
シナモンロールのあなたたちと【最終話 とある家族の話】
夏の東京、神楽坂。 湿った熱気がまとわりつく夜の街に、複雑に入り組んだ石畳の坂道をスマートフォンを頼りに歩く、三人家族の姿があった。
「パパ、どっち。お店間に合わないよ」 「こら、パパを急かさないの」
若い夫婦と、最近ようやく自分の足で自立して歩けるようになったばかりの幼い娘だった。夫は片手にキャリーケースを引き、もう片方の手で娘の小さな手を握っている。少し焦る様子を見せながらも、もろく壊れやすいものを包み込むように丁寧に、妻が調べるスマートフォンの案内に従って、中腰になりながら小走りをしていた。
予約時間から数分過ぎた頃、一行は目的の店に到着した。 数ヶ月前、家族会議を開いて東京旅行を計画した際、妻が提案したショート動画の中から娘が選んだ店だった。当初は有名な遊園地をメインにする予定だったが、日に日に、三人で美味しいものを食べること自体が旅の目的になっていた。 この旅行は、施設から迎えた娘がようやく二人に懐き、本当の家族だと信じてくれるようになってから初めての旅だった。妻は子供を強く望んだが、体質的な理由から産まない選択をしていた。その決断をして以来、夜になると妻がベッドの暗闇の中で静かに泣き、夫がそれを無言で抱きしめるのが二人の日常だった。 しかしある日、夫が養子縁組の相談を切り出した。 「僕と君は血が繋がっていないけれど、色々な問題を乗り越えて今がある。だから、子供とも家族になれると思うんだ」 その言葉で妻は決心した。互いの親からは猛反対され、難色を示されたが、自分たちがこれまで夜の暗闇の中で超えてきた問題に比べれば、それは些細なことだった。すべてが新しく、すべてが記念日になるような幸福の最中であり、今日は大切な旅行の夜だった。
店に一歩足を踏み入れると、そこは東京の街に馴染んだ小洒落た風貌の客たちで賑わっていた。 席につき、運ばれてくるコースメニューを嬉々として平らげていると、不意にスピーカーから、聞き馴染みのある心を弾ませる音楽が流れてきた。 バースデーソングだった。今日は妻の誕生日で、夫がサプライズでケーキを注文していたのだ。店内からは自然と祝いの歌と、心地よい祝福の手拍子が沸き起こる。主役の女性は照れくさそうに、けれど世界で一番幸せそうに微笑んでいた。
しかしその客席の中に、歌も歌わず、手拍子もしない者がいた。 注文したステーキを黙々と切り分け、ただその家族を見つめながら、肉を淡々と口に運ぶ男だった。
男の佇まいは、その生き方をそのまま表しているようだった。 男は大学院時代に障害者の共生に関する画期的なシステムを考案し、自治体へのコンサルティングを行う会社を起業した。学会からは「冷徹すぎる」と批判も出たが、大手企業がスポンサーとなり、男の行く手を阻む存在は徹底的に、再起不能になるまで排除された。年齢や年上への礼儀など、男にとっては無意味だった。相手の親が、自分の親より数年早く結婚して子供を産んだというだけの違いに過ぎない。男は子供の頃から泥水をすすり、冷酷な社会に出て戦ってきたため、経験年数で言えば自分の方が上だと言い切った。
何も知らず、障害者やその家族の本当の地獄に向き合ったことのない大勢多数を相手にビジネスを動かし、現場を忘れた上層部からは賞賛された。だがその実態は、医療現場に負担を強いる形で、国の補助金を法に触れない方法で獲得するスキームだった。 男はかつて、腹心にだけ本音を語ったことがある。 「どうせ誰かに不幸にされるなら、今のうちに僕がシステムとしてきちんと不幸にしてあげる方が、その人にとっても幸せなんだ。障害は社会の構造から与えられるものだから、社会が連帯責任を取るべきなんだよ」 男はどこを見ているか分からないような暗く淀んだ目で、「障害者なんていなくなればいい」と付け加えた。 その言葉の裏には、凄惨ないじめの果てに逝ってしまった存在への、勝手に奪われた愛犬への、そして、歪んだ親の愛の犠牲になって自分から引き裂かれていった「向日葵」のような女の子への、狂わんばかりの復讐心が隠されていた。
思いやりや遠慮という言葉は形骸化し、男の作ったやり方が業界の主流として流行り始めていた。男は社会の頂点に立っていた。
男の中に、幸福という言葉はもうなかった。誰かから強く抱きしめられたい、大丈夫だと言ってもらいたい、守ってもらいたいという感情はとうに消え失せ、狂ったように仕事に打ち込んできた。 しかし、ただ目の前にある肉を頬張っている最中に、その幸せそうな家族を見てしまった。 「平凡な家族だな」と眺めていたが、男の頬を熱い涙が伝った。 平凡で、ありふれていて、自分が見てきた世界のほんの一部しか知らないような、地方から出てきて東京というだけで、はしゃいでいるように見える家族。
こんなに平凡なのになぜ涙が溢れるんだ。 人生で成功しているのは私のはずだ。お金を持っているのは絶対に私の方だ。 いや、人生の成功は金か?
男はこの場所が自分に似合わないと感じ、肉を半分以上残して店を出た。 あの夫が娘の小さな手を握り、妻の笑顔を守っている間、この男は冷たいナイフで死んだ肉を切り分けていただけだった。逃げるように店を出ると、背後から伝わる店内の明るいバースデーソングとは対照的に、目の前にはどこまでも暗い裏路地が伸びていた。
男は大通りに出てタクシーを拾った。普段ならそのまま会社に戻り、朝まで数字の山に埋もれるところだったが、途中でコンビニに寄らせた。買ったのは、高級な酒ではなく、お酒の弱い人間が飲むような、アルコール度数の低い甘い缶チューハイだった。かつて、不慣れなお酒にすぐに顔を赤くしていた、あの愛おしい人を思い出させるような安っぽい酒だった。 人気のない静まり返った公園のベンチに座り、男はその酒を一気に飲み干して夜空を見上げた。濁った東京の空には、星一つ見えなかった。
私が求めてたことは本当にこれだったのか。
「これ以上何を犠牲にすれば、僕は満たされるんだろう」
そう思いながら、男はスマートフォンを開き、誰かに届くことを願うようにメモを打ち込んだ。 『私は何か頑張ってるよう何も思い通りにできなかった人生だった。』
自分の頭で考え、必死に応答し、戦い抜いて地位を得たはずの人生だった。しかし、本当に欲しかったものは何一つ掴めないまま、砂のように指の隙間から零れ落ちていた。
数時間、夜気の冷え込んでいくベンチに座り込んだまま、男は静かに呟いた。それは、もう二度と逢えないあの人への、届かない祈りだった。
「あの、平凡な夫婦のように。俺も、君と結婚して、もし、子供を作ったとしたら、病気を引き継いでいたかもしれないけれど、僕が全力で愛したかった。人生を看て、護り護られたかった。シナモンロールのあなたたちと未来になりたかった」
男は空になった缶を静かに握りしめ、二度と戻らない温もりを噛み締めるように、暗闇のなかで一人、小さく肩を震わせた。