
コイル
メッキ
たまに思い出す記憶。
小学生の時に書いた、給食についての作文。
食べることが好きだったからか
スイスイと書き上げた。
我ながら良い出来で自信たっぷりに提出した。
後日、先生に呼び出され
「校内放送で読むことになったよ」
と告げられた。
手応えは勘違いではなかった。
発表当日。お気に入りのスカートで登校した。
放送室へ向かうと、私の他に二人選ばれていた。
リハーサル中に原稿用紙を返却され、
タイトルと名前だけを読み、声量の確認をされた。
本番まで少し時間があるので小声で練習していると、
自分が書いた作文がだんだん恥ずかしくなってきた。
給食を楽しみにしていること。
味噌汁が好きなこと。
先生には読んでほしかったけれど、
みんなには話したくない。
このころの私は太っていて、
常にお腹を凹ませ標準体型のふりをしていた。
食べることが好きと言ったらデブがバレてしまう、
そう思った。
しかも好きなメニューが味噌汁とは地味すぎる。
ダサいと思われそう。
カレー、チョコパン、冷凍みかん等の
花形メニューを差し置いて何故味噌汁と書いたのか。
絶対にそれらのメニューの方が
私もテンションがあがっていたはず。
それなのに味噌汁を選んだということは、
たまに出てくる特別な美味しさよりも
日頃から味わわせてくれるいつもの美味しさの方が
印象深かったのか。
この歳で「当たり前のありがたみ」に気づくとは
なかなかいい感度をしているじゃないか。
だけど当時は、小学生なりの見栄や防衛本能が働き
この事実をさらけ出す勇気がなかった。
どうしたらいい。
大人になった今でもそうだが、
「どうしよう」と思うだけで思考は停止している。
本番が間もなく始まり、ついに自分の番がきた。
出たとこ勝負の私はもう、
作文を読みながら即興で修正することにした。
食いしん坊らしい表現は極力減らし、
好きなメニューもカレーに変更した。
咄嗟に変えたので
文章がおかしいところもあった。
何よりも、この作文の活き活きとしていた部分が
まるっと無くなってしまった。
私を選んでくれた先生は驚いたことだろう。
でも、あのときの私にとって作文の魅力よりも
デブキャラ・地味メニュー好きという
レッテルを貼られないことが大切だった。
放送終了後、先生からは何も言われなかった。
逃げるように足早に教室へ戻った後
友達から何を言われたかは覚えていない。
覚えていないと言うことは
とくにイジられなかったんだと思う。
もしあのとき、
先生から何か言われていたら。
そもそも、腹をくくってそのまま読んでいたら。
この見栄っ張りでその場しのぎな性格は
変わっていたのかもしれない。
胸がザワっとする記憶だけれど、
しょうもないことに怯えて
どうにか足掻いたあの日の自分に
年々おかしみも感じられるようになり、
なんだかんだで忘れたくない記憶だ。
ちなみに、
デブを隠し通しているつもりだったが、
なにかの行事で撮られた写真には
油断しておなかがぽっこりしている姿が映っていた。
きっとみんな、最初から気づいていた。
何も誤魔化す必要は無かったのだ。
桜
春が近づくと、桜開花を待ち望むニュースが流れる。
「私、花見のアンチだから」と友人に報告する。
友人は、今年もまた言ってるわ、と呆れる。
数年前からお決まりになった一連の流れだ。
本当はアンチに加入してほしいのだが。
花見にも桜にも興味が無い、という人はいる。
花粉症だから行けない、という人もいる。
私は違う。
花見と託つけて飲み食いするのは楽しい。
桜も美しいと思う。
気になるのは、「桜だけ」なこと。
日本人の桜好きは
平安時代頃から刷り込まれている。
文中に「花」とあれば桜と解釈せよ、
と古文でも習った。
桜の特別扱いは根深い。
花見アンチと言うと過激派のようなので、
桜以外の応援隊、とでも言い替えようか。
ご近所の庭、駅前の花壇、道路沿いの植木。
普段から咲いている花も見てほしいだけ。
できれば草木も。
私のなかで「花見」は、
「にわかファン」と類義語なのだ。
多くの人が、毎年桜だけを見て
分かった顔をして花を愛でる。
花は年中咲いているのに、
桜以外は見ているか?季節を感じているか?
どうせ「金木犀も好きだもん」と言うのだろう?
