
琥珀色の向こう側 ⑮ 第12話 ねね養父浅野長勝の同僚太田牛一(『信長公記』著者)が語る桶狭間
ねね(Nene - The Mother of Samurai)第12話
京都・東山。
深い夜に包まれた圓徳院(えんとくいん)のお堂の中で、高台院(ねね)は一人、小さな仏像の前に座り、静かに手を合わせていた。
優しく揺れるロウソクの炎が、黒光りする木像をほのかに照らし出す。
それは、秀吉が生涯肌身離さず持ち歩き、いつも愛おしそうに触っていたために、角がすっかり丸くなった「三面大黒天(さんめんだいこくてん)」であった。
ねねは、その丸くなった木肌にそっと指先を触れ、心の中で亡き夫に語りかける。
(……藤吉郎殿。あなたがまだ、ただの足軽だった頃。毎日のように懐からこの仏様を取り出しては、『これに誓って、俺は日本一の出世をしてみせます、ねね!』と大笑いしながら撫でておられましたね。本当に、あなたは天下をお取りになりました)
この仏像には、三つの神の顔が彫られている。
戦を司る「毘沙門天(びしゃもんてん)」、芸術と美を司る「弁財天(べんざいてん)」、そして富と福をもたらす「大黒天(だいこくてん)」。
(いま、世間の者たちは、あなたが毘沙門天のように恐ろしい力で戦い、大黒天のように巨万の富を築いたことばかりを噂しております。そして、豊臣の家が衰えてゆくのを、遠巻きに眺めているのです。けれど、私だけは知っています。あなたがこの仏様を一番熱心に拝んでいたのは、天下人になってからではありませんでしたね)
織田信長様に叱り飛ばされ、長浜の領民の税の計算に頭を抱え、柴田勝家殿たちに「猿」と馬鹿にされながらも、美濃や尾張の貧しい井戸端で、ねねと二人、泥のついたシジミを冷たい水で洗っていた――あの、いちばん必死で、いちばん輝いていた若き日々。
(あなたが本当にこの大黒様に願っていたのは、天下の権力などではなく、
ただ
『ねねをひもじい目に遭わせたくない』
『仲間たちと、明日も笑って生きていたい』
という、小さくて優しい、弁財天のような穏やかな人の心だったはずです。
藤吉郎殿。
豊臣の城も、黄金の茶室も、やがて時代の砂に埋もれて消えてゆくでしょう。
でも、安心してください。
あなたがまだ何者でもなかった頃の、あの泥臭くて、優しくて、お調子者だった『藤吉郎』の本当の輝きだけは、私がこの高台寺で、この大黒様と共に、最後の最期までこの世に留めておきますからね。
ですから、あの世で信長様や、我が養父(浅野長勝)と、また楽しそうに干し柿でも齧りながら、私がそちらへ行くのを、もう少しだけ待っていてくださいな)
パチリ、とロウソクの灯が爆ぜ、影が長く伸びた。
その揺らめく炎の向こうに、ねねは遠い幼少期の記憶、そして豊臣と浅野の「原点」である、あの凄まじい熱気に満ちた織田家の若き日々を見ていた。
◇
ねねの養父である浅野長勝(あさの ながつき)は、信長の父・信秀の代から織田家に仕え、信長の青年時代には、親衛隊である馬廻(うままわり)の「弓衆頭(ゆみしゅうがしら)」を務めていた武骨な男であった。
当時、「うつけ(うつけ者:常識外れの若者)」と呼ばれていた若き日の信長は、自らの手足となる若者たちを側近として集め、毎日一緒に川で泳ぎ、乗馬や鷹狩り、激しい兵法修行に明け暮れていた。
養父・長勝は、その信長のすぐ横で絶対に敵を近づけない、通さない、凄腕の近習「六人衆(弓三張、槍三本)」の一人に数えられる弓の名手であった。
彼の放つ矢は、敵の頑丈な鎧をも容易に射貫くと恐れられていた。のちに歴史書『信長公記(しんちょうこうき)』を記す太田牛一(おおた ぎゅういち)も、長勝と同じ「弓三張」の一人であり、のちに豊臣の宿老となる前田利家は「槍三本」の一人として、寝食を共にした仲間だった。
信長は、この信頼する馬廻たちの屋敷へ、前触れもなく頻繁に出入りしていた。
ある日など、腰の帯にたくさんの「干し柿」をジャラジャラとぶら下げた奇妙な姿で、浅野の屋敷にふらりと現れ、出された飯をご飯粒を飛び散らせながら豪快に喰らっていた。
そして、庭の隅にいた、まだ10歳ほどの幼いねねを見つけると、照れ隠しのように、腰の干し柿を一つ引きちぎり、
「おい、小娘!これを食え。もっと大きゅうなれ!」
と、手荒に投げつけてよこした。
不器用で、しかし誰よりも「生きること(食べること)」の尊さを知っていた信長なりの、命へのエール。ねねはその干し柿の甘さを、今でも鮮明に覚えている。
その時、ねねの腕の中には、激しく泣きじゃくる生まれたばかりの妹「やや」が抱かれていた。
時が流れ、豊臣の世になっても、あの頃の戦友であった太田牛一は、歴史の取材のために時折、ねねの元を訪ねてきては、懐かしそうに目を細めて語るのだった。
「北政所様。あの『桶狭間の戦い』こそは、利家ら若手の母衣衆(ほろしゅう)が命がけのダッシュで信長様を追いかけ、我らベテランの六人衆が信長様の脇を盾となって固めて完成した、一生に一度の奇跡の勝利でございました」
