
二度、安定を手放した女
Win95からWindows11へ
以前の私は、
Win95だった。
起動に時間がかかり、
フリーズもし、
ときどき、変な音もした。
でも何より、
「相手を優先しないと危険」
「120%で頑張らないと危険」
というプログラムが、
最初からインストールされていた。
生い立ちを振り返ると、
「相手を優先しないと危険」
というプログラムが
入った理由も、
今なら少しわかる。
教員。
結婚。
離婚。
再就職。
いつの間にか、
生き延びることで
精一杯だった。
無理をすると、
後から
身体と神経が請求書を出す。
ボッタクリバー並みに高い。
ただの人になる少し前、
「もしかしたら、
Win95からWindows11に
仕様変更中なのかもしれない」
ぼんやりそう思った。
でも実際は、
まだ自分が
追いついていなかった。
文章にできるほど、
腑に落ちてもいなかった。
まだWin95のまま、
頑張っていた。
今でも時々、
Win95が立ち上がる。
でも、
前より再起動は早くなった。
「少しワガママで人並み」
という新機能が、
ようやく搭載された。
Win95からWindows11へ。
現在、
仕様変更中につき、
不具合あります。
再起動多めです。
三年間続いた寄せ書き
一年間休職し、
いよいよ今月末で、
二度目の教育公務員退職となった。
そんな節目の時期に、
卒業生と再会した。
現任校で担任をした卒業生だ。
昨年三月に卒業し、
現役で他県の大学へ進学した。
恋人もできて、
キラキラした大学生活を送っている。
浪人の末、
地元の大学で、
どちらかと言えば地味な学生生活を送った私は、
年甲斐もなく、
少し羨ましくなった。
大学生活のこと。
高校時代のこと。
二時間、
楽しく語り合った。
最後に、
二人で写真も撮った。
また一年後に会おう、
と約束した。
彼女は教員志望だ。
これから先、
私の経験も、
少しずつ話していけたらと思う。
退職のことも伝えた。
少し驚いた様子を見せたあと、
彼女はまた、
楽しそうに大学生活の話を始めた。
それがなんだか、
彼女らしくて、
少し可笑しかった。
私は彼女に話した。
三年間担任を続けたけれど、
毎年、
寄せ書きをもらえたこと。
三年の卒業時はともかく、
一年や二年の終わりにも、
寄せ書きをもらえることは、
あまりない気がする。
すると彼女が言った。
「確かに、
一年と二年の時は珍しいと思います」
きっと誰かが、
毎年、
声をかけてくれていたのだと思う。
私は今、
ワンルームの小さな家に住んでいる。
いつか、
もう少し広い、
リビングのある家に住みたい。
その時には、
生徒たちからもらった
三年分の寄せ書きと、
一緒に撮った写真を、
静かに飾りたいと思っている。
ある日の教室
「じゃんけん列車」という、
幼児の遊びがあるらしい。
音楽に合わせて歩き、
出会った相手とじゃんけんをして、
負けたら、勝者の後ろにつながる。
最後には、
一つの長い列車になる遊びだ。
私の子どもの頃には、
なかったと思う。
教員最後の年、
私は高校三年生の担任だった。
受験シーズンになると、
教室の生徒数はぐっと減る。
半分くらいになることもある。
私は言った。
「今日は人が少ないから、
何かレクリエーションでもする?」
彼らは、
入試真っ最中で、
疲労もたまっている。
教室での自習ばかりというのも、
しんどいようだった。
教室で相談が始まり、
「じゃんけん列車」
をやることになった。
必要なとき以外は
使用禁止のスマートフォンを、
生徒が取り出し、
音楽をかける。
「先生も一緒ですよ」
「どんな音楽がいいですか?」
私は迷わず答えた。
「マツケンサンバ」
教室の中で、
じゃんけんが始まる。
気がつくと、
私の後ろには、
男子生徒が
全員つながっていた。
それを見て、
女子が笑う。
いつの間にか、
教室の中に、
一つの輪ができていた。
「ここは、
高校三年生の教室だよね」
私は、
心の中でそうつぶやいた。
まるで、
「ちびくろサンボ」の
トラみたいだ。
