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金曜日のしずえさん|第7話『紹介状と三人の乾杯』

    第七話:あらすじ

    木下への原稿を納品した静絵は、次の仕事で「乳がんの早期発見」をテーマにした記事広告を担当する。資料を読みながら初めて自己検診をした静絵は、左胸に小さなしこりのようなものを見つけ、不安を抱えながら乳腺科クリニックを受診する。検査の結果、大学病院で詳しく調べることになり、静絵は紹介状を受け取る。そんな折、義母・十志子、実母・綾子の施設から相次いで連絡が入り、またも家族のケアが静絵に流れ込んでくる。友人のみなみ、礼子との乾杯の中で、静絵は「自分のための予定」を持つことの大切さを噛みしめる。

    本文

    九月の第三金曜日。

    木下から依頼された原稿を納品したあと、静絵はしばらく燃え尽きたようになっていた。それでも、次の仕事が待っていて、のんびりする時間はない。

    こんどは医療系の情報誌に掲載する記事広告の原稿だった。
    テーマは『乳がんの早期発見』。クライアントは検診機器メーカーで、四十代から五十代の女性に向けた啓発コンテンツとして依頼されている。

    資料を読み込みながら、静絵はメモを取った。

    定期的な検診……自覚症状が出にくい……入浴時に、指の腹で乳房やわきの下を触れて確認する自己検診……。

    資料に並ぶ言葉は、どれも読者に向けて書くものだが、読み進めるうちに、静絵はふと手を止めた。

    ――そういえば、私は自己検診をしたことがない。

    静絵はフリーランスという立場もあって、長い間、健康診断を受けてこなかった。いや、避けてきたというのが正しい。だから、自分の身体を自分の手で確かめるということも、一度もしたことがない。

    専門家の話を聞き、資料を読み、原稿にまとめるということは、仕事として何度もやってきたが、その言葉を自分自身に向けたことはなかった。

    その夜、入浴中に、静絵は初めて自己検診をしてみた。資料の手順を思い出しながら、指の腹で丁寧に触れていく。

    右側は、特に何も感じない。
    左側に移ったとき、わきの下に近いあたりで、指が少し止まった。

    ――あれ? これは、何だろう。

    小さな、硬いもの。
    周囲とは少し感触が違う。押しても痛みはないが、なにか別の物体があるように指先が感じる。

    静絵は何度か触れ直した。

    気のせいかもしれない。
    たまたま、そう感じただけかもしれない。

    そう思うことにして、シャワーを止めた。

    浴室を出て、タオルで体を拭きながら、鏡の中の自分を見た。
    いつもと同じ顔だ。
    いつもと同じ顔をしているのに、身体の中に、知らないものを見つけてしまった気がした。

    *

    一週間が経った。

    しこりのことは、頭の片隅にずっとあった。
    朝、顔を洗いながら思い出す。夕飯を作りながら思い出す。学のシャツにアイロンをかけながら思い出す――けれど、その先へは進まなかった。

    病院に行こうか。
    検査を受けてみようか。

    そう考えるだけで、胸の奥がギュッとなった。

    ――調べたら、どうなるだろう。

    インターネットで検索しようとして、何度もやめた。
    検索窓に「乳房 しこり」と打ち込んだところで、画面を閉じたこともある。

    気のせいだと思いたかった。
    疲れているせいかもしれない。年齢のせいかもしれない。よくあることかもしれない。

    仕事でしっかり知識を入れたくせに、わざわざ理由にならない理由をいくつも並べた。

    「明日こそ」
    「来週になったら」
    「今の原稿が終わったら」

    入浴のたびに、確かめてしまう。
    右側は何もない。左側、わきの下の近く。指を当てると、やはりそこにある。

    消えていない。

    *

    記事広告の原稿を書き終えた日の夜、静絵はもう一度だけ左胸を確かめた。そこには、やはり小さな硬いかたまりの感触がある。

    自分は原稿にこう書いた。
    『しこりに気づいたら、早めに医療機関を受診することが大切です』
    その一文を思い出した瞬間、静絵は小さく息を吐いた。

    ――自分が書いた言葉が、自分に向かってくるなんて……。

    静絵は近くの乳腺科クリニックに行く覚悟を決めた。

    翌日。
    乳腺科のあるクリニックの受付で問診票を書きながら、静絵は自分の手元を見ていた。

    年齢。
    既往歴。
    家族歴。

    家族歴の欄で、少し手が止まった。

    母の綾子は、五十代のころに乳がんの手術を受けている。片側の乳房を切除し、しばらく通院していた。
    当時、静絵はまだ大学生だった。時間の融通が利いたこともあり、母の入院中の家のことを、ほとんど引き受けた。
    父に朝ご飯を作って仕事に送り出す。洗濯と掃除。母の病院への面会。差し入れ。父のワイシャツのアイロンがけ。夕食の支度。

