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雑12|壱金講座と裸眼ノート

    2026年9月6日
    (敬称略)

     1990年代前半期は、自分にとって、上昇気流と下降気流が重なった時代だった。両気流が入り混じるので、けっこう息苦しくて、呼吸の仕方を工夫しないと先に進めなかった。
     この頃に名古屋の美術評論家としての立場を確立したことは確かである。80年代から続いて地元の毎日新聞の美術欄を担当、それに加えて、1992年からは地元の朝日新聞の美術欄も担当した。異例の2紙同時担当である。同年、名古屋造形芸術短大の教員になり、地方公務員生活を切り上げた。
     公務員時代、市役所の市民課に配属された時などは公私ともに忙しくなり、10円ハゲができたくらいだ。また、ある日のこと、職場の課長を訪れた人が大きな声で話をしていた。〈 公務員なのに原稿料もらって儲けている奴がいるそうだ 〉と。〈 え、俺のこと? 〉と、少しあせったことを憶えている。
     プライベートの時間を使っての活動だし、美術評論の原稿料などはたかが知れているのだけども、公務員には副業の禁止規定がある。それに抵触するのかどうかはグレーゾーンなので、公務員的にはあまり褒められた活動じゃなかった。美術評論家は、後ろめたい裏稼業だったのである。
     で、「渡りに船」の感覚で転職した。おかげで立場的にも時間的にも活動がしやすくなった。しかし、諸手を挙げて喜んだ記憶はない。時代は刻々と変わる。せっかく活動しやすくなったのに、自分の方向性が時代の流れに合わなくなっていたのである。

    1970年代の穴倉文化へ

     文化の享受は楽しいし、悪いことではないが、いつも受け身本位の享受では面白くない。名古屋を活動の足場にした以上、この地に自主独立の気風を育て、創造的な美術活動をしたいと思うのは当然であろう。が、その肝心の足場が崩れていくのが目に見えた。足場とは画廊界隈のことだ。『雑10』で記したとおり、名古屋の画廊の時代は、成熟することなく、終わったのである。美術館等の美術システムが整っていくにつれ、システムに依存する傾向が強まり、せっかく生まれてきた創造的な空気が淀み始めた。『雑10』で、当時を回想して私は次のように記した。
     
    ◆〈『裸眼』の基盤であった画廊界隈の熱気が失われたら、手の打ちようがない。ただし、画廊界隈の失速と心中するつもりはなかった。しぶとく、しつこく、1970年代の穴倉文化に近い意識と活動方法に帰ることで気力を保ち、延命を図った〉(「雑10| あの時代、そして『裸眼』のこと」)。
     
     その延命の方法が、「壱金講座」と『裸眼ノート』である。この時の裸眼メンバーは岩田正人、佐藤英治、鈴木敏春、西島一洋、三浦幸夫、そして私の6人だった。大半のメンバーが「8号室」以来の穴倉文化で育った人物だし、裸眼に途中から参入した岩田と佐藤にしても、穴倉派と共振できる人たちであった。

     この時期の裸眼活動では、岩田と佐藤が重要な役割を果たしたのではないか。というのは、研究会時代以降、打合せは毎回喫茶店などを徘徊してやっていたが、10年以上も放浪を続けていると疲れてくる。岩田が洗心館の使用を全面的に了解してくれて、裸眼は初めて拠点をえたのである。
     また、壱金講座の案内状とか裸眼ノートの出版については、名古屋芸術大のデザイン学部教員だった佐藤に大きく依存した。そして活動終了後に出版物を手製本にまとめてくれたのも佐藤であり、その手製本がなければ、この時期の活動は記憶によるほかなく、この文も書けたかどうか分からない。
     もう1人、講座の常連中の常連だった後藤泰洋(美術家)についても触れておきたい。彼は個人誌のようなミニコミを発行していて、そこに毎回のように講座の様子や内容、感想を書いてくれた。今ではぼんやりしていることも、彼の文を読むとリアルに思い出される。すでに亡くなっているが、生前に感謝の言葉を一言も言っていないのが悔やまれる。  

