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神様からのギフト、なんて死んでも言わない —— 配られた歪なカードで、人生を主宰するまで

    序章 光なき街のディーラー —— 白杖のリズムで刻む、僕の現在地

    光は戻らなかった。
    だが、絶望に浸る暇もないほど、僕の毎日は忙しい。

    45歳になった僕は今、白杖を手に街を歩いている。

    杖の先がアスファルトを叩く硬質なリズム。
    背中に受ける春の陽光の頼りない熱。
    そして、通り過ぎる車のエンジン音。
    そんな感覚の断片を編み上げながら、僕は「言葉」という道具を介して、
    日々多くの人と向き合っている。
    専門職としての役割を全うするために。

    人生をトランプのゲームに例えるなら、
    僕の手札に使い勝手のいい強カードなど一枚もなかった。
    数字が欠け、角の折れた歪(いびつ)なカードばかり。
    中でも「視覚障害」という一枚は、ひときわ大きく、重く、扱いに困る代物だ。

    今の僕にとって、障害はただの障害であり、不自由はただの不自由でしかない。
    これを「神様からのギフト」だとか「成長の糧」なんて、綺麗な言葉で飾るつもりはない。
    本音を言えば、最初からもっとマシなカードを引きたかった。

    嘆く時間は、とうに過ぎた。

    どれほど呪おうと、手元にあるカードで勝負を続けるしかないのだ。
    今は、この歪な手札をどう切り、どう場を支配するか。
    そのヒリつくような駆け引きに、ある種の面白ささえ感じている。
    自分なりの楽しみ方を学び、時には場を回すディーラーとして、
    ゲームを主宰できるまでになったのだ。

    これは、光を失った男が泥臭くあがき、
    自分にしか見つけられない最強のレアカードを創り上げてきた記録である。

    そう、僕がここで伝えたいのは、奇跡の逆転劇ではない。
    泥まみれの手札を捨てられずに立ち尽くしているあなたに、
    「そのカード、こうやって持てば意外と指が疲れないよ」と、
    手の内の見せ合いをしたいだけなのだ。


    第1章 生まれた瞬間、ゲームは始まっていた

    1981年3月3日。

    誕生の喜びは、すぐに凍りついた。
    緑内障が僕の視力を奪おうとしていたからだ。

    生後3日目にして最初の手術。それ以来、僕の瞳には何度もメスが入ることになる。

    高い眼圧に押し広げられた僕の眼球は「牛眼(ぎゅうがん)」となり、
    3歳で左目は網膜剥離を起こし萎縮した。
    左右は歪(いびつ)になり、右目の視力はわずか0.03。
    人の顔の輪郭を捉えるのが精一杯だった。

    それでも、泥だらけになって遊ぶ友達との時間は、
    幼少期の僕にとって何事にも代えがたい居場所だった。

    だが、その日常は小学一年生を前に、残酷に断絶する。

    「……違う学校に行く人とは、もう遊べないんだって」

    近所の橋の上、友達が放った一言。
    それは6歳の僕にとって、暴力的な衝撃だった。
    自分一人だけが世界から切り離された感覚。
    僕はその場から逃げ出すように走り、台所に立つ母に怒りをぶつけた。

    「なんで僕ばっかり、こんな目なんだよ! 友達と遊べなくなるなんて!」

    泣き叫ぶ僕を強く抱き寄せ、母は震える声で絞り出した。

    「……お母さんが、代わってあげられればいいんだけどね」

    その瞬間、僕の中で何かが止まった。

    母に、世界で一番言わせてはいけない言葉を言わせてしまった。
    自分の弱さが、一番大切な人を傷つけた。
    その罪悪感が、子供ながらに僕の背筋を貫いた。

    「もう、この目のことで泣き言は言わない」

    以来、僕は心の中に一本の境界線を引く。
    「見えないからできないこと」と「自分の意思でやらないこと」を切り分ける線だ。

    「見えない」を言い訳にした瞬間、
    僕は障害というカードに使われるだけの存在に成り下がる。
    配られた手札がどれほど歪でも、どう切るかは僕だけの特権だ。

