
私は絵画になった。知らないおじさんによって。
国立西洋美術館に行った帰りの電車で、私は絵画になった。
三、四時間、美術館を歩き回って疲れ果てた私は、だらしなく座って、エッセイを読んでいた。
絵の題材にするにはあまりに趣がない姿勢と表情だ。
ただ、芸術というのは懐が深い。
その腑抜けた感じも、また一つのテーマになりうるのかもしれない。
わたしは、絵画になったのだ。
1人のおじさんにとっての。
半開きの口で、ぼーっとページをめくっていると、視線を感じた。
視線の方に目を向けると、向かいの右斜前に座るおじさんと、バッチリ目が合う。
はじめは偶然だと思った。
すぐに視線を逸らして、また本を読み進める。
でも、やっぱり見られている気配を感じる。
もう一度、ちらっとおじさんを見る。
おじさんはこちらを見ていた。
年齢は40代くらい。
よく言えばガタイがよく、失礼を承知で言えば、全体が丸みを帯びていた。丸い顔に丸い目が印象的だ。
中身がぱんぱんに詰め込まれた黒いリュックを前に抱えて、手には大きめな紙袋をぶら下げている。
そんなおじさんが、私を見ている。
「見ている」と言うのでは足りない。凝視している。
そそくさと視線を本に戻すが、もはや文章は入ってこない。
見られていることが確定した以上、口を半開きにしているのはまずい。
口をンっと閉じる。
仕方がないので、丸めた背筋も少しだけ伸ばしておく。
一応、私は二十代女性なので、電車で知らないおじさんに凝視されれば、不安になってもおかしくない。でもそれはならなかった。
むしろ、おじさんが何を考えて私を見ているのか、確かめたくなった。(危ない)
自分が社交的だとは思わないけれど、人と目を合わせることはなぜか得意だ。
今こそ、その特技を披露しよう。
こちらから目を合わせれば、おじさんも気まずくなって、何らかのアクションを起こすはずだ。
絶対に目を合わせてやろう、と静かに意気込む。(私の方が危ない)
おじさんの目をしっかりと見る。
やっぱりおじさんは私を見ている。
おじさんと私は10秒ほど見つめ合った。
嘘だ。実際は3秒くらいだと思う。
ただ、目と目を合わせるというのは、時間を止めることだ。
それがたとえ知らないおじさんであっても。
ロマンチックな雰囲気は全くないが、とにかく2人で見つめ合って、視線を交わした。
どちらが、先に外したのかは定かではない。多分私だ。
見つめ合った結果、おじさんが何を考えているかは全くわからなかった。
でも、なんだか全部どうでもよくなっていた。
もう一度、視線を本に戻す。
見られていることを自覚しながら、
また、姿勢を猫背にして、口を半開きにする。
目も半開きにしておく。
あのおじさんにとって、私は鑑賞の対象だったのだと思う。
美術品に詳しくない私は、芸術的な価値があるとか、こんな技法が使われているとか、そういう楽しみ方はできない。
美術館に並ぶたくさんの作品を、好きか、嫌いかで楽しむ。自分が好きならば、目玉作品じゃなくたって良いのだ。
好きなものを好きなように、時間をかけてじっくりと見る。
おじさんにとって、電車は美術館のようなものだったのかもしれない。
たくさんの人が並ぶなかで、お気に入りのひとつを見つけて観察する。
その時のおじさんのお気に入りセンサーに引っかかったのが、
口を半開きにして、猫背で本を読む二十代女性だったのだろう。
人の感性というのは、つくづく自由で、実に豊かである。
であれば、私は作品として、口を半開きにして、猫背で本を読んでいても、まったく問題がない。むしろそうしていた方がいいとさえ言える。
美術館に展示されるような素晴らしい絵画のモデルたちも、ある一瞬の美しさを切り取られ、その姿のまま、長い年月の中で多くの人を惹きつけたのだ。
電車を降りる前に、もう一度おじさんを見る。
目が合う。
そのとき、赤い花冠を頭に乗せた、額縁の中の少女に、じっと見つめ返されたときの感覚が、ふとよみがえった。
私が思い出したのは彼女でした。