
【小説】うたかたの代理人 第3部 第5章(終章)
第3部 幻の春 成年後見人物語
第5章 過ぎ去る春
今日はうららかな晴天。先生に確認してもらった年次報告書を持って、私は家庭裁判所に向かった。 数日前までの華やかさはどこへやら、街路樹の桜はすっかり花を落とし、アスファルトには黒ずんだ花びらの残骸がへばりついている。
カバンの中には整理された報告書、増え続ける1億円の記録だ。通帳のコピーや証券会社の残高証明書が綴じられている。家庭裁判所の後見係受付で書類を提出し、外へ出ると、風が吹き抜けた。見渡す限りの青空が広がっていて、そのままピクニックでもしたいくらいだ。
空の果ては宇宙だ。私は想像する。高度な文明を持つ宇宙人がこの星を見下ろしたら、燃えたり落ちたら死ぬ脆弱なタンパク質の塊である生き物たちが、散りゆく花に心を寄せながら、その裏で、互いに争い殺し合い、使えもしない無機質な紙切れや丸い金属片に執着し、人生のかけがえのない時間を使い切る姿をどう思うだろうか。伊藤さんはもう二度と、桜を愛でることはできない。
私は事務所へと向かう。 伊藤さんは、これからも施設のベッドで静かに眠り、ただ生きていく。弟が海軍病院で死んだことも、自分がかつて誰を愛し、何を誇りにしてきたのかさえも、全て忘却の彼方へ追いやって。
事務所に戻ればまた電話が鳴るだろう。FAXの通知音が鳴り、誰かが自分の正義を求め、あるいは他人の金を求めて、扉を叩く。
私は、それらを無機質な記録に変える、ただのひとりの黒子だ。 伊藤さんの通帳の数字は、来月も何事もなかったかのように増えているはずだ。彼が失った、取り戻せない人生の喜びとは無関係に。
春は逝き、世界は今日も、静かに、そして残酷に回っている。
完