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花02| いけばな人口激減の考察②-前後左右、深部へ

    2023年9月1日/記
    (敬称略)

     いけばな関係者であれば、いけばな人口の減少は周知の事柄である。それでも前回の考察で明らかにした激減の数値には驚かれたのではないか。総務省「社会生活基本調査」を基にした統計で、15歳以上の国民の行動率を見てみたのだが、大変なことになっていた。35年間で、いけばなをやろうとする人が5分の1になり、25歳~29歳の層では、なんと23分の1になってしまっているのだ。
     こんな現実など見たくないと思う人も多いだろう。しかし、目をそらしても、現実は変わらない。むしろ現実を受け止めた上で、前後左右を検証し、深部へ向けて想像力を働かせることが肝要なのだと思う。激減によって、いけばな界は変わるほかないが、悪いことばかりでなく、新たな可能性も生まれてくる。

     なお、考察①で、次は「各論」を予定していると書いたが、どうもそんな構えた書き方はできそうにない。前後左右を観察しながらではあるが、自由に書いていくことにする。

    茶道と華道は、性格の違う姉妹

     まずは、いけばな文化に隣接する茶道を、重点的に見ておこう。「茶華道」と呼ばれることもあるように、この2文化はまるで姉妹のような扱いを受けてきた。ところが、「社会生活基本調査」の時系列統計からは、性格がかなり違う姉妹であることが見えてくる。なかなか興味深いので、両者を統計に基づいて比較してみたい。 

     茶道は時に茶の湯、お茶などと呼ぶし、華道にしても、いけばな、挿花、お花などといろいろな呼び方をする。どれでもよいと言えなくはないが、専門的に見た場合は微妙な差異があって、なかなか難しい。「社会生活基本調査」では「茶道」「華道」を採用している。この論考では、調査関連で使う場合はそうするが、あとは柔軟に使わせてもらう。

     行動者÷人口=行動者率であり、その時々の人口の何%が行動(活動)したかが表わされる。華道の場合、1986(昭和61)年の15歳以上の人の行動者率は「6.4」だったが、2021(令和3)年には「1.3」に減少した。35年間で、大雑把な数値で言えば、5分の1になったのである。当然、姉妹である茶道も同様だと推測されるし、統計を見れば確かに減っている。茶道の方は3.0から0.8に減少、35年間で4分の1になった。
     ただし、直近の調査はコロナ禍の最中であり、茶道は大打撃を受けている。おそらくコロナ下では茶道の方が活動しにくかったからであろう。コロナがなければ、茶道人口の減少はもう少し緩やかだった可能性がある。1986年以後の5年ごとの数値は、「3.0」「・・・」「2.4」「2.4」「1.8」「1.5」「1.5」「0.8」であった。(「・・・」は未調査の回)。
     華道が確実に減少していったのに対して、茶道は2調査回で数値の変化がなく、減少がはるかに緩やかであったことを示している。華道と茶道の時系列表を並べて掲載するので、比較して見てほしい。図1、図2。

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    図1 「社会生活基本調査」を基にした時系列表(華道の部分を三頭谷が再編集)
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    図2 「社会生活基本調査」を基にした時系列表(茶道の部分を三頭谷が再編集)

     近未来ということでは、気になるのが若い世代の動向である。華道では1986年調査でもっとも高い行動者率を誇ったのが「25~29歳」で、「9.2」だった。それが直近調査では「0.4」となり、23分の1。茶道はどうかというと、年齢層が少しずれるが、「20~24歳」が最高率の「5.1」であった。この年齢層の直近調査は「1.1」であり、5分の1に減少ということになる。華道のような極端さはないけども、やはり厳しい数値だ。

     コロナ禍の影響は数値化できないので、これらの若者層の動向をコロナ前の2016年調査で比較する。すると華道が13分の1に減少したのに対して茶道は3分の1に止まっている。茶道の方は、いくらかほっとする数値だが、減少傾向を否定する材料にはならず、やはり構造的な問題を抱えているという認識は必要である。もう少し前後左右を見てみよう。

    書道、邦楽を見てみると

     日本文化の一つに数えられる書道はどうなのか。書道人口の減少は時々話題になっていたし、統計を見ても確かに減っている。「5.8」「4.2」「4.6」「・・・」「3.6」「3.2」「3.2」「2.6」と、徐々に減らしていって、35年間で半分以下になった。
     最初に華道の推移を見ているから、たいしたことないように感じてしまうが、半分というのは激減であり、書道界を揺るがす事態であったはずだ。ただし、若者層の減少も概ね半分であり、華道とはずいぶん様子が違うし、茶道と比べても堅調な感じがする。
     いわゆる日本文化と呼ばれる分野でも、推移にはそれぞれの特徴があって、華道、茶道、書道といった「道」分野でさえ、三者三様であることが分かる。
     面白いのは邦楽(民謡、日本古来の音楽を含む)で、2001年以後しか調査されていないが、その時が「1.6」で、増加傾向が続き、コロナ下の直近調査でさえ「3.0」と、倍増しているのだ。予想外の数値である。その理由については、内部事情を知らないので見当がつかない。「社会生活基本調査」だけでの分析にはやはり限界がある。

    前衛運動、いけばな人口激増の原因?

