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琥珀色の向こう側 ⑭ 第11話 醍醐の宴(秀吉逝去5か月前1300人の女官を萃)

    ねね(Nene - The Mother of Samurai) 第10話



    京都・東山、夜が白み始めるころ――ここは圓徳院。


    日の出前の午前4時から5時頃、京都の街を優しく包み込むのは、東山や北山の山肌に点在する巨大な寺院(知恩院、清水寺、東寺など)から一斉に鳴り響く「暁の鐘(あかつきのかね)」です。

    遠く数キロ先のお寺から放たれた鐘の音は、朝靄(あさもや)を含んだ湿った空気を伝って、

    ゴーーーン……

    と、地響きのように低く、長く響き渡ります。


    一つの鐘が鳴ると、それに呼応するように別の山の寺からも鐘が鳴り、静寂に包まれた京都盆地全体が、厳かな音の振動で満たされていきます。

    鐘の音が山々に吸い込まれていくと、夜明けを察知した鳥たちが一斉に鳴き始めます。当時は、街の中にも豊かな森や川、広大な大名屋敷の庭園が広がっていたため、鳥の数は現代の比ではありません。

    朝靄に煙る竹林や木々から、ウグイスの「ホーホケキョ」という澄んだ声や、キセキレイ、シジュウカラなどの愛らしいさえずりが、まるでオーケストラのようにあちこちから湧き上がってきます。

    いつもより早く、夜が明け始めるころに目覚めた高台院(北政所:ねね)。

    傍らに控える侍女の孝蔵主(こうぞうす)が、そっと羽織を肩にかけてくれます。孝蔵主は、かつて秀吉がその有能さを見抜いてスカウトした侍女であり、長浜の若き頃からずっとねねに仕え、苦楽を共にしてきた忠臣でした。


    ここは、伏見城から移築された化粧御殿(けしょうごてん)の最も奥まった場所にある「北書院(きたしょいん)」。

    白砂と巨石が織りなす枯山水の北庭(ほくてい)を見つめながら、ねねがぽつりとつぶやきました。

    『こんな霧深い朝だったのう、孝蔵主。あの、醍醐の宴の日は』

    『ほんに……。醍醐寺まで、弐里(約7キロメートル)。今思えば、素晴らしい日帰りの旅でございましたね。今日と同じように、朝からウグイスのさえずりが、それは美しく澄んでおりました』

    孝蔵主は懐かしそうに微笑みます。



    高台院は、手元にある宇治茶の湯気の向こうに、しばし時を忘れて、それまで見たこともなかった華やかな「醍醐の宴」の光景を心に描き出していました。

    『桜か…………』



    ◇
    あれは慶長3年(1598年)3月15日(旧暦)、早朝の伏見城でした。

    耳を澄ますと、冷たく張り詰めた朝靄の向こうから、遠くの寺の大きな鐘の音が五臓六腑に響く朝。その余韻の中に、春の小鳥たちの初々しいさえずりが重なり、どこかの台所からパチパチと薪が燃える匂いと音が漂ってくる……。

    静寂の中に「人間が目覚める音」が小さく混ざり始める時間でした。
    長屋や屋敷の台所からは、朝食のお粥を作るために火を起こす「パチパチ」という薪のはぜる音。井戸端からは、水を汲み上げる「ザザッ」という水の音や、桶が触れ合う音が聞こえます。

    そして、まだ薄暗い街道を、早朝の任務――まさにこれからの醍醐の花見の警護に駆り出される兵たち――に向けて、足軽たちが草鞋(わらじ)で土を踏みしめて「ザッザッ」と歩く音が響いていました。

    五感が研ぎ澄まされるような、どこまでも清らかで、しかしこれから始まる歴史の大舞台を前にした、かすかな緊張感が漂う――それが、420年前の伏見の「夜明け」でした。



    このとき秀吉、61歳。北政所、52歳。

    この宴に招待された大名の奥方(正室や側室)、大名婦人、公家や侍女たち、総勢約1,300人は、一度全員が伏見城の御殿へと集結します。

    身分の高い女性たちは、火鉢を仕込んで寒さをしのいだ「輿(こし:屋根付きの乗り物)」に乗り込みました。彼女たちが何枚も重ね着をしている豪華な「打掛(うちかけ)」は、単なるファッションではなく、京都・伏見の容赦ない朝の寒さから身を守るための防寒着でもあったのです。

    通常、戦国時代の大名行列といえば、槍や鉄砲を持った黒い甲冑の男たちが並ぶ武骨なものです。しかし、この日はまったく趣を異にしていました。
    それは、1,300人の美女たちによる、日本史上最も華やかな色彩のパレードだったのです。


