
琥珀色の向こう側 ➁ 第1話 本尊『三面大黒天』に、ありし日の信長と竹中半兵衛を語りかける「ねね」
ねね(Nene - The Mother of Samurai)第1話
序 ―― 秀吉亡き後の圓徳院
ここは、豊臣秀吉がこの世を去ったのちの京都・圓徳院(えんとくいん)。
秀吉が若き日から肌身離さず、数々の修羅場や大事な戦へと持ち歩いた守り本尊『三面大黒天(さんめんだいこくてん)』の前に、一人の女性が静かに座っていました。
北政所、ねね。
線香の煙が揺らめくなか、瞑想にふけるように佇む彼女の脳裏には、かつて夫・秀吉と共に駆け抜けた、あの泥臭くも熱い「若き日の奇跡」の数々が、鮮やかによみがえっていました。
すべての始まりは、織田信長すら恐れおののかせた、あの「美濃の化け物」との出逢いだったのです。
竹中半兵衛、稲葉山城を陥落す
永禄7年(1564年)。
戦国を震撼させる前代未聞のニュースが天下を駆け巡りました。のちに「天才軍師」と称される竹中半兵衛が、わずか16人の部下と共に、難攻不落と謳われた美濃の主城・稲葉山(いなばやま)城をたった一日で乗っ取ったのです。
この報を聞いた尾張の織田信長は、ひっくり返るほど驚愕しました。
信長は何年もの歳月と莫大な兵力を投じても、この城をどうしても落とせないでいたからです。
「まさか、身内の若者がたった16人で城を奪うとは!」
半兵衛の底知れぬ知略に恐怖した信長は、すぐさま稲葉山城へと緊迫の使者を派遣。破格の条件を提示します。
「城をそのまま織田に引き渡せ。さすれば、美濃の国を切り取り次第(半分、あるいは望むだけの領地)お前に与えよう」
しかし、半兵衛はこの誘いを一蹴します。
なぜなら彼の目的は「自分が国を奪うこと」でも「織田の家臣になること」でもなく、酒色に溺れる暗愚な主君・斎藤龍興(たつおき)の目を覚まさせるための、武士の「信義」だったからです。
半兵衛はその後、城をあっさりと龍興に返還。自らは主君を脅かした罪を償うため、すべての地位と名誉を捨てて、近江の浅井領へと隠居してしまいました。
天才二人の「裏の意地」
驚くべきことに、信長と半兵衛には直接会って会話したという記録が一切ありません。
合理主義者でありながら、自分と同じ「常識外れの天才(うつけの気質)」を本能的に見抜く目を持っていた信長だからこそ、半兵衛という男の『底知れぬ怖さ』を誰よりも警戒し、直接会うことを避けたと考えられます。
当時の信長と使者の間には、こんな緊迫したやり取りがあったはずです。
使者:
「信長様、竹中半兵衛に『美濃の半分を与える』と伝えましたが……奴は『主君を諌めるための行為であり、織田の犬になる気はない』と、にべもなく断って参りました。城は元の主(龍興)に返し、自らは山奥に引きこもる、と」
織田信長(苦々しく、しかし不敵に笑って):
「ふん、断ったか。美濃の半分を差し出すと言っても目もくれぬとはな。……あやつはただの武芸者ではない。『欲』で動かぬ男だ。自分の命も、富も、領地も欲しがらず、ただ己の『信義』と『知略の美学』だけで城を奪ってみせた。このような男を無理に力で臣下にすれば、いずれ我が寝首をかかれる。会わなくて正解よ。……だが、惜しいな。あれほどの頭脳(ソフト)、我が織田のなかに使いこなせる器の男がいれば良いのだが」
人たらしの天才と、信長の合理性
信長が「美濃の半分」という破格の富を提示しても決裂したというこの史実があるからこそ、その後に秀吉が「三顧の礼」で半兵衛の心を射止めたドラマが、ますます生々しく輝きを放ちます。
天下の信長が動かせなかった化け物が、まだ一介の若手武将にすぎない秀吉の家臣(軍師)になったのです。
この衝撃の報を聞いた瞬間、信長は秀吉を呼びつけ、ぶっきらぼうな照れ隠しのなかに強烈な驚きと期待を込めて、こう言い放ったに違いありません。
「ふん、面白い。うつけの藤吉郎に、美濃の化け物がついたか。お前たちのその『泥臭い知略』で、我が足元をひっくり返すほどの戦を見せてみよ」
この事件を境に、信長は秀吉を「織田家きっての、新しい国造りができる大将(西国攻略の総大将)」として、柴田勝家などの古参の先輩たちをゴボウ抜きにして大抜擢していくことになります。
