
人生の転機での『気付き』が宝物になる~父の背中を見て思ったこと~
これまで何気なく過ごしてきたのであれば、日々の生活は平凡であることの方が多いかもしれない。
けれども、ひとたび人生の大きな転換点に差し掛かってしまうと、人はいとも簡単にそのペースを崩されてしまう。
現在の私がまさにそうだ……。
先日、父が急に体調を崩し、病院で検査したところ癌が見つかった。
病名は『すい臓がん』で、医師からは手遅れとまではいかないがかなり危ない状態にあると告げられた。
これまで何一つ変わらない当たり前の日常を過ごしてきたところに、突然襲ってきた厳しい現実。
この出来事が我が家の生活を一変させた……。
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こうして私は父がやっていた農作業をすることになった。
今までことあるごとに理由を付けて逃げてきたこの仕事。
そのわけは、これまでの私はどうしても土いじりが性に合わず、父に任せっきりにしてきたのであった。
それが今回そうも言っていられなくなり、現在、暇さえあれば泥まみれになって土と格闘している。
とは言っても、何も分からない状態で父の後を引き継ぐことになったので、今の私は何もできないのが現状だ。
だから、ご近所で父と親交のある優しい方々の助けを借りてなんとかやっている。
こんな役に立たない私が唯一できること。
それは深く腰を屈め、ひたすら雑草を取ることだった。
クーラーの効いた部屋から毎回父がやっている姿を遠目で眺めていた。
実際自分がやってみると思っていた以上にキツイ作業だということを改めて知った。
容赦なく照り付ける日差し。
気付かぬうちに上がっていく体温。
昨今、熱中症が取り上げられるなか、身をもって体験する。
それだけでない。
常にしゃがんでいるせいか、腰は鈍い痛みを伴い血の巡りも悪くなってくると目まいがしてくる。
たかが草取り、されど草取り……。
この作業にどれだけのメリットがあるのかも分からずに、ただ言われるがまま、汗水をたらしながら取り組んでいる。
にもかかわらずおとなしくこの任務をこなしているのは、やはり父が私に指図するわけでもなく無言でやっている姿を目にしていたからだった。
こうして下草と向き合ってみると、改めて雑草の生命力と逞しさに圧倒させてしまう。
言ってしまえば、この草取りが農作物の出来栄えに直接かかわるものでもないように思える。
それなのに、父は黙々と草々を摘んでいた。
この灼熱で厳しい環境にさらされながらも、立派な実を付けようとする作物に対して、そして、それを口にして喜ぶ家族の顔を見るために、父は身を粉にしてやっていたんだと思うと思わず涙がこぼれた……。
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そんな農業に疎い私でも唯一気づいたことがある。
辛い農作業ではあるが、そのコツとしてひとつ言えること。
それは……、
「完璧を求めるのではなく、こだわりを持つこと」
ということだった。
主に草取りしかしていない私が、
暑さによるこの過酷な環境のなかで、
気の遠くなるほど生い茂る雑草に対して、
唯一、身を守るために気づいたことだった。
完璧を求めていたら、いつになってもこの作業は終わらない。
こだわりを持たなければ、手のかかるこの仕事にケジメが付かない。
この二つの折り合いをどうつけるのかがカギだと思うのであった。
そんな時、頭の中である小説の一説が思い浮かんでくる。
「ああせいせいした。どうもからだにちょうど合うほど稼いでいるくらい、いいことはありませんな」
このセリフは、宮沢賢治の銀河鉄道の夜の『鳥を取る人』に出てきた鳥捕りが語ったものだ。
自分の身の丈に合った生活をしていくこと。
それでも生きていくためにしなければならないこと。
その結果、自分に関わる全てのものに目を向けなければならないこと。
そんなことを考えていた。
作物が己の生命を全うしようとしていることに立ち会い、
これを喜ぶ家族に笑顔を届けることを糧とし、
こんなささやかな人生を良とする生き方を、無言ではあるけれど、父は自分の背中を通して私に訴えてきたのであった。
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最近の私はご近所の農業の先生からも認められ、農作業機を使って作業してみたらと声をかけられるようになった。
ただただ、草取りをしていた身分からしたら大出世だ!
こうして日々の営みからの喜びを享受しながら、今の私は少しでも父に近づいていきたい一心で、今日も精を出して田畑に繰り出していきたいと思っている……。