    母の病気は、たしかに大変なことだった。
    けれど静絵の記憶に強く残っているのは、病名そのものより、家の中が中心で動いていたことへの確認だった。

    家事を完璧にこなしていた母の代わりをする。
    それは、思っていた以上に重かった。

    この経験のおかげで、静絵は結婚しても家事に困ることはなかった。
    そんなふうに言えば聞こえはいい。けれど実際には、誰かが倒れたとき、残った家のことを引き受ける役目が、あのころから自分に回ってきていたのかもしれない。

    幸い、綾子はその後、再発することなく過ごしてきた。
    それは本当にありがたいことだった。

    けれど当時の綾子は、何かにつけて「なった人でなきゃわからない」と言った。その言葉に嘘はない。病気になった本人にしかわからない怖さや痛みがあったことも、今ならわかる。

    それでも、静絵は覚えている。

    病院に通い、家のことを引き受け、父の世話までしていた自分に向けて、母からねぎらいの言葉はなかった。
    無事でいてくれてよかったという安心と、いつものような虚しさが、静絵の中に一緒に残っている。

    問診表には、初めての自己検診で左側にしこりのようなものに気づいた、ということを、静絵は丁寧に記入した。

    待合室には、同じくらいの年齢の女性が何人か座っていた。
    雑誌を読む人。スマホを見る人。両手を膝の上に置いたまま、前を見ている人。

    静絵もスマホを取り出したが、すぐにバッグへ戻した。
    誰かに連絡する相手はいた。里恵。まり。容子。藍香。

    でも、まだ誰にも伝える気になれなかった。
    それは、「万が一」のときのことを、どこかで想定しているからだ。

    やがて名前を呼ばれ、診察室へ入った。

    医師は四十代くらいの女性だった。落ち着いた声で、問診票に目を通しながら言った。

    「左側のわきに近いあたりですね」

    「はい。自分で触っていて、少し硬いものがある気がして」

    医師はうなずき、静絵に検査着へ着替えるよう促した。

    まず、視触診があった。

    医師の手は冷たくはなかった。
    けれど、自分以外の誰かの手で、気になっている場所を確かめられることに、静絵は妙な緊張を覚えた。

    「たしかに、ここにしこりがありますね」
    医師は左のわきに近い部分を確認し、静かに言った。

    「では、マンモグラフィーと超音波検査をしましょう」

    「はい」

    マンモグラフィーの検査室は、思っていたよりも静かだった。
    技師の女性に「少し圧迫しますね」と言われ、静絵は「はい」と答えた。

    胸を板で挟まれる圧迫感。
    痛みというより、逃げてきた時間をまとめて押しつぶされているような圧だった。

    ――ちゃんと受けておけばよかった。

    そう思ったところで、時間は戻らない。

    検査を終えたあと、今度は超音波検査を受けた。

    ベッドに横になり、左腕を頭の上に上げる。
    検査着を少し開くと、胸元にひやりとしたジェルがのせられた。

    モニターの白黒の画面に、静絵にはよくわからない濃淡が映る。
    医師はプローブを少しずつ動かしながら、何度か同じ場所で手を止めた。

    そのたびに、静絵の喉の奥が細くなる。

    「ここですね」
    医師が言った。

    静絵はモニターを見た。
    医師が示す画像には、周囲とは明らかに違うエリアがあることを示していた。

    「しこりは確認できます。良性の可能性もありますが、念のため、細胞をくわしく調べたほうがいいと思います」

    「細胞を、ですか?」

    「はい。穿刺吸引細胞診といって、細い針でしこりの部分から細胞を少し取って調べる検査です。今後のことも考えて、大学病院の乳腺外科をご紹介しますね」

    静絵は、膝の上で手を組んだ。
    「悪いものの可能性がある、ということですか」

    医師は少しだけ間を置いた。
    「今の段階では、はっきりしたことは言えません。だからこそ、きちんと調べましょう」

    その言い方は、怖がらせるものではなかったが、安心させるものでもなかった。