    「壱金講座」の開設

     1993年、裸眼は、岩田洗心館に拠点を移し、第10号を出した。その内容は「8号室」と「場」の特集であり、70年代文化の検証と、そこからの再出発を意識していた。そして洗心館で講座を開設することにした。その第1報が次の文である。私が起草し、メンバーの了解をえて、各所に送った。
     
    ◆〈 美術雑誌『裸眼』は今年から愛知県犬山市の(財)岩田洗心館に編集室を移し、3月にはめでたく10号を発行しました。これからの『裸眼』は、実に欲の深いことを考えています。まず、2年かけて名古屋を中心にした戦後美術の動きを『裸眼』流にまとめること。その間にも、年4回程度の通信を発行することなどです。
     また、今まで『裸眼』編集者だけだったミーティングを公開形式にし、美術や美術にかかわる事柄に関心のある人なら誰でも参加できるようにしました。毎月第一金曜日に開催ということで、名付けて裸眼「壱金講座」。編集メンバーが講師を担当したり、外部から講師を招くなどして、『裸眼』流の文人墨客の寄り合い、そんな講座にするつもりです 〉。
     
     前向きの文章ではあるものの、当時の私の気持ちはなかなか複雑だった。「文人墨客」という言葉に、周りの状況から距離を置くことで下降気流に流されないようにする、そんな気持ちを込めたつもりである。
     さて、壱金講座の第1回が1993年7月で、最終は1996年10月の第39回。佐藤の手製本のおかげで30回までは講座の概要が分かる。講師名、肩書き、講演タイトル、参加者総数を下に記しておこう。洗心館での展覧会やパフォーマンスなどに合わせて開催することもあるが、その時は参加者が普段より多かったようだ。

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    壱金講座関連記録集 佐藤英治による手製本

      【1993年】
    第1回 佐藤英治(裸眼)「裸の目で見たイタリア美術」 18人。
    第2回 鈴木敏春(裸眼)「開発と美術/エコロジー」 16人。
    第3回 松本沙帆(いけばな作家)「いけばなの私的周辺」 16人。
    第4回 岩田正人(裸眼)「作品論的美術論にむけて」 15人。
    第5回 西島一洋(裸眼/アエッタ)ほか「体現集団アエッタによる夜話会/浅井ますお追悼行為」 23人。 
    第6回 加藤大博(美術家)「名古屋1960年代の美術を語る」 15人。
      【1994年】
    第7回 松本沙帆(いけばな作家)「初春遊戯/香もどき・花もどき・茶もどき」協力/佐藤英治  17人。
    第8回 三頭谷鷹史(裸眼)「聖戦美術を考える」 15人。
    第9回 井上一博(フリーライター)「理論だけでは幸せになれない」 14人。
    第10回 澤田晴委智郎(澤田造景研究所)「体験的戦後愛知文化論」 15人。
    第11回 高橋綾子(学芸員)「パブリックアートへの視点」 26人。
    第12回 水谷勇夫(美術家)「美術と人間」 20人。
    第13回 黒野興起(円空研究家)「円空と播隆/その今日的課題」 27人。
    第14回 岐阜県福岡町の「芸術思考館」において合宿「夏期合宿・朝までフリートーク」 18人。
    第15回 中村幸夫(ブッディスト)「ブッディストのめざめ」 19人。
    第16回 岡田徹(画家)「太平洋戦争と美術をめぐって」 22人。
    第17回 木本文平(学芸員)「場としての美術館」 27人。
    第18回 三頭谷鷹史(裸眼)「公開禁止美術」 24人。
      【1995年】
    第19回 富永佳秀(美術家・書道家)「新春書き初めパフォーマンス 書は本当に固定化された音楽なのか」 29人。
    第20回 坂野俊哉(考古学・古窯研究家)「エコミュージアム/海上の森」 28人。
    第21回 岩田信市(美術家・ロック歌舞伎演出家)「岩田信市的ポップアート」 19人。
    第22回 岩田信市(美術家・ロック歌舞伎演出家)「岩田信市的日本主義」  37人。
    第23回 山田武司(芸術家)「芸術家の現在と21世紀芸術家の責任」 27人。
    第24回 下田尚利(現代いけばな作家)「戦後いけばなが提起したもの」 46人。
    第25回 西島一洋、岡本真紀、Z・Tempohx、河端一、東洋之、榊原大司「パフォーマンス/孑孑彷徨変異」 52人。
    第26回 「休講 メンバーでミーティング」。
    第27回 今村幸生(画家)「美術の超近代をめぐって」 32人。
    第28回 「芸術思考館」で合宿(2回目) インストラクター岡本真紀(アエッタ)による呼吸法を使ってのワークショップ「つくる。みる。くう。そして呼吸する」、その他  21人。
    第29回 「第1部/鈴木朋子によるコスチュームショー 第2部/『鈍牛庵の夜長』展出品作家(有馬かおる、佐伯千佳、鈴木朋子、草壁史朗、山崎千恵)とフリートーク」 44人。
    第30回「メンバーによる壱金講座忘年会」。  

