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290.泣きながらシェー

    還暦子⁺⁷

    ある朝、小さな女の子が我が家へやってきました。
    それは1967年(昭和42年)のことでした。幼稚園の制服を着せられ、スーツを着たお母さんに手を引かれてやってきました。「では本日より、どうぞよろしくお願いいたします」と言ってお母さんが深々と挨拶をし、家の玄関を出た瞬間から、女の子は泣き始めました。

    わんわん泣きました。初めて連れてこられた家に置き去りにされ、全身で悲しみと不安を表現するような泣き方でした。手にはお母さんに持たされた二本の乳酸菌飲料の瓶の入ったビニール袋を握りしめていたので、私の母がその内の一本のふたをあけて女の子に渡しました。女の子はしゃくりあげながらもそれを飲み、飲み終わるとまたまたわんわん泣きました。

    あんまり泣くので、同じ幼稚園の制服を着た私の弟が笑わせようと思ってイヤミのシェーのポーズをすると、女の子は一瞬泣くのをやめて一緒にシェーのポーズをして、それからまた改めて泣き始めました。それでも弟がもう一度シェーをすると、女の子も息を飲み込むように泣き止んでシェーをしました。そしてまた泣きました。

    母が、そろそろ幼稚園のバスが来る時間だからと、弟と女の子の二人の手を引いて玄関へ向かいました。弟は当時二年保育の下のクラス、女の子はその頃珍しかった三年保育のクラスでした。二人はお揃いの幼稚園の制服で玄関を出て行きました。

    ◇ ◇ ◇

    その女の子は「カッくん」と呼ばれていました(仮名です)。女の子なのになぜ「くん付け」なのかわかりませんでしたが、お父さんからもお母さんからもカッくんと呼ばれていました。

    カッくんの両親はその頃珍しかった「ともかせぎ」でした。私が育った東京の西の郊外の新興住宅地では、ほとんどの家には若い夫婦と小さな子どもがいました。大多数のお父さんは勤め人で、電車に乗って会社に通っており、大多数のお母さんは専業主婦として家事育児に従事していました。私の家も父は勤め人、母は専業主婦でした。

    ごくたまに、おそらく新婚だと思われる子どものいない「ともかせぎ」の家がありました。とはいえ、私が思い浮かべられるのは二軒だけで、あとはどこの家もみんな、乳児、幼児、児童ら小さな子どものいるうちでした。

    そんな中、カッくんのおうちはお母さんも働いている「ともかせぎ」でした。なんでも「ほうむしょう」にお勤めだという話でした。お父さんは「いっきゅうけんちくし」でした。その頃の私は、法務省や一級建築士というものがどういうものか知りませんでしたが、その発音から、なんだかちょっと特別な人なのかな?と思っていました。

    カッくんのお母さんは、カッくんが生まれた後も「ともかせぎ」を続けたいと言うことで、昔、看護婦さんだった近所の村田さんというおばさんの家にカッくんは預けられていたけれど、この度、その村田さんが遠くへ引っ越してしまうことになったので、同じ幼稚園に通っている弟のいる我が家に、カッくんはやってくることになったと聞かされました。

    当時私は小学二年生、三つ年下の弟は幼稚園の年少組、そしてカッくんは弟の一つ年下の三年保育通っていました。あの頃、私の周囲では、幼稚園は二年制が一般的で、小学校に上がる前のクラスを年長組、その下のクラスを年少組と呼んでいました。三年保育は珍しい時代でした。

    ◇ ◇ ◇

    それから約一年間、カッくんは我が家のメンバーとなりました。カッくんのお父さんが自分で設計・建築する家が立つまでの間、カッくんは我が家に預けられることになったのです。

    毎朝、ご両親が出勤途中にカッくんを我が家に手を引いて連れてきて、その後、カッくんは弟と一緒に幼稚園へ行き、そしてお昼過ぎに幼稚園から帰ってくると、我が家で一緒に遊びながらお母さんかお父さんが夕方迎えにくるまで待っていることになりました。

    初日の朝こそわんわん泣いていたカッくんですが、翌日からはケロっとして、毎朝機嫌良く我が家へやってきて、弟と一緒に幼稚園バスに乗って行くようになりました。

    子どもが一人増えて、我が家はますます賑やかになりました。まるで最初から三人きょうだいだったように、私たちは仲良く遊びました。時にはケンカをすることもありましたが、すぐに仲直りして楽しく過ごしました。