    伏見城の巨大な正門(大手門)から、まずは主役の秀吉、秀頼、そして前田利家(宴会への参加を許された数少ない男性陣)が進みます。

    その後ろから、公式の序列通りに、1番目にねね、2番目に淀殿、3番目に松の丸殿(京極竜子)、4番目に三の丸殿(織田信長の娘)、5番目に加賀殿(前田利家の娘)、6番目にまつ(前田利家の妻)……と、目も眩むような豪華な輿の列が霧の中から次々と現れ、厳格な身分順に従って、醍醐への進軍が始まりました。


    伏見城から醍醐寺までの山道(約6〜7キロメートル)は、各大名の兵によって完全に封鎖されていました。

    「ここからここまでは徳川家が警護」「ここからは伊達家」というように、沿道にはズラリと武装した兵士たちが並び、不審者が絶対に侵入できないよう鉄壁のガードを敷いたのです。

    各大名はただ警備するだけでなく、秀吉やねねたちの輿が通る道を、塵一つないように完璧に掃除させました。さらに、自分たちの警備エリアの街道脇に、全国から集めた名産品や献上品をうずたかく積み上げてパレードを歓迎します。

    「自分の警備エリアで絶対にトラブルを起こしてはならない」という凄まじい緊張感の中、徳川家康や伊達政宗らは冷え込む早朝から街道に立ち、ねねや淀殿たちの輿が通り過ぎるのを、平伏(ひれふす)して見送っていたのです。

    この伏見城から醍醐寺までの道中そのものが、豊臣家の権力と、勝ち取った平和な世を天下に見せつける最高峰の劇場(エンターテインメント)となっていました。



    伏見城のふもとは、宇治川や巨椋池(おぐらいけ)という広大な水域に囲まれていたため、早朝の盆地特有の強烈な朝霧が立ち込めています。
    視界が白く煙る、ひんやりと張り詰めた空気の中を大行列は進みます。

    秀吉は、伏見城のすぐ近くにある「御香宮神社(ごこうみやじんじゃ)」に立ち寄り、道中の安全と、何より自らの病気平癒を祈願しました。秀吉の祈りが通じたか、霧が晴れると、当日は見事な晴天となりました。



    ◇
    ここで、この大イベントの驚くべきタイムスケジュールと、その壮絶な舞台裏を少し覗いてみましょう。

    花見当日、この巨大なイベントは「朝から夕方までの日帰り」という超過密スケジュールで組まれていました。

     〇【朝:6時〜8時頃】伏見城を出発
    1,300人の大行列は、ゆっくりと山を越えるルートを進むため、片道だけで2〜3時間がかかりました。

     〇【午前:9時〜10時頃】醍醐寺に到着
    色鮮やかな衣装に身を包んだ女性たちが醍醐寺の総門をくぐります。ねねや淀殿たちは、事前に建てられた豪華な「茶屋(休憩所)」へと案内され、身支度を整えて最初のお茶を楽しみました。

     〇【昼:11時〜15時頃】宴会・花見のクライマックス
    お昼前、秀吉が姿を現すと盛大な宴がスタート。境内に作られた8箇所の特設茶屋(各大名が競って建てたプレハブ御殿)を順番に巡りました。最高級の料理やお酒(天野酒など)、お菓子が振る舞われ、能や狂言、歌の詠み交わし、そして「衣装の着替え(お色直し)」が分刻みで行われました。

     〇【夕方:15時半〜16時頃】宴の終了と帰還
    春の日は短いため、暗くなる前に全員が醍醐寺を出発。日没後すぐの18時〜19時頃には、無事に伏見城へ帰還したのです。



    これだけの人数に、一切の手際の悪さを見せずに最高級の「もてなし」を行うため、石田三成をはじめとする豊臣政権の官僚たちは、裏で緻密なロジスティクス(物流・人員配置)を組んでいました。

    何日も前から醍醐寺の周りに臨時の調理場や物資の集積所が作られ、京都や伏見の超一流の料理人、菓子職人、そして茶頭たちが何百人も住み込みで準備を進めました。

    お茶にこだわる秀吉のために、醍醐寺の山奥から湧き出る名水(醍醐水)を、早朝から何百人もの足軽たちが桶でピストン輸送し、各茶屋の特大の茶釜へと供給し続けたのです。


    さらに秀吉は、8つの茶屋の普請(建築)と運営を、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、伊達政宗などの有力大名たちにそれぞれ「プロデュース」として分担させました。