    第31回以後の壱金講座

     最期に記された第30回の開催が1995年12月1日で、以後はバラバラに残っている資料でしか分からない。第31回が「美術神話幻想/名古屋」で、講師はなく、案内文には〈名古屋の美術神話とは何か、神話と現実、神話の是非をふくめて、歴史認識の危うさを論議する〉とある。
     第33回は「亀山巌の考現学的視点」で、講師は岡本信也であった。講演のテーマである亀山は、名古屋で昭和初期から独自の考現学採取を試みた先駆者であり、岡本はその流れを発展させた人物である。岡本は「野外活動研究会」を立ち上げ、1974年から各地をフィールドワークして共同研究を続けてきたが、それは全国的に見ても独創的な活動と言っていい。残念ながら昨年の年末に死去、私にとって7歳年長の尊敬する兄貴分だったが、本人にはソンケイのソの字も伝えていない。そういう話は苦手で、とうとう言えなかったのだ。
     1996年10月4日に開催したのが第39回である。評論家仲間の北澤憲昭が〈 三頭谷、一度行くよ 〉と言って東京から来てくれた時の講座である。講座のタイトルは「工芸と現代美術」だった。私の記憶では、これが最終回だったと思う。講師は裸眼メンバーが多く担当するつもりであったが、こうした記録を見ると、大半が外部講師であることに、今さらながら驚く。交通費や謝礼はなし、東京から北澤や下田に来てもらった時も同様である。
     
     合宿までやるとは、当初は考えていなかった。1回目の参加者が18人、それが楽しかったのか2回目が21人と増えた。第12回の壱金講座で、戦後の日本画改革で有名な水谷勇夫に講師をしてもらったのがきっかけである。水谷が木曽御岳の麓にある福岡町「芸術思考館」の館長をしていたことで実現した。「芸術思考館」は、廃校を活用した宿泊できる文化施設で、水谷がたまたま出会った福岡町の教育長と意気投合して設立された。山間の田舎町にとっては突出した施設名である。どこであれ、人と場を変えてしまう、水谷的な人間アートの体現である。
     なお、1995年2月3日の第20回から、若手美術家の有馬かおると若手いけばな人の佐伯千佳が裸眼メンバーに加わっている。この時の私は47歳で、他メンバーも似たような年齢だった。活動の継承のようなことを考えたのかもしれない。


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    裸眼ノート全8号

    『裸眼ノート』の発行

     1994年9月に『裸眼ノート』の創刊号を出した。『裸眼』を後継する位置にあると同時に壱金講座と連動する裸眼活動である。「発刊の辞」のような文を創刊号(№1号)に載せている。

