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Photo bytakoyakiyuchan

全力で生きることをやめた私の話

     プロローグ 私という人

    私は今、飛行機に1人で乗り、実家に帰省している。娘の部活の応援が2日続けてあるときは、1人でビジネスホテルに泊まる。

    しかも推し活中。人生初のライブにも娘と1泊して参戦した。推しの誕生日にファンクラブにも入った。

    ここ最近の私はイケてる。

    そんな「私」の自己紹介をしようと思う。

    「46歳・ 主婦・パート・子ども3人・主人・乳がんに2回なった・関東出身で900キロ離れた電車のない田舎に住んでいる。」

    これが今の私を表すキーワードだ。

    今、私は全力で生きることをやめている。

    なぜなら「親より先に死ぬわけにいかない」からだ。

    2度とがんにならないように、全ての治療が終わったあたりから、ジワジワと策を練っていた。

    そこで、辿り着いたのが「自分軸」をテーマにしようということ。自分の好きな事を思い出しながら生き方を模索し、実践している。

    もう、あとがない。2回もがん宣告を受けて、経過観察という結果に至っているのは、ラッキーなのかもしれない。でも、2回分なりの不安や恐怖は、思っていたよりもメンタルに影響を与えている。

    でも、おまけの人生だと思い、自分の心のままに生きてみようと、やっと思えたのだ。人生一度しかないのに、二度目のガン宣告後に気づくなんて、もはや遅すぎる。

    がん宣告は人生を変えてしまう。病気になる前の生活や精神状態を保つことは難しい。どんなに好きな事をしても、笑顔でいても、そんな恐怖と隣り合わせだ。


    脳内からその恐怖がなくなることはない。常に、ではないが、事あるごとに自分の意識が「がん」とその時の状況を紐付けてしまうのだ。

    頭痛がする、転移ではないか⋯というように。

    その全てを受け入れて、おまけの人生を自分軸で生きると決めた私の話だ。


     ①私の秘書は完璧だった

    かつての私は自分で自分の秘書をしていたかのようだった。一つひとつの予定が複雑なパズルのピースだとしたら、1日1作品仕上げていくようにその日を過ごしていた。

    例えば、子供の習い事の送迎。幼稚園児の息子を連れて、次女のスイミングの送迎をする。次女はその後にテニスがあったので、私は車で食事が取れるように次女の分はお弁当にしていた。


    中学生の娘の夕飯を温めて食べられるとこまで準備をし、お弁当を持って息子を車に乗せ、次女のスイミングへ迎えに行く。そこから車でご飯を食べさせて、テニスの練習場所まで連れて行く。車で20分弱の距離だ。