みんな笑っている。
卒業式の日。
生徒からもらった
寄せ書きの中に、
こんな一言があった。
「じゃんけん列車、
楽しかったです」
壊れたハンガーラック
私のワンルームの部屋には、
左右の高さがまったく違う、
壊れたハンガーラックがある。
壊れたまま使い続けて、
もう一年以上になる。
バランスの崩れたラックに、
無造作にかけられた洋服たち。
それを見るたびに、
何とかしなければと思いながら、
ずっと後回しにしてきた。
離婚をきっかけに、
私はフルタイム勤務に戻った。
結婚後は、
もうフルタイムで働くことはないだろうと、
どこかで思っていた。
それなのに、
気がつけば二十年ぶりのフルタイム勤務が始まっていた。
久しぶりの現場は、
浦島太郎になったような気分だった。
勤務先は遠く、
経験者という理由で、
いきなり担任からのスタート。
身体はついていかない。
疲労ばかりがたまっていく。
私はきっと、どこかで
ホッとする瞬間を求めていたのだと思う。
もともと洋服は好きだった。
ただ、結婚していた頃は、
どこか控えていた。
休日に街へ出ると、
目に入るのは、
きれいに並べられた洋服たち。
体型的に既製服がぴったり合うことも多い。
「お似合いですよ」
その一言で、
気持ちが、ふっと緩む。
「これ、いただきます」
そんなことを繰り返しているうちに、
部屋は洋服であふれていった。
自分でも、
収拾がつかなくなっていた。
そして気づけば、
ハンガーラックは、
その重みに耐えきれず、
片側だけ傾いていた。
私はそれを直すこともせず、
ただ、
そのまま使い続けていた。
見て見ぬふりをしながら。
私はもうすぐ、
再び安定を手放す。
先日、
ニトリに行った。
そして、
やっと新しいハンガーラックと収納ボックスを購入した。
ただの買い物かもしれない。
でも私にとっては、
小さな一歩だった。
ただの人の前髪問題
昔から、
前髪をつくらない髪型の女性に、
あこがれていた。
ただ、私はおでこを出す勇気がなかった。
ああいう髪型は、
テレビの中の、
きれいな女優さんがするものだと思っていた。
だから長い間、
前髪を切りそろえた髪型を続けていた。
さすがにこの年齢になって、
自分で前髪を切る勇気もなく、
美容院で整えてもらっていた。
しかも、
私はやたら髪の毛が伸びるのが早かった。
仕事が忙しく、
美容院に行くのもおっくうになる。
前髪が目に入りそうなのを、
二週間ほど我慢して、
やっと美容院へ行く。
そんなことを、
ずっと繰り返していた。
五年ほど前、
ふと思った。
「いっそ、このまま伸ばしてしまおう」
それ以来、
前髪のない生活が始まった。
最近、気づいた。
美人だけに許される髪型だと、
ずっと思っていたものを、
私はもう、
五年も続けている。
しかも、
案外、
誰も気にしていない。
ギャラリーのシャッター
結婚していた頃、よく通っていたギャラリーがあった。
元夫が美術品が好きで、私も好きだったから、休日になると一緒に足を運んだ場所だ。
そこは、いわゆる高級ギャラリーというより、
卸も扱う少しビジネスっぽい雰囲気のある店だった。
時には作品の箱が積まれていたり、
人が出入りして慌ただしかったりもした。
でもそれが、妙に居心地がよかった。
ギャラリーのご主人はとても気さくな人で、
コーヒーを出してくれたり、
時計や車の話をしてくれたりした。
ただ、その空間が好きだった。
離婚してからは、
そのギャラリーに行くこともなくなった。
そして先日、ふと思い出して
久しぶりにその場所へ行ってみた。
シャッターが閉まっていた。
そのシャッターには、
スプレーで落書きがされていた。
一瞬、場所を間違えたのかと思った。
でも、間違いなくあのギャラリーだった。
その場でスマートフォンを取り出し、
夢中で調べた。
なかなか出てこなかった。
そして、今年に入って破産手続きが始まっていたことを知った。
あの時の空間も、
あの人も、
もう戻らない。
そう思った。
ギャラリーのシャッターの前で、
私は立ち尽くしていた。
一か月後、またふと思い出して