     再び華道の統計にもどって、数値の大きさに注目する。これまで何度も触れた35年前の華道の行動者率「6.4」と、他分野の行動者率を比べると面白いことが見えてくる。茶道は「3.0」で半分以下であり、これは当時の茶道界がいけばな界の半分以下の人口規模だったことを示している。書道でさえ「5.8」と、華道よりも少ないのだ。

     ここで激減ではなく、視点を逆にして、激増に目を向けてみよう。そもそもいけばなの「6.4」が過剰な数値だったと見るのである。戦前の両分野の規模差が分からないので正確なことは言えないが、かつての茶華姉妹に体格差がなかったとするなら、「6.4」は過剰どころか異常なのである。しかも、その原因が「前衛いけばな」だという説が、ある。
     有力な証言がある。私と下田尚利の対談「前衛いけばなの時代」(注1)で、下田が面白い話をしてくれた。下田についてはこのブログの「いけばな論01」で書いているので、そちらを読んでもらいたいが、前衛いけばなの人であり、大和花道という流派の家元でもある。対談の一部を以下に引用する。
          
    三頭谷
     少し話がもどりますが、蒼風、豊雲、文甫さんたちの新しいいけばなについてどう考えてみえますか。
    下田  あの世代の新造形と言ってみたり、前衛挿花と言ってみたりするものは、新しい花型かけいだろうという感じがする。事実、草月流や小原流は、あの前衛挿花運動で流派の人数を急激に増やしたわけだからね。
    三頭谷  確かにいけばな界が今日のような巨大なものになるのは戦後であって、1950年代後半から60年代にかけてで、そうしたいけばな人口の急増をもたらしたのが前衛いけばなであった。しかしね、これはわかるようでわからない。蒼風さんや豊雲さんの作品がそこまで多くの人を引きつけるものだったのかどうか。少なくとも一般的な意味で美しいというものではないし、美術では考えられないですよ。
    下田  誰だったか、大宅壮一だったか、5百万人の前衛という言い方をしている。
    三頭谷 5百万人といういけばな人口、全員が前衛(笑)、に走ったということですね。
    下田  だからね、地方の自治体で文化祭をやると、絵が出たり書が出たりするんだけれど、なんていったっていけばなだけが最前衛なんだよ(笑)。どの地方でもね。
    三頭谷 不思議な現象ですね。
    下田  だから、やっぱり家元が始めた新花型という感じなんだよね。
    三頭谷 型を学ぶということで広がっていったんでしょうが、それにしても当時の前衛的なものが人を集める材料になったということの意味を、もう少し考えてみたいですね。

     もう一つ、対談を見ておこう。前回の考察①でも証言を参考にさせてもらった工藤昌伸が、かつて前衛いけばな運動の盟友であった重森弘淹と対談し、当時を語っている。対談のタイトルは「『いけばな芸術』と前衛いけばな運動」(注2)である。
     『いけばな芸術』というのは、重森三玲によって1949年12月に創刊された雑誌である。編集を担ったのが、次男の重森弘淹であり、前衛運動の拠点として雑誌を機能させた。その公正なジャーナリズムを目指そうとする姿勢は、いけばな界から疎まれ、1955年に終刊した。挫折後の弘淹は写真界に転じたが、それでも、いけばなに批評面で関わり続けた。

    工藤
     (略) 私はあの前衛いけばなの運動がなかったら、いけばな人口はあんなに急激に増えなかったと思います。(略)。
    重森 大都市を中心に草月流は爆発的に増やしましたからね。
    工藤 (略) 小原流がそのあとを追いかけた。昭和27、8(1952、53)年は、もう前衛いけばなの最盛期でしょう。その頃に前衛いけばな運動というのは各大手の流派に収斂されていく。
    重森 ちょうどその頃は財閥の再編成が確立した時期でね。世の中全体そういうふうになってきたんだよね。(略) 気分としてはもう保守的になっていくわけです。いけばな人口がバーッと急激に伸びていくところで前衛いけばなは終わった。そういうことだろうと思います。それで『いけばな芸術』も昭和30(1955)年に廃刊に至るわけです。(略)。