    19時半頃、一度帰宅をし、息子と私と食事をする。主人には夕飯メニューを書き置きしておく。

    息子を風呂に入れて、夜21時までにテニスの迎えに行った。帰宅してから夕飯の後片付けをする。

    ある時は、息子の幼稚園の迎え、友達と遊びたいという息子を、友人宅まで送迎する。

    夕方早めに、次女に夕飯を食べさせている間に、息子の迎えに行く。

    部活から帰る長女の夕飯の支度、次女のテニスの送迎、息子のお風呂、夕飯片付け、そしてテニスの迎えに行く。

    書いていても、訳が分からない。とにかく3人がそれぞれ行き先も、生活スタイルもバラバラだった。

    世の中の母親の送迎事情は本当に複雑で、それをやり切るのは天才的だと思っている。

    自分のことを褒める以外にメリットがない生活スタイル、分刻みのスケジュールを終えた先に見えるのは就寝という名の、1日の終わり。

    寝てしまえば、また朝が来て、1日が始まる。朝が来てしまうことを恐れて、寝るのさえ、嫌になる。

    このスケジューリングは、凄まじい。これだけやったら、頑張ったと自分に酔わずにいられない。

    大人もたまには褒めてほしくなると両親に訴えていた。

    入浴後の夜のお迎え、夏はそれでも良かったが、冬は私も息子も湯冷めの心配があった。 とにかく「こなす」ことがメインで、体のことなんて全く考えていなかった。

    湯冷め防止策としては、お迎えに行ったときに車から出ずに、娘が車に来るまで待つことくらいだ。

    土日も長女の部活や次女のテニスの送迎、付き添い、主人も土日は仕事だったので、育児もワンオペが多かった。

    そんな一生懸命な自分が大好きだった。私、やれてる。完璧。誰にも真似できない。自分に惚れ惚れしていた。

    そんな惚れ惚れした私の人生に突然、一時停止の札が上がった。

    「動くことを止めなさい」

    動いてなければ死んでしまうと思っていたのに、止まらないと死んでしまう出来事に遭遇することになるのだ。

    ②唯一の自分時間にがん宣告

    右胸の良性腫瘍摘出手術を受けていた私は、数年乳腺外科に通院していた。

    良性の腫瘍なのでなんてことない、通院が唯一子供から離れる理由だと、大きな顔して外出が出来た。

    通院なのに、身だしなみを整え、ムダ毛処理を忘れたら、ドラッグストアで道具を購入し、病院のお手洗いでサッと済ませる。

    診察が終われば、「痛くもない診察を頑張った」と理由をつけて、ご褒美としてコンビニでおやつを買う。

    子育て中の専業主婦にとって、子供を預けることへの罪悪感がない通院という時間は、本当に有難い息抜きの時間だった。

    ところが8年前の10月、私の右胸に乳がんが見つかった。

    告知の日、告知されることは予想通りだった。1週間前の細胞診検査での医師の表情の違和感から分かっていたのだ。 

    それでも「私、子どもが3人いるんですけど」と医師に伝えるので精一杯だった。

    私の言葉に返答せずに、医師は今後の流れを説明した。

    抗がん剤の必要性も伝えられ、抗がん剤専門看護師も紹介された。

    安心してくれと言わんばかりの展開に「この看護師に私の気持ちは分かるのか。がんになったことなんてないのに。」と勝手に腹を立てた。


    私はかつて、新入社員研修で「共感する」というコミュニケーション技法を徹底的に教わった。学習塾の受付業務が主な仕事だった私は、子供の勉強のことで入塾を考える保護者とのやりとりで、この技法を使うように指導された。
    「相手の気持ちに乗っかって」というのが指導者の文言だった。

    以来、「共感」の大切さと心地よさが私にはピッタリはまり、今でも大切にしている。

    少なくとも、医師とのやりとりの中で共感は存在しなかったが、「お子さんが3人いるんですね」と復唱するかたちで共感してくれたら、もう少し穏やかでいられたかもしれない。

    良性の腫瘍手術から僅か10カ月後のことで、疑問しかなかった。

    手術を受ける前に検査したのに、良性の腫瘍はとって、悪性は残したの??


    同じ右胸なのに??

    「病院に通っているからってがんにならないわけではない」ことに、私は初めて気付いた。

    私は総合病院からがんセンターへ転院した。
    皮肉なことに、唯一の息抜きに通っていた病院への不信感を抱いてしまったからだ。

    ③憧れの長期休暇は、まさかのがん治療

    突然、がん患者となった私の人生は一変した。完璧なまでに優先にしていた「子ども中心」の生活から、「自分が優先」という専業主婦ではあり得ない、「入院」という長い1人の自由な時間を得たのだ。

    寝るときには同じ部屋にいた子どもがいない。ご飯は時間になれば出てくる。コンビニ行き放題。TV見放題。入院着はレンタルしていたので、下着とタオルくらいしかない洗濯物。5人分洗濯していた私には、手洗い場で洗ったので上等だった。