    「我が茶屋こそ、太閤殿下と奥方様方を最も満足させてみせる」と各大名がプライドをかけて競い合ったため、食事の質やスタッフの動員は最高レベルに保たれました。

    この花見の開催が正式に決まったのは、本番のわずか1ヶ月ほど前でした。

    秀吉は「日本一の桜の楽園」を作るため、桜の名所として名高かった吉野山(奈良県)や近江(滋賀県)、京都の近郊から、見事な桜の木々を根こそぎ約700本もかき集めさせました。

    ただ数を揃えるだけでなく、早く咲く「しだれ桜」、日本の原種である「山桜」、大ぶりの「八重桜」など、複数の品種を意図的に混ぜて植えさせました。これにより、「どこを歩いても常に違う桜が満開を迎えている」という、計算し尽くされた空間を演出したのです。
    (現在、醍醐寺の三宝院の前に咲き誇る「太閤しだれ桜」は、この時の桜の子孫と言われています。)



    死期を悟りつつあった秀吉にとって、この花見は豊臣家の圧倒的な財力と「平和になった日本」を民に証明する最後のステージでした。

    そして彼自身、桜を楽しむことの中に、生命の循環やはかなさを重ね合わせ、散りゆく運命とこれまでの自らの人生を、面白がっているようでもありました。

    最晩年の秀吉はすでに病がちで、醍醐寺に到着した時点で、かなり体力を消耗していました。そこで、五奉行の一人である前田玄以(まえだげんい)は、「ただお茶を飲む場所」ではなく、当時高級と言われたサウナのような「蒸し風呂(唐風呂)」を仕込んだ、天下人のための移動式高級スパとも言える茶屋を建設しました。

    秀吉はここで旅の汗を流してリフレッシュし、大いに感動したと伝えられています。


    また、過酷な沿道警護を終えた家康や政宗たちも、休む間もなく醍醐寺の境内へ入り、今度は「茶屋のホスト(おもてなし役)」に変身して出迎える準備に追われていました。


    特に、伊達政宗は持ち前の「傾奇者(かぶきもの)」精神を発揮します。かつて秀吉の小田原征伐に遅刻した際、全身白い「死装束」を着て現れ、命がけのパフォーマンスで許された過去がある政宗を、秀吉はその度胸も含めて大好きでした。

    政宗は大名のプライドを捨てて自ら厨房に立ち、こだわりの仙台味噌や、当時は非常に珍しかった緑色の美しい餡を使った元祖「ずんだ餅」、冬の寒さを利用して自ら開発した「凍(しみ)豆腐」の煮物などを調理します。

    そしてそれをお盆に乗せ、自ら歌い踊りながら秀吉の目の前まで運ぶという、現代でいうエンタメレストランのようなサプライズを披露したのです。晩年、鬱々としていた秀吉は、この政宗のパフォーマンスにだけは、子供のように大笑いして喜んだといいます。



    ◇
    しかし、この華やかなプロデュースの陰には、壮絶な裏話もありました。
    秀吉は島津家の忠誠心を試すため、島津義久に対し、「花見に参加する女性たちの小袖(着物)を、2回のお色直し分も含めて計約3,000着、すべて島津家が用意せよ」という、とんでもない無理難題を突きつけていたのです。

    現代の価値で数十億円とも言われる莫大な負担に、島津家はパニックになりますが、必死に京都・伏見中から最高級の生地をかき集め、わずか1ヶ月で仕立て上げました。


    移動を含めてわずか10時間ほどの間に、1,300人以上の女性が「1日3回」の着替えを素早くこなすのは至難の業です。これを可能にしたのが、ねねたちの見事なアイデアでした。

    当時の女性の最高礼装は、下に着る着物の上に豪華な上着を羽織る「打掛スタイル」です。つまり、帯を一から解くのではなく、「一番上に羽織っているアウターだけをサッと掛け替える」という方法をとったのです。


    島津家が用意した3,000着の衣装は、境内8箇所の茶屋にあらかじめ分散して運び込まれ、各大名の茶屋の奥が「フィッティングルーム」に変身しました。

    女性たちは次の茶屋に移動するたびに衣装をチェンジしたため、境内を歩く行列は、桜の木の下を通るたびにまるで万華鏡のように色がガラリと変わる、最高の視覚演出(動くファッションショー)となったのです。


    ただ、裏方は大パニック。「私の着物はどこ!?」「帯が結べない!」と女中たちが叫び、身分の高い側室たちの着替えを間に合わせるために、他人の高級な打掛を間違えて羽織って出てきてしまう姫君が続出しました。