    姉の私から見ると、これまでは弟分としての役割だけだった弟は、突然妹分が現れたので、ちょっとだけお兄さんぶるようになりました。そして、おもしろいことに、カッくんは弟を何かと「立てる」のでした。

    例えば、お菓子が配られると、カッくんは弟の分を「さぁどうぞ」と言って渡すのです。三歳、四歳の子どもなのに、まるで夫婦のような振る舞いでした。私は密かにこれはお似合いのカップルだと思っていました。

    当時の私から見たカッくんの印象は、なんと賢い子だろうというものでした。何をするにもまず行動に移す前にちゃんと考えるのです。私からみると四歳も年下なのに、カッくんから学ぶことはたくさんありました。子どもながら私はカッくんを尊敬していました。聡い子というのは、こういう子のことをいうのかと思っていました。

    ◇ ◇ ◇

    カッくんのお母さんは、いつもスーツを着ていました。今でもほっそりした姿に、クリーム色や焦茶色のスーツを着たお母さんが、黒いハンドバッグを腕に下げている姿が目に浮かんできます。腰の低い方で、小さな私たちにも「いつも仲良くしてくれてありがとう」などとひと言かけてくれました。

    これは私の想像で確かめたことはありませんが、おそらくカッくんの預かり賃を我が家は受け取っていたのではないかと思います。ちょっとしたアルバイト感覚で母はこの「仕事」を村田さんから引き継いだのだろうと想像します。たまたま弟と同じ幼稚園に通っている子どもならば、大した手間でもないので二つ返事で引き受けたのでしょう。

    私は時々感じるのですが、昔は今よりももっと子どもは「放ったらかし」に近く、子どもは家の中でというより、その地域で適当に遊んでいたら自然と大きくなっていったように思います。ですから、母は重い責任を引き受けたというのではなくて、気軽に引き受けたのだと私は感じていました。

    実際に、カッくんは丈夫で熱を出すことも怪我をすることもなく、元気に毎日を過ごしていました。私はしょっちゅう熱を出し、弟はよくお腹を壊していましたが、カッくんが具合が悪かったという記憶はありません。カッくんは、丈夫な体質であったかもしれませんが、実に賢い子だったので、色々な点で子どもながら自衛をしていたのでしょう。

    日曜日や祝日などのお休みの日には、いつもとは反対に、私たちきょうだいがカッくんお宅に遊びに行ったりしました。カッくんのお父さんはハンサムな男性でした。うちの父や、近所の誰それちゃんチのお父さんとはちょっと違っていました。なんというか、俳優にでもなったら良いのではないかと思わせるような雰囲気をまとっているのでした。

    大抵の家では、夏の暑い日などは、お父さんはランニングシャツにステテコでその辺りを歩いていましたし、お母さんはエプロン姿で、赤ちゃんをおんぶ紐やネンネコで背中にくくりつけている人が大勢いる中、カッくんのお宅は、お父さんは俳優もどき、お母さんはスーツにハンドバッグでした。

    母はおやつや食事を出す時に、いつも私、弟、カッくんの順に出しました。当時二年生だった私は、それがカッくんに申し訳ないように感じていました。おそらくカッくんのお宅からはお金をいただいているのだろうから、カッくんは我が家としては、お客様として最初に出すべきではないかと心の中で感じていました。

    けれども、それを口にすると、単に年の順に三人きょうだいだからと配っている母の心に戸を建ててしまうのではないかと心配したものでした。母は私がそんなことを思い煩っているとは知らずに、何も考えずに年の順にさっさと配っていたと思います。いい意味でも悪い意味でも母はエコ贔屓なく私たち三人を同列に扱っているようでした。危ないことをすれば、母は私たちと同じようにカッくんも叱り飛ばしました。

    この一年間の我が家の写真には、カッくんも一緒に写っているものが多く、本当に家族のようでした。私たちは日々公園や空き地や用水路などで近所の子たちと一緒に駆け回っていました。

