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劇薬ーーこの土の先にーー #018「継承」

     五月下旬の宵闇。
     
     蓮は丘の上に立っている。
     打ち上げの準備は終わっていた。あとは点火するだけだ。風はない。この時間の空気は意外に涼しい。山の向こうに、かつて小野上と呼ばれた街の灯りがいくつか見える。
     眼前のスマートグラスに、契約書のデータが映っている。最初の依頼人の名前を蓮はいま一度確認して、画面を消した。

     かなめから連絡が来たのは、蓮が会社を立ち上げて間もない頃だった。
     
    「蓮さん、花火葬の会社を始めたと聞きました」
     
     蓮は驚いた。どこで知ったのかと思った。でも聞かなかった。
     
    「はい」
     
    「私も、お願いできますか」
     
     蓮はしばらく黙った。
     
    「もちろんです」
     
    「ありがとう」とかなめは言った。「一つだけ聞いていいですか」
     
    「はい」
     
    「蓮さんは、なぜこれを始めたんですか」
     
     蓮は少し考えた。
     
    「あなたの『劇薬』は日本の様々なことを変えた。どちらかといえば外的な領域が主だったけど、実際は一人一人の心も変えてしまった。そのひとつが死生感だと気づいたんです」
     
    「具体的には?」
     
    「誰かにお参りに来てほしい、ではなく、誰かのための美しい夜の記憶になりたいって人がいることに気づいたんです。自分ではない誰かのために、美しい景色を残して、それを誰かが空を見上げる夜を、作りたくなったんです」
     
     電話の向こうで、かなめがしばらく黙っている。
     
    「それは、僕が沈黙したリョーコさんの問いへの答えかもしれませんね」
     
     蓮はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。でも、胸の奥で何かが動いた。
     
    「土は残せなくても、空には残せる」とかなめは言った。「その夜空を見た記憶が、見た人の数だけ残っていく。蓮さんがやろうとしていることは、そういうことだと思います」
     
     蓮は「はい」と答えた。
     
    「私の命日に、この資金が尽きるまでたくさん上げてください。色々な場所で」とかなめは言った。「誰かに見てほしいんです。私を憎んだ人にも、そうでない人にも。僕を知らなくていい。夜空を見上げる誰かに――」
     

     花火は次々と上がっていく。
     大輪。轟音。遅れて届く振動。光が広がり、散り、消える。
     
     平屋の一軒家の軒先から、一人の老女が空を見上げていた。何も言わなかった。ただその目は光を追っている。
     河川敷では、子供連れの家族が缶コーヒーを持ったまま空を向いていた。子供が「きれい」と言った。父親は頷いたが、何かを考えているようで、しばらく動かなかった。
     高速道路を走る車の中から、助手席の女が窓に顔を寄せた。「あ、花火」と声をかける。運転席の男が「季節外れだね」と答えた。
     介護施設の窓際に、車椅子の男がいた。花火が上がるたびに、目の奥に何かが揺れた。声は出なかった。
     
     それぞれが別々の場所で、別々の思いを持ちながら、同じ空を見ている。誰の花火かは、誰も知らない。
     知らなくていい——。

     蓮は空を見上げながら、心の中で言った。
     
    「世の中をどれだけよりよく進めても、あの土の先に何があるのか、あなたは答えられなかった」
     
     次の花火が上がる直前、その前に上がった花火がパラパラと雨のように、涙のように落ちていく。
     
    「でも今夜、花火を上げることができるのは、あなたのおかげだ」
     
     最後の一発が上がった。夜空に大きな光が咲いて、ゆっくりと消えた。
     
     蓮は、しばらく動かなかった。
     遠くで誰かが拍手をしていた。誰のための拍手か、蓮にはわからなかった。わからなくていい。
     花火は誰のものでもない。空に溶けた瞬間から、見た人全員のものになる。
     その夜空を見た記憶が、見た人の数だけ残っていく。

     蓮のスマートグラスにメッセージが届いた。
     さくらからだった。
     
    「今夜も、きれいだったよ。誰の花火かはわからなかったけど、ありがとう、っていつも思うの。この世はまだまだ大変だけど、生きている私たちにメッセージを残してくれた人たちにありがとう――って」
     
     蓮は、その場ですぐには返信しなかった。
     
     山の向こうの、かつて小野上と呼ばれた場所の灯りが、静かにそこにある。
     かなめが設計した居住区の中心地。地熱で動く街。土地は変わっても、その土地が作ったものを生き延びさせようとした人間の意志が、灯りになっている。
     
     リョーコさんの問いに、かなめは答えられなかった。
     
     でも蓮は、空に答えを上げることができた。
     土は残せなくても、空には残せる。毎年、命日に、誰かがあなたの花火を上げる。その夜空を見た記憶が、見た人の数だけ残っていく。
     
     それでいい。

     暗転した真っ暗闇の夜空を見ながら、蓮は思い出していた。
     あの春は、そしてあんたが倒れたあの春も、いつもと変わらない、穏やかな日だったよな。

    (了)

     
     
    朝刊を待つような、静かな期待を。一晩ずつ頁をめくる高揚感を大切に、新聞連載の形式で物語を綴っています。歴史、ファンタジー、現代——ジャンルは問わず、一人ひとりが抱える「思うこと」と「やりたいこと」を、ハッピーエンドを諦めずに描きます。SNSなき静寂の中で、物語の続きを。

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