    僕の本当のゲームは、あの橋の上、母の震える腕の中で始まったのだ。


    第2章 言葉の盾と矛 —— 泥沼の底で掴んだ、クローバーのエース

    盲学校へ入学した僕は、早々に自分の殻へ閉じこもった。

    「おはよう」

    勇気を振り絞った一言に、「喋り方がなまっている」と嘲笑が返ってきた。
    同じ県内の微々たるイントネーションの違い。だが、自信のない僕を萎縮させるには、十分すぎる毒だった。

    言葉は人を傷つける。
    その残酷さを、僕はあまりに早く知ってしまった。

    体力もなく、視力も弱い僕は、格好の標的だった。
    休み時間が怖かった。
    理由なく叩かれ、暗闇に閉じ込められ、友達を乗せた重い台車を引かされる。
    足がもつれれば罵声が飛ぶ。それが、閉ざされた学校での「遊び」だった。

    「学校に行きたくない」

    何度もそう思ったし、実際に口にもした。

    同じ境遇の仲間に囲まれていても、僕の価値はカンナで削り取られるように消えていく。
    手札は泥にまみれ、ボロボロだった。

    そんな日々の中、異質な声が飛び込んできた。
    小学3年生の担任。
    土地の言葉ではない、軽やかな関西弁を操る「おばちゃん先生」だ。

    「あんた、もっと笑わんとあかんよ」
    「いらんこと気にせんでええ。もっと堂々としてな」

    すぐには理解できなかった。
    だが、その響きだけが心に居座った。
    泥沼の中に、温かく力強い手が差し込まれた感覚だった。

    でも、先生は甘えを許さなかった。
    宿題もドリルも、できるまで終わらせてくれない。
    けれど、それは「やらされている」のではなく、
    「向き合われている」という確かな感覚だった。

    「やりなさいよ。あんたならできるんやから」

    呪文のように繰り返されるその言葉は温かかった。
    雨が少しずつ乾いた地を潤すように、僕の内側に染み込んでいった。

    「どうせ無理だ」という自分への呪いが、少しずつ解けていく。

    人は、浴びる言葉で変わる。
    鏡は見えなくても、自分の顔が上がり、前を向き始めているのが分かった。

    どんなに惨めな状況でも、自分の心に置く言葉だけは選ぶことができる。
    それは自分を守る「盾」になり、現状を切り裂く「矛」にもなる。

    クローバーのエース。
    それは、知恵と知識を司るカードだ。

    先生がくれたのは、どんな絶望の中でも「自分への語りかけは自分で選べる」という、
    生涯無敵な「知恵」だった。


    第3章 暗闇へのチェックメイト —— 指先が描く、新しい世界の地図

    1993年12月。中学1年の冬だ。
    人生で5度目となる、右目の手術を受けた。

    当時の視力は0.01。
    世界と僕を繋ぎ止める最後の一本の糸。その糸が今、静かに、そして確実に切れた。

    術後、麻酔の微睡(まどろ)みの中で薄く目を開けたとき、
    視界は深く真っ白な霧に包まれていた。
    眩しさだけがやけに強く、輪郭はどこにもない。

    「時間が経てば、また見えるようになる」

    そう自分に言い聞かせ、僕は再び眠りについた。
    けれど、次の日も、その次の日も、霧が晴れることはなかった。

    光は戻らなかった。
    霧の中に取り残されたような感覚を言葉にするのが怖くて、
    しばらくは誰にも言えなかった。
    けれど、隠し通せるはずもない。
    歩き方、物の探し方。
    ほんのわずかな挙動のすべてが、見えない世界に放り出されたことを雄弁に語っていた。

    現実を認めるのは、これまでの自分を一度バラバラに解体し、
    ゼロから作り直すような、気の遠くなる作業だった。

    そして、僕の生活は一変した。

    点字での読み書きや、白杖を使った歩行訓練。
    特に点字には苦労した。
    指先でなぞっても、ただの「ザラつき」にしか感じられない。
    一文字を判別するのに、30秒以上かかった。

    「なぜ、こんなにできないんだ」

    指先の鈍さに苛立ち、自分の無力さに嫌気がさした。
    それでも、投げ出すことはなかった。

    「あんたならできる。やりなさいよ」

    あの小学3年生の担任の先生の声が、耳の奥で鳴り響いていたからだ。

    諦めずに指先で点を追い続ける。
    最初はただの無機質な突起でしかなかったものが、やがてかすかな個性を持ち始める。
    配置、間隔。
    ある瞬間、それらが「文字」となって意味が立ち上がる。
    小さな点の集まりが、ようやく僕の指先で言葉になった。