    忘れられない思い出に「首から下げた鍵」があります。私の母は時々何かの用事で出かける時には、我々子どもにリボンを通した鍵を首にかけるように言いました。私たちは学校や幼稚園から帰ってきて母がいない日には、この鍵で家に入り、土曜日には机の上に置いてあるお金でお昼ご飯を買ってきて食べました。母のいない隙に食べる甘食やシベリアは格別な味がしました。

    今思うと、母はよそ様の大切なお子さんを預かりながら、放置状態でした。けれども、当時の私たちは、それはまったくおかしなことだとは思っておらず、三人で冷蔵庫や戸棚をあさって仲良く食べたり、寝転んでテレビを見たり、公園へ出掛けていって鉄棒でぐるぐるまわりをしていたら、首からリボンに下がった鍵が飛び出てきたりという午後を過ごしていました。

    首から鍵を下げていた子は他にも何人もいました。当時「鍵っ子」という言葉がありました。中には、玄関脇の植木鉢の下や、牛乳箱の中に鍵を隠しているおうちもありました。私の周囲には母親が働きにいっている家はカッくんの家しかありませんでしたが、それでも親たちは子どもたちの首に鍵をかけてしばしば出かけていました。

    私たちは三人だけで遊ぶこともあったし、同級生や近所の子どもたちと一緒に、缶蹴りをしたり、縄跳びをしたり、蝋石でアスファルトに字や絵を書いたり、砂利山に登ったりして暗くなるまで外で遊んでいました。困ったことがあれば、その辺の大人に頼ればいいことはみんなわかっていたので、親が出かけていても普段と何も変わりませんでした。

    ずっと後になってから「公園デビュー」という言葉が使われるようになった時、私が子どもの頃には、公園には親の姿などなかったと感じました。子どもの社会には子どもだけのルールがあった最後の世代かもしれません。

    そんなふうに、私はカッくんも本当の家族の一員のように思って過ごしていました。弟とカッくんは実にお似合いのカップルでした。カッくんは弟のあとを追っかけて、世話女房のようにあれこれ世話を焼いていました。

    でも、ある時、あれはクリスマスケーキだったか、お誕生日のケーキだったか、ケーキの上にのっていた蝋でできたお人形をカッくんがこっそり食べようとしていたのを目撃したことがありました。きっと砂糖菓子でできていると思い込んでいたのでしょう。ところが齧ったら蝋人形だったのです。

    人の家に預けられるということは、こういうことなんだと私は大きなショックを受けました。いつも屈託のない笑顔で一緒にいるのに、母にも私たちにも砂糖菓子が食べたいと言い出せずに、カッくんはずっと遠慮していたのだということに気づいた瞬間でした。胸の奥がぎゅっとしました。

    ◇  ◇  ◇

    ある日、カッくん一家は、湘南海岸の近くに引っ越すことになりました。カッくんのお父さんが設計した家が完成したのでした。それは最初からわかっていたことでしたが、実際に目の前からカッくんがいなくなるのは信じられないことでした。

    それでも引越しの日はやってきて、カッくんはそれきり家にはもうやってくることはありませんでした。引越し当日、カッくんの家でトラックを見送ったことを覚えています。

    しばらくして、湘南の新築のお宅に呼ばれました。母と弟と一緒に三人で電車に乗って出かけました。新しいおうちでは小花のついたワンピースを着たカッくんが私たちを迎えてくれました。少しの間会わないだけだったのに、大人びたよう感じられました。

    カッくんのお父さんとお母さん、それに母の三人がティーカップを片手におしゃべりに花を咲かせ始めたので、私たちはいつものように三人で表へ出ました。この日ばかりはカッくんが海の見える方へ行こうと私たちの先導するように歩き始めました。それはすっきりと晴れ上がった午後でした。

    一面、緑色の絨毯を敷き詰めたような草原の中の緩やかな坂道をのぼっていくと、そこに白亜の建物が現れました。それは高い鉄の柵に囲まれた修道院でした。修道院だ…と思いながら進むと、突然、目の前に真っ青な海が現れました。