    (注1)  この対談は、三頭谷鷹史連続企画「複眼的美術論企画VOL.2]として開催された公開対談である。2002年3月30日、主催・会場GALLERY MAKI。三頭谷鷹史『前衛いけばなの時代』美学出版、2003年刊に所収。
    ( 注2)  工藤昌伸『日本いけばな文化史4』同朋舎出版、1994年刊に所収。


    家元たちの前衛いけばな

     いけばなの場合、前衛運動の最盛期が1950年代の前半期にあることは間違いないが、いけばな人口の増加もほぼ同時並行的に始まっていたようである。前衛いけばなを自分の流派に取り込もうとする動きもそうだ。この時代、変化は猛スピードで起きていた。

     先陣を切った草月流は〈 大都市を中心に爆発的に 〉入門者を増やした、と重森は語っていた。当時の女性たちにとって、前衛いけばなは、最新のオシャレな都会文化の香りを放っていたのかもしれない。前衛いけばなの人気を他の流派も察知したようで、すぐに小原流があとを追ったのは当然として、古典花を重視する流派でさえ例外ではなかったらしい。とくに興味深いのが、保守本流の位置にある池坊である。

     『いけばな芸術』1953年12月号に年間回顧の匿名記事があって、次のような記述がある。〈 今日に至っては、一つの流派が唯一つの様式に固着することは、致命的である。池坊でさえ下部組織の要求を抑えかねて、新しい花を「抽象花」という名において許さねばならぬのである 〉と記している。
     最古最大を誇る流派として、古典様式を大切に守ってきたのが池坊だった。その池坊が、それなりの対応を迫られたわけである。
     こんな話もある。工藤昌伸によると、戦後何年かたった頃、有楽町の駅前の寿司屋で池坊のグループと遭遇した。衝立の向こう側から、〈 前衛いけばななどとんでもない 〉といった激論が交わされているのが聞こえてきた。ところが〈 その中のリーダーが、いやいま池坊に必要なのは前衛挿花の研究なのだと言い切ったのを聞いてしまった。そしてそのリーダーが山本忠男であることを知った私は驚愕した 〉という(注1)。
     山本とは、池坊の家元専永の伯父で、当時まだ若かった家元に代わって、池坊を取り仕切っていた敏腕経営者である。先ほどの匿名記事にあった〈 池坊でさえ下部組織の要求を抑えかねて 〉という次元ではなく、トップ判断で池坊は前衛いけばなを積極的に取り入れたのである。池坊恐るべしというところはある。

     1950年代前半期という早い時期に、かなりの流派が前衛いけばなを取り込もうとしていたと見ていい。本格的な動きは後半期だとしても、この素早さには驚かされる。いい加減と言えばいい加減、柔軟と言えば柔軟。良くも悪くも、これがいけばな界である。
     そして、因習批判や家元制度改革など、前衛運動が内包していたトゲの部分を上手に抜こうとする動きも、早くから始まっていたのであろう。だから真性の前衛運動はじきに挫折し、勝ち残ったのは「家元たちの前衛いけばな」という結果になった。家元と前衛、本来は結び付かないものが結び付く、奇妙な世界である。この問題については別の機会に書こうと思う。

    上の小項目「家元たちの前衛いけばな」は、2024年3月26日に追記。
    (注1) 工藤昌伸「私説戦後いけばな史②」『いけばな批評』№2、1973年6月号、王立出版社。


    1950年以前にもブームが?

     1950年代以前についても見ておく必要がある。考察①で引用した水沢澄夫の証言〈 花道は目下大流行 〉は、1950年の話である。前衛運動が本格化する最初期と見てよいから、そうすると、以前からブームが起きていて、すでにいけばな人口はかなり増加していたことになる。時期的に見て、この増加は、前衛運動とは無関係なわけである。
     背景にあるのは、長い戦争下の抑圧からの解放であり、それに伴う文化的渇望が考えられる。当時の国民は、食糧に飢え、文化にも飢えた。女性たちの場合、さらに彼女たちの立場や意識の変化が重なる。
     戦時下で女性たちは、徴兵されていく男たちに代わって、労働の表舞台に引き出された。戦後になると、今度は復員してくる男たちに職を奪われていくものの、それでも女性の社会進出は進んでいく。なにより、従順なだけの女性ではなくなっていた。そう、戦後のいけばな文化は、もはや良家のお嬢様や奥様中心のものとは言いがたくなったのだ。典型が戦後の労働運動とも響き合う「職場のいけばな」である。