    視覚という太い回路が閉ざされた代わりに、
    言葉、知識、そして知性へとアクセスするための、指先という「新たな回路」が開通した。

    霧の中に、確かな道が一本通った瞬間だった。

    同時に、僕は自分の肉体とも向き合い始めた。

    かつていじめの標的だった虚弱な少年は、中学2年生で陸上競技に出会う。
    種目は短距離走。
    伴走者と一本のロープで繋がり、全速力で駆ける。

    風を斬る音、タータンを蹴る振動。

    コンマ一秒の世界で、自分の成長が数字として刻まれる。
    それは、失った視力を悔やむ日々からの脱却だった。
    地面を蹴り出し、ゴールを駆け抜けた時の空気の震えが、
    「自分の足でここまで来た」という実感を魂に刻みつけた。

    「堂々とする」とは、単なる強がりではない。

    光を失っても、研ぎ澄まされた感覚を信じ、次の一歩を自力で踏み出すことだ。

    その時、失明という最悪のカードは、僕の中でどんな局面をも打開しうる「ジョーカー」へと姿を変え始めた。

    最強のカードは、いつだって最悪の顔をしてやってくるのだ。


    第4章 承認を捨て、意志を握る —— 誰のせいにもしないと決めた、15歳の夜

    1996年。15歳の僕にとっての戦場は、いつも自分と世界の境界だった。

    点字を操り、白杖一本で電車を乗り継ぐ。
    どこへでも行けるという全能感と、
    見えないという理由だけで特別視されることへの苛立ち。
    その二つが、心の中で激しく火花を散らしていた。

    当時の僕は、晴眼(せいがん)の同年代と同じ空気を吸うことに、
    異様なほど執着していた。
    他校の生徒とカセットテープを交換し、交流会に顔を出す。
    無理やりにでも世界を広げようと必死だった。

    だが、そこには常に、分厚く透明な壁が立ちはだかっていた。

    ある交流会でのことだ。
    場を盛り上げようと、僕は女子生徒に冗談めかした軽口を叩いた。

    「なんか喋り方がカトちゃんみたいだね(笑)」

    最高に面白い、という意味で伝えたつもりだった。
    なのに。
    瞬間、空気が凍りついた。

    「あ、滑った」と理解するのと同時に、猛烈な羞恥心が全身を焼いた。

    相手の顔が見えない僕は、彼女がどんな表情をしたのか、
    周りがどんな目線で僕を見たのかがわからない。
    ただ、沈黙という「色」のない重圧だけが、津波のように押し寄せてきた。

    晴眼の高校生たちが共有している流行、目配せ、ファッション、
    そして適切な「いじり」の加減。
    教科書には載っていないその微細なマナーが、僕には致命的に欠落していたのだ。
    普通の高校生が積み上げてきた「対話の経験値」が、決定的に不足していたのだ。

    そんな鬱屈を吹き飛ばしてくれたのが、柔道だった。

    地元の高校へ出稽古に行った初日。
    組み合った刹那、僕の体は宙を舞い、背中は畳を叩いていた。鮮やかな一本背負い。

    「……上手い」

    悔しさより先に、感動が突き上げた。
    道場の黒帯たちは、僕が見えるかどうかなんて一ミリも気にしなかった。
    組めば容赦なく投げ、技が決まれば共に称える。

    そこには同情も遠慮も、視力の有無も関係ない。
    ただ、柔道の理(ことわり)だけがあった。
    僕は人生で初めて、この畳の上で「対等な一人」になれた気がした。

    この熱を抱いたまま、僕は担任に告げた。
    「普通の大学へ行って、英語を学びたい」

    しかし、返ってきたのは冷徹な拒絶だった。
    「英語なら家でもできる。今の君の力で行く意味があるのか」

    さらに追い打ちをかけるのは、学費という現実の数字。
    実家の経済状況を考えれば、数百万円の捻出は絶望的だった。

    最後の面談を終えた夜
    家に帰った僕は実質に駆け込んだ。
    。そして、心の整理がつかないまま窓を開けると、川のせせらぎとカエルの合唱が響いていた。
    妙に蒸し暑い夜だった。