信長からすれば、実に彼らしい合理的な計算(人事の妙)でした。
「俺の言うことは聞かないが、秀吉の言うことなら聞く天才(半兵衛)がいる。ならば、秀吉を大将にして、その背後にある半兵衛の頭脳を丸ごと『織田の最強兵器』として使えば良い」
算盤を叩くような信長の冷徹な計算の裏で、秀吉とねね、そして半兵衛という奇跡のチームが、いま静かに産声を上げようとしていたのです。
竹中半兵衛の最後とねねへの『最後の願い』
ねねは、思う出すように心の中で、つぶやきます。
信長様。あなたが私にくださった『ハゲネズミ』という愛称は、今でもとても気に入っておりますよ。
時折、私の前で気に食わないことをする者が現れると、口をついて自然に出てしまうほど、私はこの言葉を愛用しております。
あなたが私に宛ててくださった、あの見事な文(ふみ)。
『あなた(ねね)は、以前に会った時よりも、さらに美しく立派になっています。あの大したことのないハゲネズミ(秀吉)が、あなたほどの素晴らしい女性に不満を言うなど言語道断。どこを探しても、あなた以上の奥方はいません。ですから、あなたは堂々と、正妻としてドッシリと構えていなさい。この手紙を、あの男に見せてやりなさい』
若き日、秀吉の度重なる浮気に独り悩んでいた私に、天下人である信長様がこれほどまでに寄り添い、深い包容力とユーモアで勇気づけてくださった。このお言葉が、どれほど私の支えになったことか。
家柄を一切気にせず、実力だけで秀吉を見出してくださった信長様は、「部下の妻」である私のことも、一人の戦友のようにリスペクトしてくださいました。
夫婦の不和が織田家の中のヒビ割れに繋がりかねないところを、瞬時に包み込んでみせる細やかさ。日の出の勢いにあった織田家の組織崩壊を防ぎ、同時に私の忠誠心を「爆上がり」させたのですから、やはり貴方は恐ろしいほどのカリスマでした。
あの『ハゲネズミ』が、貴方に惚れ抜いたのも無理はありません。
そんな懐かしい文のことを、私は今、東山の静かな庵で思い出している。
高台院へと向かう道は、しっとりとした五月雨の月(さみだれづき)のなかにあった。
少し、空気が湿っている。
首筋にふっと冷たい気配を感じたかと思うと、私の歩みに合わせて、寄り添うように歩く者の気配がした。
……お前は、半兵衛(竹中)か?
『こんな季節でしたな、寧々様』
『おぉ、懐かしや。半兵衛ではないか』
幻の手を伸ばしたくなるほど、懐かしい男の姿。
秀吉から、その潔い人となりを何度も聞かされていた忠臣・竹中半兵衛が、私のそばを一歩引いて歩いている。
そう、あれは織田様の安土の城に、壮麗な天守閣が完成したという噂が届いた年のことだった。
まだ秀吉に家臣も少なく、精神的にも余裕のなかった長浜城時代を支えてくれた男。
半兵衛がまだ21歳の頃、愚鈍な主君を戒めるため、わずか16人の部下で難攻不落の稲葉山城を無血占領した話は有名だ。誰もが「半兵衛が国を奪った」と驚愕したが、彼は「主君に反省を促すためです」と言い残し、城をそのまま返して自分は隠居してしまった。
『誰もがお前が国を奪うと思ったのに、あっさりと城を返して隠居してしまったな。その無欲さに、秀吉はすっかり惚れ込んで、何度も「三顧の礼」でお前の元へ通っていたぞ』
『恐れ入ります、奥方様』
『なにごとじゃ、半兵衛。お前は今、播磨の陣中で病に伏していると聞いていたが』
『寧々様に、折り入ってお願いしたいことがあり、這うようにして参りました。このことだけは、どうしても直接お会いして頼まねばならぬと……。
世間には、安土の城を遠目に見にいく旅だと申して出てまいりました』
『そうか……。ならば、お茶でも飲みながらゆっくり語ろう。のう、半兵衛』
『はい、奥方様』
道すがら、私は半兵衛が長浜城で秀吉の母や私たち家族と同じ空間で過ごしていた頃を思い出していた。
体が弱く上品で、およそ戦国武将らしくない風貌だった半兵衛を、私は弟のように可愛がり、彼の健康をいつも気遣っていた。栄養のある食事を、私が自ら手配してやったこともあった。
出世欲がまったく無く、どこまでも義理堅い。戦国という修羅の時代には珍しい、純粋な美学と優しさを持った天才軍師。それが竹中半兵衛だった。