    緑の草原と白亜の修道院、真っ青な空と青い海。
    すべての音が消えて、極上の風景だけがそこにありました。

    私は、もう残りの人生はすべて、この修道院の中で神に捧げて生きていっても良いと感じました。

    ◇ ◇ ◇

    それからまもなく、カッくんお父さんが亡くなりました。通勤途中、駅の跨線橋の上で高校生数名がふざけたタイミングで、運悪くカバンか何かがカッくんのお父さんにぶつかり、お父さんはそのはずみで階段から転げ落ちて頭を打ち、その後しばらくして入院先で亡くなったということでした。

    カッくんのお母さんは、私の母に電話をかけてきて、お父さんの話をしました。目撃者の証言のよると、高校生たちは気づかずにその場を立ち去ったという話でした。そんな理不尽なことがあるのかと母が泣きながら電話をしていた日のことを私はよく覚えています。

    その後も、カッくんお母さんと私の母は長電話をしたり、年賀状のやり取りを続けていました。カッくんのお母さんは、育ててもらったお礼にと時折お菓子などを贈ってくださることがありました。母はカッくんごと私たちを放置していたのだから本当はお菓子なんていただく理由はないと心の中で思っていましたが、お菓子は私も食べました。

    そして、あの修道院の日から二十数年の月日が流れたある日、母に一通の封書が届きました。それはカッくんの結婚式への招待状でした。

    しばらくして送られてきた結婚式の写真には、確かに面影は残ってはいるものの、輝くばかりに美しい花嫁姿のカッくん、いえ、カスミさんが写っていました。お母さんの留袖姿もありました。自分の設計した家にはほんの数ヶ月しか住むことのできなかった夫亡き後、女手一つでお嬢さんを育て上げた凜とした女性の姿でした。

    その後も、カッくんのお母さんと母の長電話と年賀状は続きました。孫ができた、海外赴任の娘一家に会いに行ったなど、時折消息が私の耳にも届きました。

    ある時、弟の奥さんが「おねえさん、聞いてください。おかあさんったら『夫とカッくんが結婚するものだと思ってた。小さいながらもお似合いだった』なんて言うんですよ。妻の私に向かってひどいですよね〜」と口を尖らせて文句を言ってきたことがありました。私は「それはひどいね〜、デリカシーがないよね」と返しましたが、実は私もそう思っていたとは言わないでおきました。

    母が九十歳になった数年前、実家から老人ホームへ移り、その際長年のお付き合いにお礼を申し上げて、年賀状仕舞いをしました。きっと、カッくんことカスミさんは今もお元気でお過ごしのことと思います。あの日、弟のシェーに合わせて、何度もしゃくりあげながらシェーをしていた小さな女の子ももう還暦を過ぎました。お子さんは独立されて、もしかしたらお孫さんもいるかもしれません。

    ◇ ◇ ◇

    1967年(昭和42年)、仕事を持つ女性がとても少数だった時代、実家や婚家のサポートに頼れなかった女性たちは、このように近隣の家庭に子どもを預けるしかなかったのでしょう。カッくんのお母さん世代は、母と同じ、昭和一桁生まれでした。

    今回、保育園の数の推移を確かめようとしましたが、大抵の統計は1975(昭和50年)以降のものしか見つかりませんでした。なにしろ「保育所保育方針」が当時の厚生省によって定められたのが1965年(昭和40年)でした。カッくんが我が家にやってくる二年前のことでした。

    あれから半世紀以上の歳月が流れ、「保育園落ちた日本死ね!」の投稿によって2016年、保育園の待機児童数が社会問題化しました。しかし、それよりずっと前からカッくんのお母さんのような女性がコツコツと地ならしをしてこられたのだと今改めて思います。

    ◇ ◇ ◇

    あの修道院からどんな風に帰宅したのかは覚えていません。あの風景は間違いなくカッくんと弟と一緒に見ました。けれども私にはあの光景思い浮かべるたびに、あれは「きつねの窓」のような不思議な力が作り出した光景だったのではないかと思えてならないのです。そして、カックンのお父さんは、あの光景の中に吸い込まれたのだと感じています。


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    1959年生。昭和を30年、平成を30年生き還暦を迎えました。令和も30年生きるのかな? 子どもの頃や若い頃の思い出など、私自身が上の世代に聞きたかった何でもない日常のあれこれを綴っています。100回までは毎週土曜日更新しましたが、現在は毎月一度更新しています。

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