    さらに、淀殿(茶々)と松の丸殿(京極竜子)は、お互いに「相手より絶対に目立ちたい」と火花を散らしていました。彼女たちの侍女たちは、着替えの最中に相手の派閥のテントをこっそり覗き込み、「あちらは次は赤の総絞りです!」「ならばこちらは金の刺繍でいきましょう!」と、裏で壮絶な衣装情報のカンニング合戦を行っていたのです。

    境内を巡るたびに衣装を変えて現れる女性たちを見て、秀吉は大喜びしていましたが、あまりのハイペースな着替えに、ある茶屋で「さっきの茶屋と同じ緑のものを着てるぞ!急ぎすぎて順番を間違えたのではないか?」と笑いながらツッコミを入れたという、微笑ましくも必死な舞台裏が残されています。


    各大名の茶屋も、それぞれの個性が際立っていました。


    家康の茶屋は、京都の一流職人を総動員した数寄屋造りで、非の打ち所がない最高級の京料理という「王道と格式」で勝負。

    利家と妻のまつの茶屋は、ねねと大親友だったため、女性たちが最もリラックスできる空間としてデザインされ、貴重な砂糖をふんだんに使った甘いお菓子や、お酒の弱い女性でも飲める「練貫酒(甘酒のようなお酒)」を用意し、最もアットホームな工夫が凝らされていました。


    ◇
    しかし、美しい桜の裏では、豊臣家の女たちのプライドをかけたドロドロの権力闘争も勃発していました。それが有名な「杯(さかずき)争い」です。
    秀吉がお酒を飲み、その飲み残しの杯を正室であるねねが受ける。ここまでは公式の秩序通りでした。問題は「ねねの次、2番手は誰か」という点です。

    秀吉が次男・秀頼の母親である淀殿に杯を渡そうとしたその瞬間、もう一人の側室である松の丸殿が「待った」をかけました。

    淀殿は「私は天下の世継ぎを生んだ母親なのだから、実質的なナンバー2。私が最初にもらうべきです」と主張し、松の丸殿は「私の京極家は、あなたの実家(浅井家)の主君にあたる名門。しかも私の方が先に秀吉様の側室になっているのだから、先輩である私が上です」と一歩も引きません。


    秀吉の面前で激しい睨み合いが始まり、老いた秀吉は女性たちの恐ろしい気迫に圧倒され、ただオロオロするばかり。


    この最悪の空気を一瞬で変えたのが、前田利家の妻・まつ(芳春院)でした。まつは二人の間に毅然と割って入りました。

    「お二人ともおやめなさい。あなた方は秀吉様の身内でしょう。私は家臣の妻にすぎませんが、ここにいる誰よりも年上の客人であり、北政所様(ねね)とも最も古くからの友人です。ここは年長者の私が最初にいただきましょう」


    そう言って、自ら杯を受け取って飲み干したのです。

    この機転により、淀殿と松の丸殿は面目を潰されることなく席が収まり、宴席は大惨事を免れました。まつはこの日、側室たちの派閥争いを監視し、宴が円滑に進むよう「ねねの副将(チーフプロデューサー)」として裏で奔走していたのです。


    一方、家康や政宗、利家ら男性陣だけを集めた「男たちの裏の宴」は、一歩間違えれば刃傷沙汰になるほどの緊張感に満ちていました。

    この花見が催された慶長3年春は、朝鮮出兵の2回目である「慶長の役」の真っ最中だったからです。戦地では島津義弘や加藤清正らが泥沼の死闘を繰り広げており、第1回出兵の際には、島津軍は極寒の地で凍傷や疫病により約40%もの兵を失うという地獄を経験していました。

    その凄惨な状況を知る国内の大名たちは、「現場はもう限界だ」「いつ、どうやって兵を引き揚げるか」を、秀吉の耳に入らないよう小声で密談していました。

    大名たちの目の前にいる秀吉には、かつての鋭さはなく、あからさまに老い衰えていました。大名たちは、秀吉が少し席を外した隙に、「太閤様の命はもう長くはないだろう」「そうなった時、幼い秀頼様を誰が支えるのか(あるいは天下を奪うのか)」を、お互いの目線だけで探り合っていたのです。

    昨日まで栄華を誇ったものが、翌年には滅ぶ――それを何度も見てきた彼らは、「今日の勝者が明日の敗者になる」ことを誰よりも知っていました。

    だからこそ、この豪華絢爛な宴の底流にある秀吉の老い、豊臣の未来への不安を感じ取り、誰一人として心からは浮かれていなかったのです。


    しかし、ねねはこの冷酷な政治の現実の中にあっても、深い配慮を忘れていませんでした。彼女が強い意志を持ってこの花見に招待したのは、島津家の実質的なトップ・島津義久の娘であり、人質として伏見で孤独に暮らしていた島津亀寿(しまづ かめじゅ)でした。