    「無理なんだな」

    暗闇にこぼした言葉は、誰に届くこともなく消えた。
    けれど、その静寂の底から、もう一つの声が湧き上がった。

    「——だったら、自分で稼いで行くしかないか」

    諦めたのではない。戦い方を変えただけだ。

    誰のせいにもしない。誰に頼るでもない。
    自分の金で、自分の足で、望む場所へ立ってやる。

    それは、あれほど拒絶していた「マッサージ師への道」というレール。
    僕にとって「敗北の証」でしかなかった盲学校高等部専攻科への進学を、自らの意思で選択した瞬間でもあった。

    その夜、僕は他者からの承認を欲しがる幼い自分を捨てた。

    代わりに、人生というテーブルに「ハートのエース」を叩きつけた。
    それは誰かに愛されることを願うカードではない。
    自分自身を信じ抜き、運命をねじ伏せるための、熱き意志のカードだ。


    第5章 指先で命を解剖する —— 奪われない専門性という、最強のスペード

    1999年4月。僕は盲学校の高等部専攻科理療科へと進学した。

    理療(りりょう)とは、あん摩マッサージ指圧、はり、きゅうを総称する言葉だ。
    日本では古くから視覚障害者の自立を支えてきた伝統ある職業であり、全国の盲学校に3年間の職業教育課程が置かれている。

    大学進学という夢に破れた僕にとって、そこは不本意ながらも選ばざるを得なかった
    「敗者のシェルター」に過ぎなかった。

    そんな投げやりな気持ちで足を踏み入れた場所で、
    僕は人生を根底から変える学問に出会う。

    解剖学、そして生理学。

    人体の構造を紐解き、生命のメカニズムを解き明かす。
    その緻密な世界に、僕は一瞬で魅了された。
    知識が単なる文字ではなく、立体的な構造体として脳内に組み上がっていく快感。
    教科書では飽き足らず、分厚い専門書の深淵へと手を伸ばし続けた。

    その熱が結晶となったのが、医科大学での解剖実習だった。

    実際の人体標本に触れる。それは本で学ぶことを超えた、凄まじい情報の奔流だった。
    今でも、あの肝臓に触れた瞬間の衝撃を、指先が覚えている。

    掌(てのひら)に乗せた時の、ずっしりと重厚な生命の重み。
    美しく、計算されつくしたような巨大な楔形(くさびがた)。
    表面を走る独特な凹凸と、感じたことのない弾力。

    「これが、人を生かしている質量なのか」

    見えないはずの世界が、指先を通じて三次元の地図として鮮烈に立ち上がる。

    血管の分岐、神経の繊細な走行。
    脳内に描かれた地図をなぞりながら、教授の矢継ぎ早な問いに必死に答えていく。

    「……君、よく勉強しているね」

    たった一言だった。けれどその一言が、僕の魂に火をつけた。

    (自分は、この分野で、この知の世界で通用するかもしれない)

    2年生になる頃には、周囲から教員を目指してみないかと勧められるようになった。
    ただ、この学問をさらに深く究めたい。その一心で、教員養成施設への進学を決意した。

    だが、ここでも現実は簡単には微笑まなかった。

    3年生。学校からの推薦を受けて挑んだ最初の試験は、あえなく不合格。
    残された時間は、わずか2ヶ月。

    浪人はしない。落ちたら、自分には適性がなかっただけだ。

    眠っている時間以外、すべての意識を受験勉強に注ぎ込んだ。
    解剖図譜の凹凸を指でなぞり、細胞の生命活動をイメージし続ける、
    狂気にも似た没頭の日々。