と、面倒な古参ファンのようになってしまう。
なんでこんなにその辺の花も見てほしいのか。
花っていいな、と10代後半頃から思っていたけれど
この漠然とした気持ちを明確にしてくれたのは、
漫画「あたしンち」のエピソード。
しかもお父さんの発言で。
数百円のすずらんを衝動買いし、後悔するお母さん。
空き容器に入れられたすずらんを愛でながら
「◯◯円では作れんだろ」とお父さんが言う。
つられてご機嫌になるお母さん。
いつの間にか古本屋に売られてしまったので
少し朧気になってしまったが、このような話だった。
花は良いと元々思っていたけれど
きれいだから、だと思っていた。
この話を読んですごく腑に落ちた。
水やりなどで人間の手が必要だとしても、
花の形自体は手を加えずとも自然と出来上がる。
それがこんなにも美しい。
その不思議さに惹かれていたんだ。
だから私は花を見たときに
きれいよりも、すごい、と思うんだ。
そして花もすごいが、
ガーデニングしている人もすごい。
手入れが行き届いたお庭はもちろん、
プランター1つでも置いていれば
「お疲れ様です」と言いたくなる。
そういう面でも、植物を見ることは良い。
見ているのは目の前の植物だけれど、
見えないところを想像する。
人の気遣いや手間を感じ取る練習になる。
練習しないと私は人に優しくできないのだ。
書いていて改めて思ったが、
色んなことを考えていて本当に厄介な性格だと思う。
植物はただ咲いているだけ。
育てている人は趣味なだけ。
私が勝手に深読みしているだけ。
無駄な想像。
だけど、私がおもしろいと思う人は皆
無駄な想像力が逞しい。なら無駄も悪くないはず。
とはいえ私の文章には無駄が多すぎる。
アンチの話はどこへ行った。
「植物全部すごいから日常的に見て。そしたら少し優しい世界になるんじゃない?」
ギュッとしたらこういう話。
纏う
幼少期から服にこだわりがある。
おしゃれ自体も好きだが、
コンプレックスを隠すためにも
服は武装として必要だった。
試行錯誤した経験は今も役立っている。
20代半ばでようやく標準体型になり
着られる服が増えた。
今は武装というより憑依に近い。
服の雰囲気に気分も寄っていくので、
今日はこんな自分でいたいからこれを着よう、
と選ぶ。
コスプレのリアル版と言ったところか。
大体着ているうちに忘れて
本来の自分が出てきてしまうが、
鏡やガラスに映る自分を見てまたスイッチを入れる。
そんな頼れるアイテムだからこそ、
服選びを間違えた日はその分余計に
冴えない自分になってしまう。
服のおかげで、にもなるし、服のせいで、にもなる。
考える時間が勿体ないからと
ワードローブを制服化している人もいるが、
私はこの考える時間も好きだし、
いろんな系統の服を着たい。
生涯、クローゼットはパンパンにしていたい。
そんな数ある服のなかで特に愛着があるのは
自分でデザインしたTシャツ。
サイズ感、色、グラフィック、ロゴ、
すべて自分で選んだのだから当然お気に入りである。
既製品の服のロゴは
変な意味なのでは?と心配して着られないタチだが、
これは自分の主張したいことを書いているので
読まれても安心。
「Jag går hem eftersom min hund väntar på mig」
スウェーデン語で
「犬が待っているので帰ります」という意味だ。
結果、変なことを言っているのだが
自分が言いたい変なことだからいいのだ。
これを着て出勤し、
真面目な顔をして実は帰宅宣言をしている。
職場の人は絶対に気づかないだろうが、
街中である日誰かに気づかれることを期待している。
ニヤリとしてくれたら嬉しい。
真面目におしゃれをする日もある。
こっそりふざける日もある。
明日はどっちにしようかな。
紡ぐ
私は文章を考えるのが遅い。
仕事のメール、友達とのLINE、
noteで記事を書くとき。
いちいち時間がかかる。
ようやく書いても、まだ悩む。
これだと分かりにくいか?とか
「~の」が多くてくどいな、とか
私この言い回し使いすぎだな、とか。
気になって書き直そうにも、
引き出しが少ないので
代わりを探すことも一苦労だ。
ただ、書くのはまだ良い。
ある程度時間をかけられるし、何度でも直せる。
問題は話す方。熟考していられない。
大抵いつも、間が空くことを避けて
とりあえず月並みなことを言ってしまう。
帰り道は決まって反省会だ。
ボキャブラリーが少ないくせに
使いたくない表現もある。
こだわりが強くて困る。
今一番避けているのは「塩味(えんみ)」だ。
元々存在する言葉ではあるが、
ここ数年でやたら聞くようになった。
私は超テレビっ子なので
この言葉が浸透したきっかけが分かる。
と、自負している。
ある芸能人がこの言葉を食レポで使っていたのだ。
そこから明らかに「塩味」が広まっていった。
それまでは「あまじょっぱい」や「塩気」と
言っていたはずだ。
ほかの芸能人もYouTuberも一般人も
「塩味」に乗り換えた。
上品に聞こえるからだろうか。
言い始めた芸能人もたしかに上品で知的だ。
だけど
覚えたての言葉を使うようで抵抗がある。
まあ、誰かに味を伝える場面なんて
一般人にはほぼ無いのだが。
ちなみに、「食レポ」がじわじわと
「食リポ」に移行された時期も覚えている。
本人が「レポ」と言っているのに
テロップで「リポ」に直されるほど徹底されていた。
なんか怖かった。
御達しがあったのだろうか。
そういうことが気になって本編に集中しないから
タレントの話術を吸収できない。
今、エッセイなんて書いてみているが
私が持ちうる数少ない言葉と表現のストックを
かき集めて出来上がったのは
エッセイというより小言集だ。
時間はたっぷりあったのにも関わらず、
気づけば締め切りまであと2時間。
何ヵ月も書いては消してを繰り返した。
締め切りがあと1ヶ月先だったとしても
結局ギリギリまで書き直していることだろう。
言いたいことは言えた。
でも、まだある。まだ書きたい。