    ◆〈 『裸眼ノート』が発刊しました。1年ほど前に、フットワークが軽くて、思ったことを思った時に発信できるメディアが欲しいということで、このような形を考えたのですが、メンバーのフットワークは、あいかわらず重くて鈍いままなので、この1号は貴重なものになるかもしれません。
     『裸眼ノート』はともかく、毎月の裸眼「壱金講座」は好調です。今回紹介した、後藤泰洋さんなど皆出席の人も数名います。話題の内容によって半数以上の顔ぶれが変わるのもおもしろいところです 〉。

     誰が書いた文なのか、私か佐藤か、憶えていない。文面から講座あってのノートということが伝わってくる。裏表に印刷したA3用紙1枚を折って、郵便封書サイズの形にした、非常に簡素な批評誌である。安くて早く発行できるのが利点であった。普通のコピー機で印刷して折る、封筒につめる、各所各人に送る。手作り感満載であるが、記事内容には自信がある。

     №1号には誰も知らない美術情報を掲載した。ゼロ次元前史である。パフォーマンス集団「ゼロ次元」の始まりは、1963年の腹這い行進儀式とされていたが、それ以前にすでに実体があったことを、ゼロ次元創立メンバーの川口弘太郎から聞き取り、掲載した。その時期の活動を「前史」と呼ぶことにしたけども、この前史によってゼロ次元の生成の過程を知り、さらに当時の名古屋における創造的な空気を把握できたのである。川口には冷静な観察者的素質があるので、証言はたいへん貴重であり、面白かった。

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    裸眼ノート№1「ゼロ次元」前史 川口弘太郎氏に聞く 聞き手・三頭谷鷹史

     №2号(1994年10月発行)では、フットワークの軽さを活かした。北九州市立美術館の学芸員からの電話(もしかすると手紙)が発端である。彼女とはまるで交流がなかったのだが、私の美学の後輩だと言っていた。彼女の話では、全国巡回中の「ニューヨーク・リアリズム展」の中の1点が、行政の判断で展示中止となってしまったという。シドニー・グッドマン《都会の恋人たち》という絵画作品である。性表現が小中学生にとって問題だという理由から、巡回してきた他美術館では問題なく展示されたのだが、北九州市では展示中止となったのである。
     カタログと地元で出た多数の新聞記事が送られてきた。地元では知られていても、全国的には伝わっていない、〈 ぜひ応援してほしい 〉というわけだ。で、新聞記事を貼りまくった裸眼ノートを発行し、各所各人に送付した。学芸員からの連絡はたぶん9月末で、翌月には発行しているからフットワークはマアマアだ。
     №3号(1995年1月発行)では、裸眼メンバーの鈴木敏春が気を吐いた。名古屋の財界による「名古屋ボストン美術館・姉妹館」誘致の動きに対して、内容のずさんさと財界や行政による資金提供の問題点を鋭く指摘する批評である。美術関係者の発言が少ない中で、貴重な一撃だったのではないか。なお、名古屋ボストン美術館は、1999年に開館したが、赤字続きで、10年後には早くも閉館の報道が出るほどだった。ツギハギ的な対策が取られたものの、2018年には閉館した。公的と言ってよいような施設が、20年さえもたなかったのである。
     
    きりがないので、№4号以降は主要記事を記しておこう。

    №4(1995年6月) 岩田信市「60年代パフォーマンスの再考」、水谷勇夫「美術と人間」。
    №5(1995年8月) 三頭谷鷹史「体現集団アエッタの漠然」、水谷勇夫「美術と人間 その2」。
    №6(1995年12月) 岡田徹「絵描きを襲った戦争と権力」。
    №7(1996年2月) 岡田徹「絵描きを襲った戦争と権力 PART2」。
    №8(1996年4月) 佐藤英治「亀山巌、岡本信也の超視点」、鈴木敏春「野外展の系譜」。

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    裸眼ノート№5 水谷勇夫「美術と人間」その2  編集/佐藤英治・三頭谷鷹史 協力/名古屋造形芸術短大同窓会
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    裸眼ノート№6 岡田徹「絵描きを襲った戦争と権力」 編集/三頭谷鷹史 協力/名古屋造形芸術短大同窓会