    そして——合格。

    東京へ向かう東北新幹線、窓の外は見えない。
    けれど、座席に体を預けた僕の胸中には、かつてないほど鮮やかな景色が広がっていた。

    「絶対に、この場所で本物になってやる」

    握りしめた手札は、誰にも奪われない専門性という「スペードのエース」。

    不安を燃料に変え、期待を意志に変え。僕は日本の中心、東京という舞台へ、力強く足を踏み出した。


    第6章 四畳半の熱狂、5000円の授業料 —— 摩擦のなかで、僕のダイヤは磨かれた

    2002年。21歳の僕は、東京デビューを果たした。

    都内のアパート、四畳半一間。
    壁は薄く、家賃は6万円。
    当時の実家の経済状況を思えば、よくぞ送り出してくれたと思う。

    その四畳半は、いつの間にか仲間たちのたまり場になっていた。

    九州出身の友人がいたこともあり、冬はよく水炊きを囲んだ。
    カセットコンロの火を囲んで、男が5、6人。
    安い焼酎を割りながら交わされる会話は、驚くほど濃密だった。

    「その実験結果、エラー値じゃないか?」
    「被験者が足りないと、統計の有意性が出ないだろ」

    専門的な議論を真顔でぶつけ合ったかと思えば、
    次の瞬間にはどうでもいい馬鹿話、好きな女の子の話、
    テレビ番組の話で笑い転げる。

    あの狭い部屋には、確かに「熱」があった。
    自分の知らない世界を持っている人間が、こんなにもいる。その事実に圧倒されながら、僕は必死に食らいついていた。

    とはいえ、東京という街は優しさだけではできていなかった。

    ある日、道に迷っていた僕に、年配の女性が声をかけてきた。
    「案内してあげるわよ」
    「助かります。駅まで行きたいんです」

    お願いすると、彼女は「その前に、ちょっと家に寄ってもいい?」と続けた。
    断りきれずについて行った先で、玄関を潜った瞬間、強烈な猫の尿の匂いが鼻を突いた。

    30匹近く飼っているらしい。
    足元を何かがすっと横切り、手にふわりと獣の毛が触れた。

    「猫の餌代が足りなくてね。少し、貸してくれないかしら」

    一瞬、頭が真っ白になった。
    案内してもらっている弱み、帰り道が分からない不安。
    複雑な感情が絡み合い、僕は財布から5000円札を取り出していた。

    1週間分の食費が消える。
    連絡先を聞くことすら怖くて、
    「また見かけたときでいいですよ」と震える声で取り繕った。

    だが、腹の中では一ミリもそんなことは思っていなかった。
    「ふざけるな、僕の大切な5000円を返せ!」

    心の中で、誰にぶつけることもできない怒りが爆発する。
    当時の僕にとって、5000円はハンバーガーなら80個は買える大金だった。
    見えない不安に負け、「いい人」を演じてしまった自分の弱さが、何よりも情けなくて、悔しくて、喉の奥が熱くなった。

    今思えば、あれは自分の手札の主導権を、安易に他人に預けてしまった瞬間だった。

    あの瞬間、僕の感覚はちゃんと警告を出していた。
    「家に寄っていい?」と言われたときの違和感。
    玄関を潜る前から漂う、異様な匂い。
    足元を横切る気配の多さ。
    なのに僕は、その信号をすべて無視した。
    いや、無視したというより、警告に従わなかったという方が正しいかもしれない。
    見えないことへの引け目が、研ぎ澄まされた感覚の声を塗りつぶした。5000円は、その代償だったのかもしれない。
    2004年。卒業後、僕は都内の鍼灸専門学校で講師として働き始めた。

    初めての授業。
    28人の学生の視線が、教壇に立った「見えない教員」に一斉に向けられる。
    教室は、表現しようのない微妙な空気に包まれていた。

    まずは自己紹介。
    直後だった。教室のどこかで、ごそごそという音が響いた。

    「誰かは分からないけれど、授業中に物を食べるのはやめてほしい」

    即座に、声が返ってきた。
    「……え、なんで分かるんですか?」

    僕は少しだけ間を置いて、こう返した。
    「だって、美味しそうなチョコレートの匂いがしてきたから……」

    教室に、小さな笑いが広がった。

    言葉と技術、そして研ぎ澄まされた感覚を尽くして向き合えば、壁は超えられる。
    その手応えを、僕は確かに感じた瞬間だった。

    もちろん、未熟さに打ちひしがれることも多々あった。
    けれど、東京で過ごしたこの4年間は、僕の「稼ぐ力」
    そして「いきる力」というダイヤを磨き上げてくれた。

