
短編小説『勇者は三日前に決まりました』
勇者の剣があるという《灰白の里》に着いた時、勇者候補のレインはもう足が棒になっていた。
三ヶ月の旅だった。
山を越え、盗賊に襲われ、橋が落ち、野宿中にシーフのノクトが勝手に焚き火で干し肉を焼き始めて魔物を呼び寄せた。
それでもようやく辿り着いたのだ。
伝説の剣に。
選ばれし勇者だけが抜けるという、あの剣に。
石畳の坂道を登った先、小さな神殿の前にいた老人が、こちらを見る。
そして一瞬だけ、目を見開いた。
「あっ」
小さく漏れた声。
老人はすぐに取り繕うように笑顔を浮かべる。
「……よ、ようこそ。勇者候補の皆様」
歓迎している。
歓迎しているはずなのに。
なぜか葬式みたいな空気だった。
「あの……もしかして……」
僧侶のフィルが恐る恐る聞く。
老人は気まずそうに視線を逸らした。
「……抜かれましてな」
風が吹いた。
遠くで鳥が鳴いた。
ノクトが口を開けた。
「……は?」
「三日前に」
沈黙。
レインは固まったまま瞬きをした。
「……三日前?」
「はい」
「俺たち、昨日ここから一番近い町にいたんですけど」
「惜しかったですなぁ」
惜しかったですなぁ、だった。
そんな感じなのか。
人生を賭けてきた側からするともう少し何かないのか。
だが老人も悪気はないらしく、本当に申し訳なさそうだった。
「せっかくここまで来ていただいたのに……」
「いや、まあ……」
レインは笑った。
笑ったつもりだった。
横で魔法使いのティナが小さく拍手した。
「すごいねぇ。本当に抜ける人いたんだ」
「そこ!?」
レインは思わず振り返った。
ティナはきょとんとしている。
「え? だって伝説って大体盛ってるじゃない」
「まあ、そうですけど……!」
「実在したんだねぇ」
感心するところそこなのか。
ノクトは神殿の柱を眺めながら言った。
「じゃあもう解散?」
「早いですね判断が」
フィルが疲れた声を出す。
弓使いエルザは肩の弓を下ろしながら欠伸をした。
「で、その勇者様はどんな奴だったんだ」
「それはもう立派なお方で!」
老人の顔がぱっと明るくなる。
「剣を抜いた瞬間、光が溢れましてな! まさに伝説の再来!」
レインは静かに死にたくなった。
比較対象が眩しすぎる。
老人は途中でハッとした。
「あ、いや、その……!」
「いえ、大丈夫です」
大丈夫ではない。
全然。
だが老人も気を遣っているのが分かるので、レインは逆に辛かった。
「と、とりあえず皆様、長旅でお疲れでしょう! お部屋を用意しますので!」
「え、いいんですか?」
ティナが聞く。
「もちろんですとも! 勇者候補としてここまで来てくださったのですから!」
その“勇者候補”が少し痛かった。
夕方。
里は妙に優しかった。
「お兄さんたち、これ食べな!」
「旅は疲れただろう!」
「温泉もあるからねぇ!」
みんな優しい。
優しいから居心地が悪い。
レインは団子を受け取りながら乾いた笑みを浮かべた。
「あ、ありがとうございます……」
「元気出しな!」
駄目だった。
元気出しな、でちょっと駄目だった。
そんな顔してたか俺。
隣でノクトが普通に五本目の団子を食べている。
「この里めっちゃ飯くれるじゃん」
「お前はもう少し空気を読め」
「空気で腹は膨れねぇし」
正論だった。
ティナは屋台のスープを飲みながら首を傾げた。
「でもレイン、そんな気にしてる?」
「え」
「剣」
あっさり言われて、レインは言葉に詰まった。
「まあ……気には……」
「そっかぁ」
ティナは頷いた。
「でも、しょうがなくない?」
悪意はない。
本当にない。
「だって先に来た人が抜いたんでしょ?」
「まあ……そうだけど」
「レインが悪いわけじゃないじゃん」
ぽん、と肩を叩かれる。
優しい声だった。
「また別のすごい剣とかあるよ、きっと」
レインは微妙な顔になった。
“勇者じゃなくてもいい”と言われた気がした。
たぶんティナはそんなこと考えていない。
本当にただ慰めているだけだ。
だから余計に刺さる。
エルザが酒瓶を片手に笑った。
「お前、思ったより引きずるタイプだな」
「引きずりますよ!」
「三ヶ月旅しただけだろ」
「人生賭けてたんですよこっちは!」
叫んでから、レインは少し恥ずかしくなった。
ティナが目を丸くする。
「人生?」
「え」
「そこまでだったの?」
そこからなのか。
レインは頭を抱えたくなった。
フィルが静かに助け舟を出す。
「レインは昔から勇者に憧れてたんですよ」
「あー……」
ティナはようやく少し納得した顔をした。
「じゃあショックかぁ」
その一言でまた少し削られる。
夜。
宿の外で、レインは一人で座っていた。
山の空気は冷たい。
虫の声が静かに響いている。
「隣、いい?」
ティナだった。
湯上がりらしく、髪が少し濡れている。
「……どうぞ」
ティナは隣に座った。
しばらく沈黙。
「みんな、別に気にしてないよ」
ぽつりと言う。
「ノクトはご飯美味しいって喜んでるし、エルザさんは酒飲めれば機嫌いいし」
「フィルは?」
「めちゃくちゃ気を遣ってる」
「だろうな……」
思わず笑ってしまった。
ティナも少し笑う。
「だからさ」
彼女は空を見上げた。
「そんな責任感じなくていいんじゃない?」
レインは黙った。
その言葉は、優しかった。
たぶん本当に。
でも同時に。
“勇者になれなかったレイン”を、もう受け入れている言葉でもあった。
それが少し寂しかった。
ティナはそんなこと気づかないまま立ち上がる。
「明日どうする?」
「……さあ」
「まあ、なんとかなるよ」
軽く言って、宿へ戻っていく。
レインはその背中を見送った。
なんとかなる。
たぶん、本当にそうなのだろう。
世界は別に終わらない。
勇者が一人決まったくらいで、自分の人生まで終わるわけじゃない。
ただ。
その“終わらない”の先を、まだ少しだけ見失っていた。