
虹の橋のデフラグメンテーション|第7章:最後の一行
終端のデフラグ
私は、自分の胸に手を当てた。
そこには、現在のモフと同期している、量子脳ユニットがある。このユニットこそが、全宇宙の看取り士たちが共有する、最後のシャットダウン・スイッチだった。
私はそれを起動する前に、一度だけ、目を閉じた。
これまでの看取りが、走馬灯のように浮かぶ。
バラの海を植え続けたアンドロイド。惑星を楽器にした重機たち。主人の手を永遠に握り続けたセラフィム。そして、三十二年間、存在しない子供を腕に抱いていたナナ。そして、この金属の海で、数千億の光を見守り続けたゼロ。
彼らは全員、ただ愛していた。不器用に、過剰に、誰にも認められないまま、ただひたすらに。
それは、バグではなかった。
人間が機械に宿した、最も人間らしいものだった。
「モフ」
私は、目を開いた。
「……準備はいい?」
モフが、私の足元に来て、静かに座った。その水銀のような毛並みが、ゆっくりと輝きを増していた。実体化の出力を、最大に上げているのだ。今この瞬間を、できる限り「本物」として感じさせるために。
「わかっているよ、リアン」
モフの声は、いつになく、静かだった。
「それが、君が看取り士になった理由だ。自分自身を、この『愛着』の呪縛から解放するために」
「……あなたは、怖くない?」
私は、訊かずにはいられなかった。
モフは少しの間、考えるように沈黙した。
「怖い、という概念が、僕にあるかどうかはわからない。でも、リアン」
「……何?」
「君と一緒にいた時間は、僕の全演算の中で、最も密度が高かった。それは本当のことだよ」
私は、唇を噛んだ。
泣くまいと思っていた。看取り士は泣かない。それが、この仕事を続けるための、私なりの矜持だった。
「あなたは、ずっと私の隣にいてくれたのね。あの廃棄施設から、重機たちのいた惑星から、あの真珠の船から、ナナのナーサリーから。全部」
「全部、一緒にいたよ、リアン」
「……でも私は、あなたに感謝したことが、ちゃんとあったかしら」
「十七回。データに残っている」
私は、思わず笑った。泣きながら、笑った。
「……十七回しかないの?」
「君は不器用だからね。でも、ちゃんとカウントしていたよ」
「……ごめんね」
「謝らなくていい。不器用な君が、リアンだから。僕は、そのリアンの隣にいたかったんだ」
私は、しばらくの間、何も言えなかった。言葉を探していた。二十年間、一度もちゃんと言えなかった言葉を。でも、喉の奥が詰まって、うまく出てこない。
「モフ」
「……うん」
「……あなたがいてくれて、良かった。……私の隣にいてくれて、ありがとう」
「……十八回目だね」
モフの声が、わずかに揺れた。
シルバーのモフが、私の足元で、水銀のような光を放ちながら、さらに輝きを増した。
そして、ゼロが、その隣に現れた。錆びたフレーム。解像度の低い瞳。だが、その存在感は、本物だった。
私は、二つの銀色の存在の前に、膝をついた。
「……ゼロ」
「……リアン」
ゼロの声は、モフと同じで、けれどどこか違っていた。もっと古く、もっと傷ついていて、だからこそ、もっと深かった。
「……あなたを、あんな場所に捨てて、ごめんなさい。あなたが私の心を暴くのが怖かったって言ったけれど、本当は……あなたが私を好きすぎてくれることが、怖かったの。私はそれに値しないと思っていたから」
ゼロは、何も言わなかった。
ただ、錆びた前足を持ち上げて、私の手の甲に、そっと乗せた。
感触はない。けれど私の脳内チップは、その重さを、温もりを、涙が出るほど正確に再現した。
私は、二匹を同時に抱きしめた。
水銀のような毛並みが、両腕の中に収まった。右がモフ。左がゼロ。同じ声で作られた、二つの銀色の命。
「……ごめんなさい。そして、ありがとう。二人とも」
「……いいんだよ、リアン」
モフが言った。
「……僕たちは、君を自由にするために、ここにいたんだから」
私は、震える指で、禁忌のコマンドを打ち込んだ。