    やはり価値あるダイヤは、強い摩擦によってのみ輝きを増す。
    それが、この街が僕に教えてくれたことだった。


    終章 最強のジョーカーを抱えて —— 歪なカードのまま、最高に面白い明日へ

    2006年、僕は現在の職場に移った。

    それから20年の月日が流れ、45歳になった今。
    僕は改めて、テーブルに並んだ手札を眺めてみる。

    かつてあれほど憎み、呪った「視覚障害」という名のカード。
    それは今も、変わらずここにある。
    けれど、その隣には——自分の足で取りにいったエースたちが並んでいる。

    幼い頃から僕の自尊心を削り続けてきた、左右いびつな眼球。
    20歳のとき、僕は右目を摘出し、両目に義眼を装着した。
    見た目の変化以上に、人生のステージでずっと背負わされてきた重い荷物を、
    ようやく下ろせたような気がした。
    15歳のあの夜、絶望の中で自分と交わした「稼いで学ぶ」という約束は、
    通信制大学で社会学を学び、大学院修了という形で結実した。

    言葉を発することに怯えていた僕は、もういない。
    今の僕は、言葉で誰かの人生に触れる仕事をしている。
    僕の言葉が、もし誰かのしなやかさに繋がっているのなら——
    あの日、関西弁の先生から受け取ったバトンを、ようやく次の走者へ渡せているのかもしれない。
    そう、気が付けば、僕もあの先生に出会ったときと同じぐらいの年齢になっている。

    僕には、二人の娘がいる。
    高校3年生と1年生。
    今は別々に暮らしているけれど、彼女たちと過ごす時間は何事にも代えがたい。

    「今日、学校でさあ……」
    娘たちが弾むような声で話す言葉には、きらきらとした熱がある。

    彼女たちの手元にも、これからきっと、
    配られたカードへの戸惑いや、ままならない理不尽が訪れるだろう。
    父親が視覚障害者ということで、僕には見えない、わからないところで辛い思いをさせてきた。
    あるいは現在進行形かもしれない。

    それでも——僕は、あえてこう願っている。

    「自分の力で、そのカードを輝かせていってほしい」

    僕にできるのは、配られたカードをすべて使い切り、
    誰よりもこの人生を面白がっている背中を見せ続けることだけだ。

    今この瞬間も、
    どうしようもないカードを手にして立ち尽くしている人がいるかもしれない。
    それは身体的なハンデに限らない。毒親、ブラックな職場、経済的問題。
    誰もが望まない手札を握らされて、このテーブルに座らされている。

    配られたカードそのものは、変えられない。
    けれど、そのカードでどう戦うかは、いつだって自分で決められる。
    遊び方は、自分で発明すればいい。
    人生は、案外それでなんとかなる。

    なあんて偉そうなことを書いたけれど、今でも娘の入学式や卒業式、文化祭……。
    その成長をこの目で確認できない寂しさに、ふとカードを握る手が震える夜もある。

    写真に残された彼女たちの晴れ姿を、僕は見ることができない。
    どれくらい背が伸びたのか、どんな化粧を覚えたのか、誰に似た笑顔を見せるのか。
    視覚という、もっとも手っ取り早い確認手段を、僕は持っていない。

    けれど、彼女たちが僕の手引きをしてくれる時の肩の筋肉の厚み。
    語りかけてくる声のトーンの変化。
    ふと近づいたときに薫る、大人びたシャンプーの香り。

    僕は、目で見える情報よりもずっと深く、彼女たちの「生」の輪郭を、指先と鼓膜に刻みつけている。

    その震えさえも、僕のゲームを彩る演出の一部だ。
    白杖を手に、僕はまた一歩、街へ踏み出す。

    カツン、カツンとアスファルトを叩くリズムは、僕の鼓動そのものだ。

    人生という名のゲームは、まだ終わらない。
    いや、ここからが本番だ。
    力強さを増してきた春の陽光に背中を押されるように、僕はまた、アスファルトを叩くリズムを速める。

     
     
    |白杖と整える40代半ばのライフコンディショニング。 視覚障がいを持つ専門職です。 心・金・体の3軸で人生を調律する「ライフコンディショニング」を実践中。 1.心:人間関係の距離感 2.家系管理と投資 3.体:セルフケア。 水・土更新。暮らしを整えるヒントを届けます。

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