
移住三か月で乳がんになった話
移住して、三か月だった。
生活は、まだ整っていなかった。
仕事は、内地でも経験のある体を動かす仕事。
契約社員ではあるけれど、仕事内容的に大きな不安はなかった。
住まいは会社の寮で、家賃は月2万5千円。
収入は月15万円ほど。
余裕はないけれど「何とかなる範囲」だと思っていた。
通院も年1回の定期検査だけだった。
移住から2か月半ほど経った4月中頃、
沖縄で受けた検査で状況は一変した。
「がん細胞、出たね」
その瞬間、頭に浮かんだのは治療のことではなかった。
お金だった。
仕事はどうなるのか。
このまま働けるのか。
働けなければ、収入は止まる。
寮は会社のものだ。
仕事を失えば、住む場所もなくなるかもしれない。
治療費はいくらかかるのか。
入院したら、いくら必要になるのか。
何も分からなかった。
生命保険にも、がん保険にも入っていなかった。
次に治療のことも考えた。
どんな薬なのか。
どんな副作用が出るのか。
どう対応していくのか。
看護師さんから資料をもらって、目を通した。
抗がん剤が始まる前に、
アイスやゼリーを買い込んだ。
冬瓜を煮て、
寒天を作った。
何も分からなかったけれど、
準備だけはしていた。
抗がん剤の前半4回は、思っていたより平気だった。
点滴の日は体が動いた。
帰りにマクドナルドを買って帰れるくらいの余裕があった。
「これなら何とかなるかもしれない」
変化が出たのは2日後だった。
だるさと熱っぽさ。
身体が重い。
免疫を落とさないための注射も打っていたが、
どこまでが影響かは分からない。
ただ、確実に体は変わった。
フルーツを剥いて食べる。
冬瓜のコンソメ煮を冷たくして、少しずつ口に運ぶ。
一度に食べられないから、回数を分ける。
最初の頃は蕎麦を茹でて食べることもできた。
でも、料理はできなかった。
外にも出られない。
歯磨きさえつらい。
口の中が荒れて、舌がピリピリする。
舌苔で真っ白になり、触れるのも怖かった。
生活は、確実に縮んでいた。
後半の抗がん剤は、同じ治療ではなかった。
副作用は一段階強くなり、長く続いた。
回復に時間がかかり、延期になったこともある。
回を重ねるごとに、楽にはならなかった。
舌は真っ白になり、
舌ブラシやジェルで洗うにも、副作用が抜けてからでないと無理だった。
7日ほど動けないことが続き、
最後の8回目は10日近く動けなかった。
宅配スーパーを使うようになった。
一日の大半は、寝たり起きたりを繰り返す。
ただ耐える時間が増えていった。
生活は、さらに縮んだ。
手術は最初から決まっていた。
抗がん剤のあと、全摘。
リンパ節も一部取る。
術後は思っていたより元気だった。
歩けるし、家事もある程度できた。
でも、検査で状況が変わった。
リンパ節には転移があった。
さらに、
背骨への転移の可能性があると言われた。
頭が真っ白になった。
遠隔転移。
ステージIVの条件だ。
体は動くのに、気持ちがついてこなかった。
動悸や息切れが出て、精神安定剤が処方された。
飲む抗がん剤が始まった。
下痢が止まらなくなった。
トイレから離れられない。
外に出ることも難しくなった。
買い物に行くにも、タイミングを見計らう必要があった。
駐車場から部屋までの距離がある。
途中でお腹が痛くなって、漏らしそうになることもあった。
この状態では、力仕事は無理だった。
休むしかなかった。
薬は高かった。
一粒8000円を毎日服用する。
毎月、限度額いっぱいまで医療費がかかった。
働けない。
収入は減る。
でも支払いは減らない。
生活費、治療費、社会保険料。
全部同時に来る。
現金が減るたびに焦った。
支払いを待ってもらう相談をするたびに、情けなくなった。
息子の学資保険から借り入れていたが、
返済できず、解約して清算した。
母親として、きつい判断だった。
それでも、
人とのつながりに何度も助けられた。
SNSでつながっていた人たちが、
「お見舞い」として支援してくれた。
現金や食品が届いた。
それで食いつなげた。
化学療法のとき、
ゼリー飲料は命綱だった。
見た目を気にする余裕はなくなった。
化粧もしなくなった。
クレンジングや洗顔料は節約した。
買えないものも増えた。
野菜が高い土地なので、
冷凍や乾燥のものを使うようになった。
バター、チーズ、オリーブオイルは買えず、
油はサラダ油だけになった。
「諦めた」というより、
すべてを一時保留にしていた。
その頃、
「どうせ死ぬし」
そう思うこともあった。
検査の結果、転移はなかった。
飲む抗がん剤は中止になった。
少しずつ、体調は戻っていった。
動けるようになった。
食べられるようになった。
でも、生活は戻らなかった。
収入は戻らなかった。
住まいも、元には戻らなかった。
体は動くようになっていた。
でも、以前と同じように働ける体力は戻っていなかった。
階段を上るのがつらかった。
一日働くと、足がむくんでパンパンになった。
治療が終われば元に戻る、というものではなかった。
6月後半、契約更新はしないと告げられた。
7月末まで働き、
寮は8月初旬までに出るように言われていた。
家賃を払うことで、8月末まで猶予をもらった。
それまでに仕事と住まいを決める必要があった。
まずハローワークに行った。
雇用保険は払っていた。
だから失業手当は出るものだと思っていた。
でも、対象外だった。
働いていた期間や日数の条件を満たしていなかった。
労働基準監督署にも相談した。
残れる道がないか、
制度上どうなるのかを確認したかった。
けれど、結論は変わらなかった。
制度の範囲内という説明だった。
理解はした。
でも、生活のほうは待ってくれなかった。
その一か月、ずっと動いていた。
仕事を探す。
住まいを探す。
内覧にも行った。
でも、借りるところまで進めなかった。
初期費用が用意できなかった。
社会福祉協議会にも行った。
市役所にも行った。
初期費用のために使える制度がないか相談した。
でも、条件は合わなかった。
仕事は決まった。
でも、住む場所がない。
シェアハウスに入った。
それが一番現実的だった。
今は、三か月に一度の通院になった。
薬は続いている。
体は、ほぼ戻った。
でも完全ではない。
手足の強ばりは残っている。
起きた直後や、しばらく動かなかったあと、動き出しが痛い。
一日中立ちっぱなしで動くと、足がパンパンになる。
階段がつらくなる日もある。
「何でもできる」けれど、
「無理はきかない」。
それでも、働けている。
シェアハウスでの生活は、
正直、性格的に楽ではなかった。
それでも、
生活費を抑えられたことで、
治療中に支えてもらった人たちに、快気祝いを送ることができた。
シェアハウスに移る頃には、次の仕事も決まっていた。
同じ業種ではあるが、
より専門性が高く、ルールも厳しい職場だった。
体力仕事だからこそ、
どこで休むか、
どこまでやるか、
自分の中で基準を決める必要があった。
当初、一番怖かったのは、
自由を失うことだった。
生活保護を受ければ、
治療しながら生活はできる。
頭では分かっていた。
でも、不自由になるのは嫌だった。
その感覚は、今も変わらない。
転移や再発の可能性は、これからもある。
でも、
「どうなったら終わりか」ではなく、
「どうなっても、どう生きるか」
を考えるようになった。
闘病は終わっていない。
でも、生活は止まっていない。
今も私は、判断と決断の中にいる。
それでも、自分で選んでいる。
(終)