信長が今川義元の大軍を迎え撃つため、清洲城を飛び出した瞬間、ついて行けたのはほんの数騎だった。しかし、熱田神宮に到着するまでに、若き前田利家や毛利新介らが、馬の腹を血がにむほど蹴り、大汗をかいて次々と合流した。
今川軍の本陣にじりじりと近づいた瞬間、にわかに天が曇り、大地を揺るがすほどの豪雨と強風が吹き付けた。沓掛峠の巨大な楠がへし折れるほどの嵐。牛一は「あれは熱田明神の神風に違いありません」と、今でも興奮気味に語る。
雨が上がった刹那、信長が「すわ、かかれえっ!」と槍を天に突き出し、突撃が始まった。
長勝や牛一ら六人衆は、信長が敵陣へ孤立して飛び出さぬよう、本陣で信長の馬のすぐ横にピタリと張り付き、飛んでくる矢を自らの身体で遮り、道を阻む敵を弓で射倒した。若手が敵の首を獲る「矛」であったなら、父・長勝らは信長の命を絶対に死守する「盾」であったのだ。そして激しい乱戦の末、今川義元の首を討ち取った。
「あの時、父上も牛一殿も、本当に格好よろしゅうございました」
その太田牛一が、明後日、再びこの圓徳院を訪ねてくるという。
ねねは、五奉行の一人であり、今は亡き浅野長政の妻となった妹の「やや」を、この庵に呼び寄せていた。
夫・長政に先立たれたややは、出家して「一宝宗玉(いっぽうそうぎょく)」、そして庵の称号として「長生院(ちょうせいいん)」と名乗っていた。
『長生院――家族や一族が、どうか次の時代も、戦争に巻き込まれることなく長く無事に生きてほしい』
激動の戦国を生き抜いた、ややの切実な祈りが込められた名であった。
ねねは、静かに微笑みながら呟く。
「ややの夫の長政殿は、若き日に長浜城の留守居役を務め、信長様の『楽市楽座』をさらに発展させて、長浜の街を『無税の商業都市』に作り上げた。あの功績があったからこそ、のちの太閤検地や五奉行への出世へと繋がった。ややもまた、浅野の家を裏から必死に支え続けた偉い女(ひと)です。岐阜や長浜の時代に、毎日のように顔を合わせていた牛一殿と会えば、ややも少しは昔に戻って、気が休まるでしょう」
「昔話をしようぞ、やや、牛一。あの、熱かった若き日の話を――」
第11話 終わり
あとがき : 歴史の砂に埋もれぬ「浅野家」の知られざる血脈
ねね様がその生涯をかけて成し遂げた最大の功績の一つに、「血筋と文化の継承」があります。ねね様自身には子供がいませんでしたが、妹・ややが繋いだ「浅野家」の血脈は、江戸時代を通じて日本経済に凄まじいイノベーションを起こし、現代へと奇跡のように繋がっています。
① 広島の牡蠣、赤穂の塩:浅野家が起こした経済の奇跡
ややの長男・浅野行長(ゆきなが)の系統は、のちに安芸・広島藩42万石の大名となり、幕末まで続きます。この初代藩主・浅野長晟(ながあきら)が、和歌山から「牡蠣(かき)の養殖技術」を広島に移植したと伝えられています。これが江戸時代を通じて一大産業へと成長し、現在の「広島の牡蠣」のブランドの礎となりました。
また、ややの三男・浅野長重の系統は、分家して播磨国・赤穂藩(兵庫県)を治めることになります。浅野家はわずか3代の間に、日本随一の広大な塩田(約100ヘクタール、甲子園球場約25個分)を開発。労働者を組織化し、のちに近代産業の爆発的発展を支える「工場制手工業(マニュファクチュア)」をいち早く取り入れ、大量生産を実現しました。表向きは「5万石」の小大名でありながら、この塩田による莫大な富により、実質「10万石以上」の経済規模を誇っていたと推定されています。
② 赤穂浅野家の家紋「丸に違い鷹の羽」に秘められたプライド
赤穂義士(忠臣蔵)でお馴染みの浅野家の家紋「丸に違い鷹の羽(ちがいたかのは)」。実はこの紋章のルーツこそ、第11話に登場した養父・浅野長勝の生き様にあります。
大の鷹狩り(たかがり)好きだった信長に常に同行し、信長直属の精鋭「弓三張(六人衆)」の筆頭として仕えた長勝。弓の矢の「羽」には、最も強靭で最高級とされる「鷹の羽」が使われます。
つまりこの家紋は、「我らは信長様のすぐ横で、鷹の羽の矢を番(つが)え、命をかけて主君を守り抜いた最強の弓の家系である」という、うつけ時代に培った最大のプライドが込められたデザインなのです。
やや様が命がけで守り抜いたこの家紋は、のちに赤穂浅野内匠頭長矩(たくみのかみ ながのり)、そして赤穂浪士47士へと受け継がれ、日本人の心に深く刻まれる「信義(しんぎ)」の象徴として、時代を超えて語り継がれることになります。
京都の高台院(圓徳院)には姉のねね様が眠り、茨城県の伝正寺(稲田浅野下屋敷跡)には、妹のやや様が眠っています。東西に離れてはいますが、二人が遺した「日本の文化と信義の心」は、今なお美しく息づいています。

掲載画像「image.png」の手書き系図について
本文の締めくくりとして、私が書き起こした杉原家・浅野家・安井家の手書き系図(image.png)を添付いたします。
ねね・やや姉妹がどのように浅野の家に組み込まれ、そして、ややの血脈が「広島42万石の牡蠣産業」と「赤穂浅野家の塩田開発、そして元禄14年の松の廊下(忠臣蔵)」へとダイナミックに繋がっていくのか、その歴史の大きなうねりをぜひ指で拡大しながらご覧ください。
(おわり)