
【エッセイ】献身とお人好し
自己犠牲という言葉に、私はずっとどこか陰のある響きを感じていた。
自分を削り、誰かのために尽くし、その果てに疲弊していく……そんな不幸の形を想像していたのである。
しかし、いい歳になってようやく気づいた。
人のために動き、感謝されることほど、人を深く満たす行為はないのだと。
自分のために物を買う喜びは、確かにある。
欲しかった服や趣味の品を手にした瞬間は胸が高鳴る。だが、その幸福は意外なほど短命だ。数日もすれば感動は薄れ、やがて日常に埋もれていく。
それに比べて、誰かのために働き、誰かに喜んでもらえた時の充足感は、ずっと長く胸に残る。
「ありがとう」と笑顔で言われるだけで、自己満足の何倍もの幸福が身体の奥に染み込んでくる。
もちろん、それは決して清らかな動機ばかりではない。
感謝されたい。必要とされたい。認められたい。
そういう欲が、心のどこかに必ずある。
だからこそ私は、自分の善意を完全な美談として語る気にはなれない。
むしろ、人のために動くことで幸福を得ている時点で、それはどこまでも打算的だ。
けれど、「やらない善より、やる偽善」という言葉があるように、結果として誰かの助けになるなら、それで十分ではないかとも思う。
私は数年前から、Vリーグのあるバレーボールチームでボランティアスタッフをしている。
始まりは実に不純だった。
推しの選手に少しでも近づけるかもしれない……ただそれだけである。
当時の私は、典型的な“推し活”に全力を注ぐいちファンだった。
チームや選手のSNSを毎日のように確認し、レプリカユニフォームを着込み、応援タオルを掲げ、推しの名前と背番号入りのキーホルダーや缶バッジをつけたサコッシュを肩に掛ける。両手には応援バルーン。二階席でそれを打ち鳴らしながら、声が枯れるまで応援していた。
ホームゲーム後のサイン会にも何度も並んだ。
サインを書いてもらい、ツーショット写真を撮り、握手をしてもらう。ただそれだけで満たされていた。
そんな私が、気づけばスタッフ側に立っている。
ボランティアの仕事は想像以上に幅広い。
会場設営、コート準備、ウォーミングアップ中のボール回収、チケット販売、受付、場内警備。時にはコートサイドやエンドライン際に立ち、一般客では到底入れない距離で試合を見守ることもある。
続けていくうちに、チームGMや監督、スタッフ、一部の常連客や協会関係者にまで顔を覚えられ、挨拶を交わし、名前で呼ばれるようにもなった。
サイン会では、推しの選手を含むチーム全員の後ろに立ち、交換用のマジックを手に、選手たちがファンへサインを書く姿を見守っている。
その光景は、昔の自分から見れば夢のようだ。
一般客の中には、私をチーム関係者だと思っている人もいるだろう。
そう思うと、承認欲求が強いわけでもない私ですら、少し誇らしい気持ちになる。まるで“中の人”になれたような優越感もある。
けれど実際は、ただのボランティアだ。
皆と同じ一般人であり、単なるいちファンに過ぎない。
いや、動機の邪さを考えれば、少々痛い客なのかもしれない。
それでも、シーズンが終わると心に大きな穴が空く。
試合がなくなり、会場へ行く理由もなくなり、ボランティア活動も途切れる。毎年、最終戦のあとには、順位に関係なくどうしようもない虚無感に襲われる。
私の推し選手は、大学卒業後にこのチームへ入団して四年目になる。
年度末が近づくたび、移籍や引退の知らせが出ないかと落ち着かない。
だが、推しを追いかけて始めたこの活動は、いつしか推し個人だけのものではなくなっていた。
今では、チーム運営やスポーツ興行の裏側にも少しずつ詳しくなり、自分なりに現場で動けるようにもなった。多少なりともチームに貢献できているという自負もある。
もし今後、推しがこのチームを去る日が来たとしても、きっと私は来シーズンも迷わずボランティア参加を希望するだろう。
なぜなら今の私は、もう一人の選手だけを追う“推し活”ではなく、このチームそのものを愛しているからだ。
私の推しは、日本代表に選ばれるようなスター選手ではない。
けれど、私の中では誰よりも輝いている。自然と目で追ってしまう。
だからこそ私も、どのボランティアスタッフより献身的に、細やかな気配りを忘れず、このチームとバレーボールに関わり続けていきたいと思う。
人は、自分のためだけには、案外そこまで頑張れない。
けれど、誰かのためなら驚くほど動ける。
そしてその時、人は「与えている」のではなく、むしろ与えられているのだと、私は今になってようやく知ったのだ。
人生は案外、お人好しぐらいがちょうどいいのかも。