『のう半兵衛、軍師として秀吉を支えてくれて、本当に嬉しいぞ』
私の言葉に、半兵衛は少し間を置いて、意を決したように声を落とした。
『……奥方様。このたびは、お二人のお命をも脅かしかねぬ、大事の件で参りました』
『……何事ぞ、半兵衛』
この時、秀吉のもう一人の参謀である黒田官兵衛が、敵陣へ説得に向かったまま捕らえられ、行方不明になっていた。
信長様は「官兵衛は裏切った」と激怒し、人質として預かっていた官兵衛のわずか10歳の息子・松寿丸を「即刻、首を刎ねよ」と命じたのだ。
周囲が信長様の恐怖に怯えて口を閉ざす中、半兵衛だけは「官兵衛は絶対に裏切らない」と信じていた。
そして、信長様には「松寿丸の首を刎ねてまいりました」と偽の報告をし、本物の松寿丸を自らの領地に密かに匿ったのである。
主君・信長を欺く、一歩間違えれば一族郎党一瞬で斬首となる命がけの嘘だった。
『私が、それを知らぬと思うか、半兵衛。以心伝心じゃ、秀吉もすべて知っている』
私の言葉を聞いた瞬間、半兵衛の細い肩が、慟哭をこらえるように激しく震えた。
『……実は、すぐ近くの控えに、松寿丸を連れてきております』
『おぉ、そうか! はよう連れてまいれ、はよう!』
痩せ細った体で、半兵衛は幼い松寿丸の手を引いて部屋に入ってきた。
半兵衛が言葉を続けるより先に、私はその10歳の小さな体を、夢中で抱きしめていた。
『松寿丸! いくつになった』
『はい、11歳になります』
『そうか、もうすぐ元服じゃのう』
『はい。お父上が戻られたとき、立派になった姿を見てほしゅうございます』
『よう言うた、松寿丸! 私がこれから、お前に武士の習いをたっぷりと教えてしんぜよう。……良いな、半兵衛!』
『奥方様……っ』
二人には、それ以上の言葉は必要なかった。
お付きの者が「お茶が入りました。どうぞこちらへ」と声をかける。
差し出された茶の湯が、半兵衛の心に深く染み渡り、彼の瞳は涙で霞んで前が見えなくなっていた。
質素な茶室には、移ろいゆく現世に似た紫陽花が一輪、いけてある。
あえて傷のある花瓶が、その余白を満たせと沈黙しているようだった。

一口、お茶を飲み干すと、半兵衛は静かに語り出した。
『寧々様。信長公の目は、私がなんとか誤魔化し通しましょう。
しかし……その後、徳川家康公という、恐るべき執念を持った男が天下を狙うことになりましょう。
その時、豊臣の世を守るのは武力ではございませぬ。
ねね様、
あなたの『情け』でございます。
どうか、この松寿丸を、次の時代への命の種として育ててくださいますよう、伏してお願い申し上げます』
茶の湯がかすかに沸く音とともに、どこからともなく、少し早いコオロギの音が響いてくる。
それは後年、秀吉が伏見城で仕掛けた「虫聞きの宴」の幻音のようでもあった。東山の夜に、コオロギの鳴き声が、優しく響き渡る。
『奥方様、もうひとつ、お願いがございます。私が生きているうちに、官兵衛が戻れるかは分かりませぬ。万が一のために、黒田官兵衛へ宛てた私の文をお預かりください』
半兵衛はそう言って、自らの軍事の秘伝書や、秀吉を支えるための参謀としての心構えのすべてを、私に託した。
「これからはお前が秀吉様を支え、天下を獲らせるのだ」という、友への熱いメッセージを添えて。
命がけの、軍師のバトン。
のちに救出された官兵衛はこの文を読んで覚醒し、秀吉を天下人へと押し上げる怪物軍師へと成長することになる。
肺の病を患っていた半兵衛は、秀吉から「京都で静養せよ」と命じられたが、「戦場で死ぬのが武士の本望」とそれを拒否し、三木城の包囲戦へと戻っていった。
そして、36歳という若さで前線で病没した。
最後まで、秀吉への義理を果たし抜いた、じつに見事な最期だった。
秀吉にとって半兵衛は、単なる部下ではなかった。遺体の前で、我が子を失ったかのように声を上げて泣いた秀吉の姿が、今も目に焼き付いている。
半兵衛の智は、人を屈服させるためではなく、
人を生かすためにあった。
戦国の世にあってなお、
その才を己の欲に使わなかったところに、
竹中半兵衛という男の「信義」がある。
「半兵衛……」
私は、今夜も手元にある琥珀色のお茶を見つめながら、そっとその名前を呟いた。
(おわり)