    「わかりました。お願いします」
    静絵は答えた。
    声は、思ったより平らだった。

    受付で紹介状を受け取り、会計を済ませた。
    封筒は薄いのに、手に持つと妙に重かった。

    *

    次の日の昼前、義母の十志子(としこ)が入所しているグループホームから電話があった。

    十志子は、学の母だ。

    十年前、義父が亡くなったころから少しずつ認知症の症状が出はじめた。しばらくはヘルパーや家族の手を借りながら自宅で暮らしていたが、食事や入浴、トイレの管理が難しくなり、一年前からグループホームに入所している。

    綾子とは違い、十志子と静絵の関係は悪くなかった。
    結婚当初から、何かにつけて息子の学ぶよりも「静絵さーん」と、何かにつけて頼りにしてくれた。
    その頼られ方は、綾子のように支配的ではなかった。
    だからこそ、静絵もできるだけ応えようとしてきた。
    義理の父が亡くなった後の書類の一切も学ではなく静絵が対応した。

    ひとつひとつは小さなことだ。
    けれど、気がつけば十志子に関する世話の多くも、静絵のほうへ流れてきていた。

    「十志子さんの様子が、ここ数日少し変わっていまして」
    担当スタッフの声は穏やかだったが、言葉を選んでいるのがわかった。

    夜中に廊下を歩き回ることが増えたこと。
    食事をほとんど口にしない日があること。
    担当医から、今後の対応について家族と話し合いたいという話が出ていること。

    「ご家族の方に、一度来ていただくことはできますか」

    「わかりました。夫にも伝えて、日程を調整します」

    電話を切り、静絵はすぐに学にLINEを送った。

    《お義母さんの施設から連絡がありました。近いうちに面談が必要とのことです。日程を合わせてください》

    しばらくして、学から返信が来た。

    《今月は出張が多くて……。急ぎならお願いできないかな》

    静絵は、スマホの画面を見たまま動かなかった。

    ――また、この言葉だ。

    お願い。
    任せる。
    頼む。

    言葉は違っても、行き着く先はいつも同じだった。

    学にとって、義母のことは、いつのまにか「静絵が対応するもの」になっている。

    自分の母親なのに。

    静絵が対応できるのは、フリーランスで時間の融通が利くからだ。
    でも、それは静絵の仕事が「仕事ではない」ということではない。

    フリーランスだから、時間がある。
    時間があるから、やれる。
    やれるから、やって当然。
    その論理の中に、静絵の仕事は最初から存在していなかった。

    午後、今度は実母の綾子が入所している施設から連絡が来た。

    足の痛みが強くなっており、整形外科への通院付き添いをお願いしたいという。

    「来週の木曜日はいかがでしょうか」

    静絵はカレンダーを確認した。

    木曜日は原稿の締め切りがある。
    でも、翌日に回せなくはない。夜にやれば、なんとかなるかもしれない。

    そうやってまた、自分の仕事を後ろへずらそうとしている。
    そのことに気づいたが、静絵は断れなかった。

    「わかりました。伺います」
    電話を切ってから、静絵はしばらく窓の外を見ていた。

    義母の面談。
    実母の通院。
    原稿の締め切り。
    大学病院の予約。

    誰かのための予定が、カレンダーを埋めていく。
    自分のための予定は、いつもその隙間に押し込まれる。

    いや、違う。

    大学病院の予約は、自分のための予定だ。そう思った瞬間、静絵はカレンダーのその日付を、赤いペンで丸く囲んだ。

    *

    翌週。静絵は一人で、大学病院へ向かった。

    誰にも、まだ言っていない。家族にも黙っていた。

    入口の自動ドアを入ると、消毒液の匂いと、低く響く案内放送の声がした。受付の前には、すでに何人もの人が並んでいる。車椅子の高齢者。付き添いの家族。書類を抱えた会社員らしき男性。ベビーカーを押す若い母親。