     『裸眼』活動が終わる

     水谷と岡田の記事は、講座内容の記録である。鈴木敏春が名古屋造形短大同窓会にかけあってくれて、援助を受けた。おかげで録音の文字起こしを業者に頼むことができた。こんなふうに講座とノートが一体化しながら裸眼活動が続いた。ただ、それが終わるのである。裸眼ノートが№8号(1996年4月)で最後となり、壱金講座は1996年10月4日開催の第39回が最後となった。これが事実上の裸眼活動の最期であり、裸眼グループの解散であったと思う。優れた仲間をえたことは幸運だったし、グループだからこそ、互いに刺激し合いながら、小さな文化運動体として個人ではできない仕事を果たしえたと思う。解散決議だとか宣言とかはしていない、と記憶している。今もゆるい形での交友・協力関係を維持している。

     私としては、1981年8月に始めた「思索過程としての日本・アジア研究会」が裸眼の事実上の立ち上げだった。『美術手帖』に展評を書き始めたのも、1981年8月号である。メディアに乗っかるだけの批評には抵抗があり、意地でも自主独立の批評活動を続けたい、そんな気持ちを裸眼活動に込めたつもりだ。しかし、日本の、そして名古屋の状況は刻々と変わり、自分の今までの発想や方法ではやっていけないという思いが強まっていった。
     海外美術の翻訳・翻案に依存している日本の美術には、ずいぶん前から失望していた。それでも地方には地方のやり方があると、勢いのあった名古屋の画廊界隈に期待したのだが、残念ながら失速を感じ取った。それで気力を保つために始めたのが、1990年代前半期に取り組んだ壱金講座と裸眼ノートだったのである。
     振り返ってみると、けっこう夢中になってやっていたし、充実していたようにも思う。それでも心のどこかに延命という意識があった。だから次の生き方が必要という意識もあったのである。結果、5年かけて、ゆっくり「転換」していった。

    いけばなへ越境

     転換の一つは、いけばなへの越境である。いろいろな経緯があって、日本独自に発展した花の文化に大いに関心をもった。デパートで開かれる花展のいけばなではなく、伝統を背負いながらも現代化を果たそうとする現代いけばなである。作品形態は現代美術に似ているのだが、その造形感覚や手法に独自性があって面白く、〈 これは何だ 〉という思いが湧いて、のめり込んだ。今思えばの話だが、自分流の日本文化観に加えて、自分の資質として潜在していた植物に対する感受性が絡んでいたような気がする。
     こうなると私の動きは意外に速い。現代いけばなへの理解が生煮えの状態のまま、1992年には豊田市在住のかとうさとるに依頼して「鈍牛庵の華」展(岩田洗心館)を企画してもらった。その後は私自身が洗心館で現代いけばな展を企画し、1994年には名古屋市文化振興財団主催で大規模な「表現としてのいけばな展」を共同企画した。実はこの時、事業団から美術展の企画を依頼されたのだが、私の方から逆提案をして、かなり強引に現代いけばな展に変えてしまったのである。そして、かとうさとるの全面協力と、名古屋の石田流家元の石田秀翠に観客動員などの協力を取り付けた。
     なお、私は名古屋市文化振興事業団の依頼による大型の展覧会を数多く手がけている。その際は事業団の山内薫がずいぶん奔走してくれたことを思い出す。

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    「表現としてのいけばな」展ポスター 写真は大坪光泉の作品《植物人間》1978年(作者本人、とうごま、他)
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    「表現としてのいけばな」 大坪光泉《大根デス・コティック》1994年(大根、スチール棚、他)
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    「表現としてのいけばな」 假屋崎省吾《LEAF1994》1994年(マグノリア・リーフ、竹ひご、鉄オブジェ)
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    「表現としてのいけばな」 長井理一《無題》1994年(針金、フォーク、グラス、枝、他)
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    「表現としてのいけばな」 松田隆作《From RedⅡ》1994年(カーネイション、バラ、張子紙、石)