    分刻みのスケジュールなんて必要なくなってしまった。

    私が身につけた、何刀流もの同時進行。

    面白いくらいに出来上がっていたパズルの作品が、がん闘病生活では永遠にピースが揃わない。

    1枚も出来上がらない。
    スカスカだ。

    私の身につけた「スケジュール把握采配実行能力」は何の役にも立たなかった。

    劇的に変わったことは自分と向き合う時間が増えたこと。辛いくらい、増え過ぎて苦しかった。

    ④私を思い出した散歩

    桜が満開になる頃の季節に私は、病院にいた。その頃は放射線治療中で、幸い、身体のダメージはなく元気だった。散歩が日課になっていた。

    散歩中に考えることといえば、過去の自分を思い出すこと。独身時代の自分に再会することだった。

    音楽を聴きながら歩くのが大好きだった。中高生、大学生、ずっと電車通学で、音楽を常に聴いていた。学校までバスに乗る距離をわざわざ歩くことも、駅から20分の距離も、全く苦ではなかった。

    しかし、結婚してからはそんなことすっかり忘れてしまっていた。1人で歩くこともなければ、車に乗って移動しなくては遠くてどこにもない行かれない生活。せいぜい、車で音楽を聞くくらいだ。

    散歩とセットで音楽を聴くなんて何年ぶりだろうか。

    学生時代に好きなアーティストがいた。そのグループの歌の「君は君だから、誰かが望むような生き方はしなくていいよ、やりたいことまっすぐ見つめてなよ」、大方、このような歌詞だが、このフレーズがすごく好きだった。

    その歌をセレクトして聞いたら、やっぱりその時も同じように好きだった。

    そんなふうに過去の自分と再会したのが、「自分軸」にシフトするきっかけだった。

    ➄コロナ禍で変わった時間の価値観

    1度目の乳がん治療を終えた私は、すっかりペースを乱してしまい、ゆっくりした時間を過ごした。副作用で抜けてしまった髪の毛が伸びるまで、活発に活動するのも気が進まなかったのも理由の一つだ。

    髪の毛が抜けないような抗がん剤が発明されるといいな、と願うばかりだ。脱毛は何にも代えがたい辛いものだ。終われば生えてくるなんて、何の慰めにもならない。「命の方が大事でしょ。」確かに命は大事だが、だからと言って脱毛が肯定される事は絶対に違う。

    ちょうどコロナ禍に突入したことも相まって、のんびりとした家族時間を過ごしていた。

    コロナ禍で大変な思いをされた人々もいることは承知の上ではあるが、私は二度とこない、仕事も学校もストップした前代未聞の緊急事態宣言の時期はとても貴重だった。このまま全部なくなればいいのにとさえ思った。もう、あの誇らしく思う自分もいないし、あの時には戻りたくないし、もう、できないと思った。
     

    ⑥また乳がんかっっ

    コロナが5類に移行された2023年5月、1度目の乳がんから5年経とうとしていた。乳がんのフォロー年数は10年なので、ちょうど半分という、折り返しの年だった。

    PET−CTの検査結果で引っかかった。その時の気持ちは「青天の霹靂の100乗」悔しくて悔しくて、本当に悔しくてたまらなかった。

    今度は左胸だった。再発ではなく、新しく罹患した。

    マラソンに例えるなら、折り返し地点まで来たのにスタートラインに戻されたということだ。

    私は「自分軸」というテーマに沿って専業主婦からパート主婦に立場が変わっていた。結婚してから窮屈だったお金事情、ある程度自由に使うことができるようにパートを始めていたのだ。
    ストレスからの解消=がんにはならない。そう結論づけたからだ。

    なんて単純、でも私にしては勇気のいる選択だった。子供を留守番させて外に出るという選択。18年ぶりの仕事。ワクワクした。

    がんにならないための対策だったし、自分のためと思って決断した。

    なのに、2度目のがんの告知。サブタイプは「トリプルネガティブ」一番なりたくない乳がんのサブタイプ。⋯⋯あまりにもネガティブすぎる。どう気持ちを上げていくのか手立てがない。

    人生終わった、と思った。

    またあの孤独な時間がやってくる。「 神様は何を私に伝えたいのか。」神様との意思の疎通ができない。「神様は、これ以上、私に何を学べというのだろうか。」

    告知の日は主人と一緒に行っていた。主人は私に本心を見せない。もはや本心があるのかも分からない。あまり気にせず、大ごとに捉えてない可能性もある。

    闘病中の奥さんがいると、大概の旦那さんは一緒に頑張ろうモードになる。できることは何でもやるよ、だから治療に専念してね。

    「一緒に頑張る」とか「治療に専念??」全くピンと来ない。
    これは、私の性格的な問題だと思う。意地っ張りなのだ。人に、弱いとこを触れてほしくない。見せないのではなく、触れてほしくないのだ。