    当時、朝鮮出兵を巡って秀吉と島津家の関係は最悪であり、一歩間違えれば人質である亀寿の身に危険が及ぶ緊迫した状況でした。

    そこでねねは、「ここで島津家を完全に豊臣の敵にしてはならない」「孤独な亀寿に、最高のハレの舞台を用意して安心させてあげたい」という両面の意図から、彼女を重要メンバーとして招待したのです。

    ねねは島津家が用意した見事な衣装を大絶賛し、秀吉の機嫌を取り持つことで、島津家が孤立するのを完全に防ぎました。人質として肩身の狭い思いをしていた亀寿にとって、ねねの計り知れない「優しさ」と「救い」を感じた、生涯忘れられない一日となったのです。



    あの春の日、醍醐の美しい桜の下で、1,300人の女性たちを笑顔にするために力を合わせてお風呂を沸かし、茶屋を建てていた男たちが、わずか2年後には日本の覇権をかけて殺し合うことになってしまう――。

    戦国時代という時の流れの速さと、その裏にある人間ドラマの切なさが、いっそう醍醐の桜の美しさを儚く、際立たせていました。



    ◇

    宴が終わり、秀吉と北政所は、伏見城へと戻ってきました。
    昼間の賑やかな喧騒も遠のき、重い衣装も脱ぎ捨てて、月夜を眺めながら二人きりで茶の湯を楽しみます。


    静寂の中、ねねがそっと言いました。
    「きょうは、ようございましたな」

    秀吉は、どこか遠くを見つめながら応えます。
    「そうかのう」


    そして、少しの間、沈黙が流れました。

    長年連れ添った夫婦だけが共有できる、温かくも切ない沈黙。
    若い頃なら、言葉や話題を必死に探したであろう空間を、今の二人はそのまま受け入れています。


    ぽつりと、秀吉が言いました。
    「桜は見事じゃった」


    ねねは、その一言で秀吉の胸の内をすべて察しました。


    『秀吉が桜の話をしていても、実際は桜のことではない。この人は、自分の終わりを肌で感じている。だからわしに、「わしの創った世はどうじゃ!」と聞いているのだ』と。


    ねねは静かに微笑み、夫を見つめました。
    「長浜の頃には、見られなかった景色でございました」


    天下統一そのものではなく、人々が、そして女性たちが安心して満開の桜を見上げられる「平和な世」を創り上げたことへの、ねねなりの最大級の賛辞でした。ねねは、どこまでも聡い女性です。


    少し間をおいて、ねねは語り掛けます。

    「秀頼様も、あのような花を見られる世が続けばよろしいですね」
    自分で生んだ子ではなくとも、ねねにとっては尊い育ての子。その未来を願う言葉でした。


    秀吉は、自分を安心させるように呟きます。
    「利家もおる、家康もおる、宇喜多もおる……」



    ねねは心の中で思います。
    『家康殿は、確かに約束を守る男でしょう。しかし、約束を守れる世の中であり続けられるかどうかは、また別の話……』


    そして、ねねは静かに言葉を返しました。
    「人の心は、思うようにはなりませぬ」


    ねねの脳裏に過ったのは、淀殿のことでもあり、諸大名の思惑でもあり、そして秀頼自身の運命でもありました。



    秀吉は、それきりしばらく黙ってしまいました。


    そんな夫の、少し小さくなった横顔を見つめながら、ねねの心に去来したのは、昼間の宴で家康がどこに座ったかでも、政宗が何を献上したかでもありませんでした。

    ただ、満開の桜を見上げていた、この秀吉の横顔だけだったのです。

    その横顔に、長浜の時代、まだ何者でもなかった若い日の夫の面影を重ね合わせて、ねねは心の中で、そっと語り掛けました。
    『あなた、本当によく、ここまで歩いてこられましたな――』


    豊臣秀吉の辞世の句

    「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
      Like the morning dew I fall, and like the dew I vanish.
      All that I built in Osaka was but a dream within a dream.


    (終わり)

     
     
    今朝、McDonaldの安いコーヒーを飲みながら新聞を広げていました。かつてビジネスマンだった頃の風景と重なり合います。まだまだ、好奇心に陰りは無いようです。カップの向こう側に浮かんだ「景色」を書き留めておく記憶の「保管庫(note)」です。

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