
アナタに渡す請求書
ねぇ、あなたのまわりにもいませんか。こころのすみっこを、ちょこちょこっと…する人。
午前中に「それ、あとにしてくれる?」と氷の声で言った人が、午後三時には「これ食べて食べて、期間限定だから」とチョコを配って歩く。晴れなのか吹雪なのか、朝の顔を見るまでわからない。
愛里(あいり)の隣の席には、そういう先輩が座っていました。田中真奈(たなかまな)、二十六歳。
愛里は一年後輩の二十五歳。地方都市の部品メーカーの事務員です。工場のおじさんたちから饅頭をもらい、後輩の女の子には化粧品の相談をされる。本人は特別なことをしているつもりはありません。人の話を、最後までちゃんと聞く。ただそれだけのことが、案外みんな、できないのですね。
愛里は真奈のことが嫌いではありませんでした。ただ、天気予報のない土地で暮らすような気持ちで、傘だけはいつも持って接していました。
さて、ある月曜日のことです。
取引先から電話が来ました。請求書の金額が合わない、と。
チェックをしたのは真奈。送信したのは愛里。送信日に、真奈が休んでいたからです。
課長が席で「請求書の件だけどね」と切り出すと、愛里は反射的に立ち上がりました。
「すみません、それ、私が送信したものです」
そう言いながら、愛里は隣を見ました。
チェックしたのは私です、という声が続くはず……だったのですが。
真奈は、画面から目を離さずに言いました。
「愛里さんが送ったのね」
それだけでした。
まるで初めて知った、というような涼しい声で。
ねえ、こういうとき、胸の奥で小さな音がしませんか。傷ついた、というのとも違う。もっと単純な――へえ、そういうふうにするんだ、という音。
そのあと愛里が「この請求書のことなんですけど」と確認に行くと、真奈は「いま、忙しいから」。キーボードの音が、少しだけ大きくなりました。
愛里は自分で調べ直し、修正した請求書にお詫びの一文を添えて送りました。取引先の担当者は気のいい人で、すぐに返信をくれました。
「わざわざご丁寧に、ありがとうございます」
その後ろに、こう続いていたのです。
「実は前回も、田中さんが同じ箇所を間違えておられまして。この案件の取りまとめは少し複雑なので無理もないのですが、一度、田中さんにご確認いただいたほうがよいかもしれません」
そしてこのメールには、課長がCCに入っていました。
愛里は何もしませんでした。転送もしない。印刷して机に置いたりもしない。「ご指摘ありがとうございます」とだけ返して、仕事に戻りました。
三十分後。
「田中さん、ちょっと」
課長が真奈を別室に呼びました。
何を言ったのか、愛里には聞こえませんでした。
ただ、戻ってきた真奈の顔を見れば、だいたいのことはわかりました。
「愛里ちゃーん、これ二個入りだったから一個あげる。あ、そうだ、明日のランチは外に食べに行かない?駅前にできたパスタのお店、なんとなく気になってるの。私、おごるから」
午後三時のチョコの日よりも、妙に声が高かった。
真奈は、呼ばれた理由を愛里が知らないと思っている。愛里も、知らないふりをしました。
「わあ、嬉しい。行きたいです」
愛里は笑いました。ちゃんと、目も笑わせて。それは得意なのです。おじさんから聞く三回目の自慢話にも笑える愛里ですから。
パスタの店は、本当においしかったそうです。真奈はよく喋り、よく笑い、会社に戻る道すがら「また行こうね」と言いました。愛里も「はい」と笑ってうなずきました。
二人の関係は、これを機に前より良くなった気がしました。ランチの回数も増えました。真奈の天気は相変わらずでしたが、愛里はもう、予報を気にしなくなりました。
なぜか。
あの日、あの涼しい声を聞いた瞬間に、愛里は心の中で、請求書を一枚、切ったからです。
宛名は、田中真奈さま。
品目は、書かない。
金額も、書かない。
支払い期限も、なし。
真奈には渡しません。
渡さないまま、取り立てだけが始まるのです。
チョコ一個。パスタ一皿。「またね」の笑顔ひとつ。真奈が差し出すたびに、愛里はこころの帳簿に、小さく「入金」と書き込みます。ニコニコと受け取りながら。ごちそうさまです、と頭を下げながら。
そして本当のことは、もう何ひとつ話さない。
転職を考えていることも。
新しい彼氏ができたことも。
今度の夏休みに友達とハワイへ行くことも。
それも全部、回収なのです。
あなたには教えてあげない、という名目の。
真奈は、自分が支払いを続けていることを知りません。何に対しての支払いなのかも。
そして、金額の書いていない請求書には、完済の日がありません。
愛里は今日も、いい後輩です。よく笑い、よく気がつき、おごられ上手で。
ねえ。
あなたの引き出しの奥にも、ありませんか。
宛名だけ書いて、渡さないまま持っている、請求書が。