    みんなが頑張れば治る⋯⋯そんなことはない。誰にとっても「きれい事」では済まない「おおごと」なのだ。

    告知当日に話は戻るが、午後の予約で帰宅が遅くなった私達は、夕飯を済ませて帰宅することにした。主人がインドカレーをチョイスした。PET−CTの結果を、聞きに行った日かもしれない、記憶が定かではないが、いずれにせよ、私にとってはこんな時にインドカレーかよーーーというチョイス。ーー

    でも、何食べたい?と聞かない主人の粋な計らい??に救われた。これが私の夫が闘病する妻との向き合い方だった。

    2度目の闘病生活を一年かけて終了し、「完全奏効」という証明書をもらい、「進んでよし」と一時停止の札を下げてもらえたのだ。
    もう、全力疾走はしない。

    エピローグ  今と未来の私

    もうすぐ術後2年のCT検査がやってくる。

    つい最近、転職の話をもらった。とてもいい話だった。今の4時間のパート勤務からフルタイムで働かないかというお誘いで、福利厚生もしっかりしていた。10人に聞けば10人がいいという、その転職話を私はお断りした。

    少し、惜しかったなと半月経った今でも後悔しているのも本音だ。

    実は、涙が出るほど悩んだのだ。

    2度の大病の経験は、私を大きく変えた。とても、臆病にさせた。怖くて怖くて、そこから抜け出せないのだ。ふと、やってくる「私はやっぱり死ぬのかな」という恐怖。

    年齢とともに硬くなる体のせいで痛みが出てくると、「転移??」と疑う気持ち。これは、本当に辛い。病的に心を病んでいく。

    それらを抱えて生活している私には、どうしても「自分の時間」が必要だった。気を紛らすためにも必要だし、辛いから休もうよと労うための時間が必要なのだ。

    かつて、自分の身体を省みることなく、不死鳥のようだと思っていたことが嘘のように、変化した。

    しかし、断った自分を褒めてあげたいとも思っている。お金のためにはフルタイムも必要だったが、限界を超えて、病気を繰り返しては元も子もない。

    繰り返さない保証はどこにもないが、それなら、なおさら、自分の辛い気持ち、一歩踏み出せない弱い気持ちにも正直でありたいと思った。自分の気持ちに寄り添えるのは自分だけ。

    親が私を大切に育ててくれた、その私を優先に考えて、私の人生を生きる。

    かつて、分刻みでスケジュールをこなしていたあの私も、子供のためとはいえ、自分に酔っていたということは、「自分軸」なのかもしれない。だとしたら、そこに少し、自分へのスパイスではなく、甘さを時にはプラスして自分の許容範囲の中で、自分のこころ優先で生きていく。

    これが全力で生きることをやめた私の話だ。

    〜最後まで読んでくださった皆さまへ〜

    ​この作品は、普段マガジンでも投稿している闘病記をベースにしたものです。病気の経験は、私が書くエッセイにおいては切っても切れないほど、貴重で、つらくて、重くて、でもたくさんの収穫もあった経験です。マガジンを短編で書いたものではなく、そこでの想いをベースに、今回一本のエッセイとして全力を尽くして書き上げました。

    ​まだnoteを始めて2ヶ月ほどですが、いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。皆さんの存在が、とても励みになっています。

    ​共感してもらえる部分が、一つでもあれば幸いです。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

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    40代後半精一杯田舎で生きてる。 はるばる嫁いで20年。 優柔不断で自信なくて…すぐ疲れちゃうけど一生懸命生きてる! 人生で初めてDa-iCEのファンクラブ入会。 2回も乳がんになったけど、いつか、この経験が何かの役に立てたらと思っています。

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