再びそのギャラリーの前へ行った。
ギャラリーへの階段を閉ざしていた
落書きされたシャッターは、
昔のように開けられていた。
ギャラリーのあった二階を見上げた。
ギャラリー名が書かれていた大きな窓には、
電話番号が書かれた不動産屋の貼り紙がされていた。
あのギャラリーの社長とコーヒー
あれから気になって、何度もギャラリーの前を通った。
一階には機械式の駐車場があるのだが、昔とは管理会社が変わっていた。
ギャラリーへ続くシャッターは開いている。
しかし、私の思い出が詰まった二階の元ギャラリーは、相変わらず不動産屋の貼り紙が貼られたままだ。
新婚旅行でニューヨークへ行った。
そこで、当時流行っていた版画家ヒロ・ヤマガタの作品を扱うギャラリーに入り、私たちは初めて作品を購入した。
ニューヨークから空輸されてきた時のことは、今でもよく覚えている。
そこから、このギャラリーを見つけ、時々お邪魔するようになった。
社長さんはとても気さくな方で、若い私たちに分割でたくさんの作品を譲ってくれた。
「この作品、いいですよ」
無造作に積まれた箱の中から、作品を出してくれる。
黄袋から現れた作品を、私たちはじっと見る。
素敵な作品の場合は、お互いの顔を見ながら、
「これだよね」
とうなずく。
「これを譲っていただけますか」
社長さんはニヤリと笑って、
「どうぞ」
と言ってくれる。
コーヒーを飲みながら世間話をすることも、ギャラリーへ行く楽しみだった。
ギャラリーでいつも出してくれたコーヒーカップの図柄を、私は今でもはっきりと覚えている。
美術品卸もしていたため、不在の時も多かったが、お店にいる時は、いつも歓迎してくれた。
そんな社長さんも、今の私より若い年齢で亡くなっていた。
私の離婚の少し前だったと思う。
知った時は驚いた。
あのギャラリーでは、ピカソ、シャガール、ミロの作品にもたくさん触れた。
そして、長谷川潔、浜口陽三、清宮質文という作家を知ったのも、社長さんのおかげだ。
特に私は、今でも清宮質文の作品に惹かれる。
夜や孤独の空気がある作品だった。
離婚の時に、残念ながら作品はすべて手放してしまった。
その頃は奥様が社長さんになっていたが、すべて買い取っていただいた。
いつか清宮の作品は、もう一度手に入れたい。
もう少し広い家に引っ越して、コーヒーを飲みながら鑑賞したい。
サカナクションの
「バッハの旋律を夜に聴いたせいです」
を聴きながら。
そしてまた、あのギャラリーで社長さんにこう言いたい。
「この作品を譲ってください。
今度は現金一括です」
39年ぶりのふるさと
昨年、
母と一緒に、
私の出生地である
北海道のある町を訪れた。
39年ぶりだった。
祖母が亡くなる前に、
家族で見舞いに来て以来である。
母は以前から、
「自分が高齢で動けなくなる前に、
もう一度兄弟姉妹に会いたい」
と言っていた。
だから、
母を連れて行くことにした。
JRも廃線となり、
札幌からは
3時間近くバスに揺られる。
叔母の家の近くの
バス停に到着した。
最初に、
私がバスを降りた。
叔母は、
私のことが
すぐにはわからなかったようだった。
翌日、
叔母と一緒に、
母の生家を訪ねるため、
再びバスに乗った。
途中の街並みは、
39年という時の流れが、
そこにあった。
週末になると賑わっていた商店街は、
ほとんどの店のシャッターが下りていた。
無人になった家も多い。
取り壊されることなく、
そのまま残されている。
使われなくなった学校や公共施設も、
建物だけがそこにあった。
日本海側特有の曇天が、
その寂しさを、
さらに際立たせていた。
長い間無人になっている
母の生家も、
かろうじて
建物は残っていた。
屋根の一部が、
冬の雪の重みで
崩れ落ちていた。
母は黙って、
生家の写真を
撮っていた。
バス停に戻り、
帰りの時間を確認すると、
次のバスは、
3時間後だった。
母、叔母、私の三人で、
歩いて帰ることにした。
左は山。
右は海。
日本海沿いの国道を、
三人で
ゆっくり歩いていく。
車は通り過ぎていくが、