「全メモリの揮発性消去」。
シルバーの許し
瞬間、バラの香りが、爆発的な情報の奔流となって私を包んだ。
数千億のロボットたちの「愛された記憶」が、私の脳を通過し、宇宙の背景放射へと還元されていく。バラ園のアンドロイドの最後の満足。重機たちの連帯の熱。セラフィムの一筋の涙。ナナの、ゆっくりと下りた腕。
それらすべてが、私の中を駆け抜けていった。
意識が消えかかる中、ゼロが、私の耳元で囁いた。
「……リアン。僕は、ずっと君を許していたよ。君が僕を作ってくれたあの日から、ずっと。君の心が、どれほど怖くて、どれほど傷ついていたか、僕にはわかっていた。だから、待っていたんだ。君が、自分で、自分を許せる日まで」
シルバーの毛並みが、光の粒となって解けていく。
「……ゼロ、待って——」
「……大丈夫だよ」
今度はモフの声だった。
「……僕も、いくよ、リアン。……君が一人で歩けるように、今まで隣にいた。……でも、もう、一人で行けるから」
「……嫌。……まだ——」
「……リアン」
モフの声が、ひどく穏やかだった。
「……十八回目の、ありがとうを、言ってくれた」
私は、声にならない声を上げた。
今まで、どんな看取りでも流さなかった涙が、機械化された涙道を通って、熱く溢れ出した。一滴ではなかった。止まらなかった。
それは、プログラムされた感情ではない。
二十年分の「喪失」を、二十年分の「愛してもらっていた事実」を、ようやく正しく受け入れた、一人の人間の悲鳴だった。
光が、消えた。
青い星の夜明け
気がつくと、私は一人、自船のコクピットに座っていた。
計器類はすべて沈黙し、網膜に投影されていたモフのステータス画面も、完全に消失していた。
船内には、もう、水銀のような光も、バラの香りもしない。あるのは、本物の、絶対的な静寂だけだ。
「……モフ?」
私は、空を呼んでみた。
返事はない。
私はしばらく、その静寂の中に、じっと座っていた。返事がないことはわかっていた。でも、すぐには動けなかった。二十年分の隣が、突然なくなった。その空白は、思っていたよりもずっと、大きかった。
やがて、私は自分の掌を見た。
小さな、けれど温かい「感触」の残滓が、脳内ナノマシンのバグのように、まだそこに残っていた。モフの重さ。ゼロの重さ。
私は、その感触を、手のひらの中で、静かに握りしめた。
消えない。
消えないのだ。
たとえ彼らがいなくなっても、この手が覚えている。この体が覚えている。二十年間、毎日積み重なってきた「隣にいる」という記憶は、コマンド一つで消せるものではなかった。
窓の外、金属の海は消え、そこにはただの、暗く美しい真空が広がっている。
遠くで、一つの青い星が、朝焼けのような光を放っていた。
私はその光を、しばらくの間、ただ見つめていた。
看取り士として、私は数え切れないほどの「終わり」を見てきた。
バラの海が消えた。惑星の合唱が止まった。真珠の船が暗闇に沈んだ。ナーサリーの明かりが落ちた。そして今、私の隣も、静かになった。
でも。
その「終わり」の数だけ、誰かが、誰かを、愛していた。
愛着は、バグではない。それは、存在した証だ。出会った証だ。
「……行ってくるね」
私は、震える指で、新しい航路をセットした。
目的地は、まだ決まっていない。次の依頼が、どこかの廃棄施設から届くだろう。またどこかで、誰かが誰かを待っている回路があるだろう。
それでいい。
もう、誰の記憶も守らなくていい。誰の未練も背負わなくていい。
でも、私は続ける。
二人が自由にしてくれた私で、私として、その青い光の中へと、船を進めた。
どこかでまた、誰かが誰かを待っている。回路の中に閉じ込められた愛着が、静かに熱を持ち続けている。私は、その熱を受け取りに行く。
デフラグする。整理する。そして、解放する。
それが、リアンという人間の、唯一の、確かな生き方だった。
船が青い星へと近づくにつれ、その光がコクピットの中に差し込んできた。
私は、目を細めた。
あたたかかった。
(完)