
連載小説「銀色の賢者が綴る 同居人への教育論」第3話|最初の供物、あるいは「妥協という名の精進料理」
例の菓子箱の蓋が開いた瞬間、僕の視界に飛び込んできたのは、未知の広がりを持つ「城」だった。
君は少し緊張した顔で僕を床に降ろし、やさしく言ったね。
「ここが今日から、モフのおうちだよ」
……ふむ。
なるほど。ここが僕の新しい拠点というわけだ。
僕はまず、四隅の安全確認から始めることにした。
部屋の隅、家具の脚、見慣れない布の匂い、床の冷たさ。
鼻先を動かしながら、ひとつずつ情報を拾っていく。
君の目には、落ち着きなく歩き回る小さな毛玉に見えたかもしれないけれど。
実際のところ、僕はこの空間の気配を確かめていたんだ。
どこが明るいのか。
どこが静かなのか。
どこが、安心して眠れる場所なのかをね。

知らない場所に来たばかりの小さな賢者にとって、それは最初の大事な仕事だった。
ひと通りの検分を終えた頃、君が何やら申し訳なさそうに器を差し出してきた。
「モフ、ごはん……。まだ固いのは食べられないから、お湯でふやかしたよ」
僕は器の中を覗き込んで、しばし言葉を失った。
そこにあったのは、かつては粒であったらしいものが、お湯によってすっかり輪郭を失った、茶色のやわらかな代物だった。
……やれやれ。
僕という賢者の最初の供物が、まさかここまで情緒に欠けるものだとはね。
立ちのぼるのは、湿り気を帯びた穀物の匂い。
食感の愉しみも、香りの奥行きも、どうやら期待できそうにない。
美食家としての本能が、これは少々違うのではないかと静かに警鐘を鳴らしていた。
けれど、君は僕の前にしゃがみ込み、ひどく真剣な顔で器を見つめていた。
少しでも食べやすい形にしようとしたのか、スプーンでそっと表面を整えている。

「食べてくれるかな……」
その声には、不安がそのまま滲んでいた。
ちゃんと食べてくれるだろうか。
ちゃんと育てられるだろうか。
そんな気持ちが、器の上にまでこぼれているようだったよ。
……仕方ない。
今の僕はまだ、この小さな身体を保つだけで精一杯だ。
それに、入城初日から君を絶望させるのも、教育者として少々配慮に欠ける。
僕はゆっくりと器に顔を近づけ、その「ふやけた妥協」を数口だけ口にしてみた。
……ふむ。
やはり、味の奥行きはない。
劇的な感動もない。
けれど、そこには君の「食べてほしい」という気持ちだけが、妙に濃く混ざっていた。
僕は数口で顔を上げ、器から一歩離れた。
今日のところは、このくらいで勘弁してあげよう。
そんな僕の沈黙を、君は「あら、もうお腹いっぱいなのかな」と、少し残念そうに受け取っていたね。
でも、その顔には、ほんの少しだけ安堵も混じっていた。
まったく食べなかったわけではない。
それだけで、君には十分だったのだろう。
安心するといいよ、同居人。
今の僕はまだ、本当の美食を知らないふりをしているだけだ。
いずれ君は気づくはずだ。
僕には、もっと香ばしく、もっと甘やかで、もっと心を揺さぶる供物がふさわしいのだと。

けれど、その日のあの器は、決して悪いものではなかった。
味ではなく、願いで満たされた、僕たちの最初の食卓だったのだから。
🎬 モフが新しい家で、はじめてのごはんを迎えた日の映像
そして差し出された、はじめてのごはん。
それは、ごちそうではなかったけれど、君の「食べてほしい」という願いが入った、最初の食卓でした。
YouTubeで見る:https://youtube.com/shorts/xekaWNkbsII
第4話へつづく…