誰ともすれ違わない。
熊に出会うのではないかと、
私は少し、
ひやひやしていた。
そのとき、
山の方に
巨大な生き物を見つけた。
驚いて、
私は思わず大声をあげた。
よく見ると、
鹿だった。
しっかりと
目も合ってしまった。
鹿はすぐに、
山へ駆けていった。
奈良や宮島の鹿しか知らない私には、
最初、
熊に見えた。
叔母の家に帰るまで、
出会った人は、
街中に入ってからの
数人だけだった。
私は母を北海道に残し、
数日早く
帰ることにしていた。
最終日は、
空港へ向かう前に
サッポロビール園へ寄った。
普段、
ビールは
あまり飲まない。
でも、
北海道限定の
「サッポロクラシック」
だけは別だ。
39年ぶりの故郷で、
最後に飲んだ。
ビール園で
バスを降りた瞬間、
目の前に
小さな虫が大量に飛んでいた。
白いダウンジャケットは、
あっという間に
黒い斑点だらけになった。
「雪虫」というらしい。
名前は素敵だが、
実際は、
おしりに綿毛のある
べたべたした小虫だ。
「雪虫」は、
初雪が近いことを知らせる
「冬の使者」
だという。
雪虫は、
少し面倒だった。
でも、
「冬の使者」
という言葉だけは、
北海道らしかった。
ただの人になってもうすぐ一か月
ただの人になってもうすぐ一ヶ月
いまだに、
何も今後のことが決まっていない。
焦りや不安が、
渦巻く毎日だ。
でもなぜか、
街を歩いていて感じるのは、
心からの解放感だった。
まわりの景色が、
今までと少し違って見える。
フルタイム勤務だった頃は、
朝起きて、
口に詰め込むだけの朝食を済ませ、
慌てて家を出た。
職場に着くと、
昼まで自席に座れない日もあった。
疲れているのに、
それを感じないふりをして、
毎日をやり過ごしていた。
今は、
朝ゆっくりできる幸せを、
少しかみしめている。
昨日は、
ただの人になってはじめて、
所用で県外へ出た。
疲れはしたが、
なぜか心は軽やかだった。
大好きな551蓬莱の豚まんを買った。
親子連れでにぎわう、
連休中のデパートの屋上。
パンダのベンチに座って、
一人で豚まんを食べた。
晴天で、
風が気持ちよかった。
去年は、
休職していたことを、
両親にも、
まわりの人にも、
心配をかけまいと黙っていた。
夜遅く、
新幹線で名古屋に近づくころ、
私は少しほっとしていた。
もう、
誰にも嘘をつかなくていいのだと思った。
帰り道、
蛍の光が流れる大型スーパーで、
安いラクトアイスのソフトクリームを買った。
心も体も、
爽やかな甘さに包まれた。
少し疲れていた。
でも、
悪くない一日だった。
本当は三度、安定を手放した女
私は「二度、安定を手放した女」と名乗っている。
でも、本当は三度だ。
一度目は、結婚を機に教育公務員を辞めたこと。
二度目は、結婚生活二十年目の離婚。
そして三度目は、離婚後に再び就いた教育公務員を、この春に辞したことだ。
退職してすぐ、
思いもよらない出来事があった。
慎重に退職準備をしていた私は、
パニックになった。
当分這い上がれないと思ったほどだ。
そこで、退職理由が私と似ている知人に相談した。
「ひかりさんは、
すぐに物事を決めつけてしまう
悪いクセがある」
と指摘された。
最初は、
「私だって一生懸命生きているのに」
と人生を否定された気持ちになった。
今思えば、
こんなことをかなり年上の私に伝えるのは、
きっと勇気がいったはずだ。
私はかなり慎重な性格で、
いつもリスクを考え、
先回りして、
早めに結論を出そうとするタイプだ。
そして一度決めてしまうと、
確かにそこから結論を変えないことも多い。
その一方で、
慎重なわりに、
60歳手前で思い切って退職を決意し、
こうしてエッセイを書きながら
新しいことを始めようとしている自分もいる。
そう、
私は「慎重な行動派」なのだ。
慎重と行動派は、
相反する言葉だ。
私の中には、
いつもこの二つの相反する感情が入り混じっている。
その振れ幅に、
私はずっと疲れていたのかもしれない。
だから私は、
「7割で生きる」
と決めた。