが……」
    「私も人に危害を加える気はありませんよ。血は日常的に飲まなくても、十年に一度くらいで平気なんです。
     太陽の下も歩けますし、棺桶ではなくベッドで寝ます。……伝わっている話と違ってがっかりしましたか?」
    「しませんよ。町の人達に害を為さず、人に近い生活ができるならそれに越した事はありませんから、我々は」
    「それなら良かった。……そういう訳なので。改めて宜しくお願いしますね、兎園さん」

     勢田はグラスを持ち、兎園の前に差し出した。そこに兎園もグラスを掲げ触れ合わせれば、軽く硝子がぶつかり、二人だけが居るがらんとした店内に涼し気な音が響いた。

     人に紛れ長年ひっそりと暮らしてきた兎園にとって、技術の発達した現代において同類が生活範囲内に居るというのは未知の体験だった。
     どうかこのまま平穏が保たれますように――そう祈りながら、兎園はグラスに残るワインをひと息に飲み干した。



     
     

    蘇芳

     
     
    日記と映画と読書、一次創作。 ⚠当方の書いた文章、掲載画像の無断転載、転用を禁止致します。

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