     壱金講座でも1993年9月に松本沙帆「いけばなの私的周辺」、1995年6月の講座では下田尚利に「戦後いけばなが提起したもの」の題で講演してもらった。私といけばなの関わりは深まっていったが、現代いけばな活動は東京に一極集中していた。それに名古屋では、「表現としてのいけばな」展の成功にもかかわらず、コトが終われれば相変わらずの無風・無関心に戻ってしまい、この地域で活動を広げることができなかった。『雑11』に記したとおり、洗心館で岩田と私との間で盛り上がった創造的な議論を活かす場が地域にはなかったのである。そのため自分の活動の原則に大きな変更が生まれた。下田の熱心な誘いもあり、これまでの地域重視を緩め、自分の時間の一部を東京での活動に費やすことにした。
     また、1993年、富山県立近代美術館で公開禁止となっていた大浦信行作品が売却、関連図録が燃やされる事態が起きた。さすがにこの事態に美術界も衝撃を受け、「美術と美術館を考える会」が結成され、誘われて私も参加することなった。やはり東京中心の会であり、会合に参加するためには東京に出かけるほかない。こうして私の活動の形が変わっていく。

    批評×美術史研究

     転換はもう一つあった。画廊界隈を徘徊していての肌感覚だが、1990年頃から批評が次第に勢いを失っていった。とくに新聞の美術短評などは典型であり、書いていて手応えが感じられなくなったのである。ウエストベスギャラリーのオーナー小塚正和の言葉を思い出す。〈三頭谷さん、 今の作家たちはね、新聞評などは批評じゃなくて、展覧会の単なる案内欄だと思っているよ 〉と語っていた。数多くの作家やコレクターに接するだけに私以上に批評の失速を感じていたようなのだ。新聞だけの話じゃなく、美術批評全体がそうだったと言ってもよい。今思えば、批評、そして美術全体においても、失われた30年が始まっていたのである。
     批評の手応えがないのは辛い。泥濘(ぬかるみ)に足をとられて前に進めないといった感じで、疲労がじわじわと溜まってくる。とうとう我慢ができなくなって、1995年の3月に毎日新聞と朝日新聞の美術欄担当を同時辞退した。地域の現代美術にコミットすることを止めたのである。
     また、同年の「ゼロ次元からロック歌舞伎まで-岩田信市的世界」展(岩田洗心館)を企画の最期とすることにした。その後も1年余りは裸眼活動を続けたし、散発的に批評を書いたり企画したりすることはあるものの、現在進行形の美術からの撤退を明確に意識したことは確かである。
     で、その後は何をしたかだが、カスカスになった批評を地域の美術史研究で補強し、説得力を回復することに努めた。なお、私が対象としたのは主に戦後美術の範囲である。また、批評と研究の両立ということではない。批評と研究は別物だし、私に研究者の資質はなく、なるつもりもなかった。批評的関心を動力にしてズカズカと美術史に分け入り、批評的視点から勝手に美術史を語る、これが自分流の批評活動となった。のちに朝日新聞(名古屋本社版)に連載した『化石の美術神話・名古屋』に結びつく手法だが、この点は別の機会に触れたい。
     早くから仲間とともに地域の美術史の必要性を訴えてきた。ただそれは文化運動としておこなってきたのだが、今度は1人で担わなければならない。いくら研究者になるつもりはないといっても、資料の調査収集、人からの聞き取り、整理分析といった作業は必須である。人を巻き込むような仕事じゃないし、かつての仲間もそれぞれの道がある。それにしても・・・時々考える、私の道は自分で選んだのか選ばされたのか。


    (雑12|壱金講座と裸眼ノート おわり)


    ⇑目次


     
     
     
    みずたに・たかし/1947年愛知県生まれ/名古屋造形大学名誉教授/美術評論家連盟会員。