
悲劇のヒロイン症候群
人という生き物は、定期的に自分を憐れみたいものなのだと私は思う。
実際には、他人からみて望まれるような環境・地位にいたとして。
ものごとがすべて順調に進んでいたとしても、自分をひどく可哀そうで、何も得ていない、そんな風に思いたい時があるのではないだろうか。
「悲劇のヒロイン症候群」とでも言おうか。
感傷に浸る。悲しい曲。失恋ソング。バッドエンドの物語。わざわざ作る必要があるのか。
どうせ創作の世界。どんな絶望的な状況でも、誰かが作り上げた世界なら、どうとでもハッピーエンドに捻じ曲げることができるのに。なぜ、わざわざお涙頂戴の結末に作り上げる必要があるのか。
やはり、人類の大半は悲劇のヒロイン症候群に疾病しているのだ。
主人公に自分を重ねて、どうしようもできない環境に身を置いている気になる。
自分では何も変えることができない現状に絶望し、打ちひしがれる。
現実ではありえないであろう状況も、創作の世界ならばよくある出来事に書き換えられる。
一人ではなかなか感傷に浸れない。憐みの心を、慈悲を、自分に向けられない。そんな人を救うのが、創作の世界だ。
悲しい映画は、見終わった後にも心に深い爪痕を残す。そんな爪痕をなぞって、今度は自分の感傷に浸るのだ。
失恋ソングは言うまでもない。自身の恋愛事情を重ねて涙するもよし、歌詞の登場人物。MVの背景に心ゆだねて涙するもよし。ただ、映画と比べると曲というのはタイムパフォーマンスがいい。悲しい曲調、メロディが鳴り始め、聴く者の耳に届いた瞬間から感傷に浸れるのだから。誰しも一度は経験したことがあるのではないだろうか。
曲の始まり。すなわち物語のはじまり。胸が一気に高ぶって、すーっと落ちていく感覚。そのまま委ねてみると、底の底まで落ちることができる。真っ暗で、でもまだ光はあって。
その光に近づきたいのに、近づけない虚しいようなそんな感覚。
私が伝えたいこと。なんとなくわかっていただけただろうか。
人は自分を憐れみたい生き物なのだ。だけど、自分だけではどうしてもリミッターというか深いところまでいけないような壁があるのだと思う。そんな壁をただの段差にしてしまうのが創作物だ。
創作物に頼らなくたっていつでも自分を憐れんでいいと思う。
憐れみたいときにそっと、あなたを支えてくれる人がいることを私は望む。笑わずに、抱きしめてくれる。そんな人が。