    それぞれが、それぞれの事情を持って、ここに来ている。

    静絵はバッグから紹介状の入った封筒を取り出し、受付に差し出した。
    封筒は薄いのに、なぜか重かった。

    義母の面談の予定は、まだ決まっていない。
    実母の通院は、来週に入っている。
    原稿の締め切りもある。

    それでも、今日は自分のためにここへ来た。

    乳腺外科の待合室で番号を呼ばれるまでのあいだ、静絵はスマホを何度も開いては閉じた。
    里恵にも、まりにも、容子にも、藍香にも、まだ何も言っていない。

    言えば、きっと心配してくれる。けれど、心配されることで、自分の中にある不安がはっきり形になってしまう気がした。

    やがて番号が表示され、診察室へ入った。

    医師は、クリニックからの紹介状と画像データに目を通しながら、静かに言った。
    「左側のわきに近い部分ですね。今日は、細胞を取って調べましょう」

    静絵は、膝の上で手を組んだ。
    「はい」

    「穿刺吸引細胞診といいます。針でしこりの部分を採取して、細胞の種類を確認します。痛みよりピンポイントでちょっとした衝撃を感じる場合が多いですが、針はそんなに太くありませんから、ラクにして横になっていてくださいね」

    医師の声は落ち着いていた。
    それがありがたくもあり、かえって現実味を強めてもいた。

    ベッドに横になり、左腕を頭の上に上げる。検査着を少し開くと、胸元にひやりとしたジェルがのせられた。

    モニターの白黒の画面に、静絵にはよくわからない濃淡が映る。医師はプローブを少しずつ動かしながら、何度か同じ場所で手を止めた。

    そのたびに、静絵の喉の奥が細くなる。

    「ここですね」
    医師が言った。

    静絵はモニターを見た。小さな楕円形の影のようなものがあった。
    「では、しこりの部分から細胞を少し取ります」

    「はい」
    自分でも意外なくらい、声は落ち着いていた。

    看護師が手早く準備を始めた。器具の置かれる小さな音。手袋をはめる音。消毒液の匂い。

    静絵は天井を見上げ、静かに目を閉じた。
    「針を刺すところを消毒しますね」

    冷たい感触が肌に広がる。
    「では、針を刺します。動かないでくださいね」

    静絵は息を止めた。

    胸にドンッという衝撃と、チクリとした痛みがあった。それから、奥のほうで何かが軽く引かれるような感覚がした。

    痛い、というほどではない。
    けれど、自分の身体の中に、知らない手が入ってくるような気味の悪さがあった。

    静絵は、ぎゅっと目を閉じた。

    ――大丈夫。
    ――これは、確かめるための検査だ。

    自分に言い聞かせる。

    数十秒だったのか、数分だったのか、よくわからない。

    「はい、終わりました」
    医師の声が聞こえた。

    看護師がガーゼで押さえ、「しばらく圧迫しますね」と言った。
    静絵は、ようやく息を吐いた。

    検査が終わったあと、医師は静かに説明した。
    「採った細胞を調べます。結果が出るまで、十日ほどかかります」

    「十日間……」

    「結果を見て、必要があればさらに詳しい検査を考えます。今の段階では、良性かどうかも含めて、確認します」

    静絵はうなずいた。
    「わかりました」

    診察室を出るとき、バッグの中のスマホが少し重く感じた。

    会計を待つあいだ、静絵は椅子に座り、左胸のあたりにそっと手を当てた。
    少しズキズキする。
    これは、傷の痛みなのか、静絵の心の痛みなのか、よくわからなかった。

    *

    病院を出ると、十月の空が青かった。

    良性かもしれない……でも、確かめるまではわからない。

    駐車場に置いていた車に乗り込み、シートに深くもたれた。
    エンジンをかけないまま、しばらく天井を見ていた。

    これまで、静絵は誰かの予定を優先してきた。

    実の両親のこと。
    義理の両親のこと。
    学や藍香の世話。
    仕事……。

    誰かのことなら、すぐに動けた。
    必要な書類をそろえ、電話をかけ、予定を調整し、病院に付き添うこともできた。
    なのに、自分の身体のことになると、こうも腰が重いとは、意外だった。