    半田唄子と職場のいけばな

     興味深い一例がある。戦後いけばなを代表する作家に半田唄子がいる。彼女は地元福岡では名の通った流派である「千家古儀」の家元であった。しかし、家元制度を批判する重森三玲の叱咤激励を受け、家元を返上する。1949年のことで、のちに結婚する中川幸夫が池坊を脱退する2年も前のことだ。
     門下生は激減するが、流派とは無関係なグループを主宰し、多くの教え子をえたようだ。半田に密着取材したと思われる佐藤和子の小説「拈華微笑」(『文学者』第2号、1973年)によると、〈 鉄道やバスの発着場に勤める娘たち、洋裁や婦人帽の仕事をもった人たちなど、働く女性の職場を対象に教授先を開拓 〉したという。半田が中川と結婚するために東京へ向かった時、博多駅でロシヤ民謡の「仕事の歌」で見送られたというが、歌ったのは彼女たちだったと思われる。

     考えてみれば、半田は、女性いけばな人の典型的な生き方をして、この戦後に至っている。彼女は1907(明治40)年に福岡の裕福な商家に生まれ、13歳で高等女学校に入学し、この頃からいけばなを習い始めた。19歳でやはり裕福な商家に嫁ぎ、女中にかしずかれる奥様になったが、32歳の時に夫が死去して、姑、娘2人、息子1人が残された。すぐさま生活に困るわけではないが、いけばなを本格的に学び、将来の不安に備えようとした。
     戦前の女性に開かれた職業の一つがいけばな教授で、日露戦争以後、かなりの数の未亡人がこの道を選んでいる。大正13年刊の佐瀬文哉『文化的婦人の職業』(自光社出版部)には、活花いけばな、茶の湯の教授なども、婦人に最も適応した仕事として紹介されている。
     半田は、太平洋戦争の福岡大空襲で焼き出され、終戦後は進駐軍の出入りする料亭などに花をいけたりしていたが、1947年「千家古儀」の家元を継承した。ただ、先に記したように、その家元を返上したわけである。裕福な商家の未亡人が、苛烈すぎるほど苛烈な、自立する女に大変貌するのである。彼女が42歳の時である。
     半田のような大変貌は、誰もができるわけじゃない。が、単なる特殊例ではなく、「仕事の歌」を歌って見送った若い女性たちの気持ちを代弁する生き方だったのではないか。半田は、「職場のいけばな」のエッセンスを体現し、若い女性たちの声援を受けたのである。

     戦後女性の動きには占領軍GHQの「女性解放」政策の影響は大きかっただろうが、おそらくそれだけではない。小さな自立やささやかな楽しみを求める気持ちをもった無数の女性たちがいて、出口を探っていたものと思われる。そして、その動きはいけばなにも向かい、1950年以前のブームを作っていったのではないかと・・・。

    いけばな人口、激増から激減へ

     もちろん、あくまで仮説である。ただ、こうした戦後女性の、控えめながらも能動的な動きの下地がなかったら、前衛いけばなの急拡大はなかったように思えるのだ。よく言われる「花嫁道具」なら、前衛いけばなじゃなくてもよい、むしろ、そうじゃない方がよいのである。

     再び1950年代以降を整理しておこう。いけばな界に大変革を求めた急進的な前衛運動は5、6年ほどで排除されていくが、それに代わって各流派が、前衛いけばなを巧みに自流に取り込みながら、門下を増やしていった。それが1950年代後半から60年代にかけてである。この頃に、もしかすると史上最大のいけばな人口に到達していたのかもしれない。
     しかし、安定とともに新鮮な空気は薄れ、いけばな界がだんだんと停滞していく。そうすると再びいけばな界を刷新する活動が生まれてくる。「現代いけばな」活動である。1970年前後から登場してくるので「70年代いけばな」とも言うが、詳しくは別の機会に書こう。ともかく、当時の各流派若手の自発的な動きがうねりとなって、様々な活動を展開した。そして、時とともに終息していく。終息の時期については、「現代いけばな」にも関わった下田尚利が、先に引用した対談の中で語った言葉が参考になる。

     〈 70年代いけばなというのは本当に面白かったしね、80年代の中頃まではそうだった。(略) しかし、今にして思えば、1989年で終わりだという感じ 〉と言い放った。まさに1986年の調査「6.4」の時期とほぼ重なる。そして、その辺りからはっきりと、いけばな人口の減少が始まるのである。


     

    ( 花02| いけばな人口激減の考察②-前後左右、深部へ おわり)


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    みずたに・たかし/1947年愛知県生まれ/名古屋造形大学名誉教授/美術評論家連盟会員。