    ――誰かのケアをする前に、自分のケアが必要だったのかもしれないな。

    そう思うと、少しだけ力が抜けた。

    *

    その週の夕方、推し活仲間のみなみからLINEが来た。

    《今週、飲まない? 礼子も誘ってさ》

    静絵は少し迷った。

    義母の面談。
    実母の通院。
    大学病院の予約。
    原稿の締め切り。

    考えることは山ほどあった。

    それでも、静絵は《行く!》と返信した。

    こういうときこそ、ひとりで抱えていると、どこかが固まってしまう気がした。そして、そんなタイミングでみなみから連絡が届いたのも救いのような気がした。

    三人は、いつもの居酒屋に集まった。

    みなみは部長になってから、明らかに疲れが顔に出るようになっていた。
    けれど、目の光は消えていない。

    礼子は相変わらずよく笑った。
    四人の子どもたちの予定を把握しながら、会社の事務も回し、推し活の情報も誰より早い。

    「今週しんどかったぁ~」
    みなみが、席に着くなり言った。

    「会社の基幹システムの大きな入れ替えがあってね、そのフォローで毎日終電。部下は不安がるし、上からは早く回せって言われるし」

    「大変だったねぇ」
    礼子が言った。

    「あー!」
    みなみはビールをひと口飲んだ。

    「なんで管理職になると、部下のフォローまで全部自分でやらなきゃいけないんだろうって思うわ。上からは結果を求められて、下からは対応を求められて、板挟みよ」

    礼子が「それ、母親っていう役目と同じじゃない?」と言った。

    「何が?」

    「上、つまり夫や実家からも、下、つまり子どもたちからも求められて、自分のことは後回し。家庭でやってきたことと、職場でやってることが、構造的に同じなのよ」

    みなみは少し黙ってから、「確かに~!」と言った。

    「やだ、会社でも家でも中間管理職じゃない」

    「しかも無給のね」
    そう礼子が言うと、

    「ひえ~!!」
    と三人で笑ったあと、静絵はグラスを持ちながら言った。

    「ねえ、なんで家族のことって、女のほうに流れてくるんだろうね」

    みなみが即座に言った。
    「それ。介護も、育児も、職場での気配りも、全部女が引き受けてる。男は仕事を理由に“任せる”って言えば終わりで、女は任されたら最後、断れない空気がある」

    「断ったら、冷たい人って思われるからね」
    礼子が言った。

    「お母さんなのに、とか、お嫁さんなのに、とか。あの“なのに”が厄介なのよ」

    「今日、義母の施設から面談の話が来たの」

    静絵は言った。

    「夫に伝えたら、“急ぎならお願いできないかな”って返ってきた」

    みなみは顔をしかめた。

    「出た~!お願い」

    「お願いって言えば、やさしく聞こえるんだよね」
    礼子が言った。

    「でも実際は、やってね、って意味だもん」

    「そうなのよ」
    静絵は、グラスの中の氷を見た。

    「お願いされると、断るほうが悪いみたいになる」

    「そうそう!わかる」
    みなみが言った。

    「私たち、頼まれる側に慣れすぎてるのよ。引き受ける前に、自分の予定を確認することすら忘れちゃうんだから」

    その言葉に、静絵は一瞬、大学病院の予約を思い出した。

    自分の予定。
    自分のための予定。

    けれど、そのことは言わなかった。

    言えば、二人はきっと心配してくれる。
    心配してくれることはわかっている。

    それでも今夜は、まだ言葉にしたくなかった。

    「変えなきゃって思うのにさ」
    みなみが続けた。

    「そのための体力が、毎日の雑用と気遣いで削られていくのよ」

    「ほんま、それな!」
    礼子が大きくうなずいた。

    三人は少し黙った。

    居酒屋の賑やかな声が、遠くに聞こえた。
    どこかの席で、笑い声が上がる。グラスがぶつかる音がする。

    「でも」
    礼子が言った。

    「今夜、こうやって話せてるじゃない。それだけでも、ありがたいわ~」

    「そうだね」
    静絵は言った。

    本当に、そう思った。

    解決はしていない。
    何かが急に変わるわけでもない。

    義母の面談も、実母の通院も、大学病院の予約も、来週のカレンダーに並んでいる。
    それでも、自分だけが抱えているわけではないとわかるだけで、少しだけ呼吸がしやすくなる。

    「がんばってる私たちに、乾杯しよっ!」
    みなみが言った。

    「いいね~!じゃ、おかわりっ」
    礼子がグラスを持ち上げて、おかわりのビールを注文した。

    「がんばってる私たちに」
    三つのグラスが、軽く触れ合った。

    ガラスがぶつかる音が、小さく鳴った。

    ――前に進んでいる。

    少しずつ。
    でも、確かに。

    ※第8話へつづく…


     
     
    編集者&ライター| 書籍づくりで20余年| 月イチオープンの大人の隠れ家、新宿の赤提灯『限界集楽YOUとPEER』のママ|

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