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39歳、韓国で本来のわたしに戻る旅路。

    あの頃のわたしは、人生をやり直したかったわけじゃない。ただ、一度くらい、自分で選んだ人生を生きてみたかった。

    ソウル行きの飛行機に乗りながら、ふと、中学生の頃のことを思い出した。

    技術の授業で判子を作った日のことだ。

    みんなは自分の名前や好きなアイドルの名前を彫っていたのに、わたしはなぜか、ハングルで「안녕하세요」と彫った。

    「アンニョンハセヨ」。

    なのに、どうして五文字なんだろう。

    意味もよく知らなかった。ただ、そのまぁるくてやわらかい文字が好きだった。

    当時は、大韓航空機爆破事件の影響で、テレビや新聞から伝わる韓国は、どこか遠くて少し怖い国だった。それでも、わたしの中には不思議と嫌な印象は残らなかった。

    まさか、その何十年後に、その国で暮らすことになるなんて。中学生のわたしは、想像もしていなかっただろう。


    わたしは、親の顔色を見ながら育った。

    家庭の中には、いつも重たい空気が流れていた。両親は顔を合わせれば不機嫌をぶつけ合い、家の中では、誰かの機嫌がその日の空気を決めていた。

    どうすれば仲直りできるのかなんてわからない。

    だから、なるべく波風を立てないように生きた。

    わたしさえ我慢すれば。
    わたしさえ迷惑をかけなければ。

    そう思うことが、いつの間にか当たり前になっていた。


    「手のかからない子だった。」
    そう言われていた。

    でも、本当に手がかからなかったわけじゃない。
    ただ、かけられなかっただけだ。

    泣きたいときも、わがままを言いたいときも、自分の気持ちを飲み込む癖がついていた。

    高校二年生のとき、原因のわからない微熱が何週間も続いた。
    病院で告げられた病名は、自律神経失調症。

    家にいる時間が苦しくて、学校が終わるとアルバイトへ向かった。

    大学へ行きたい。

    そう思わなかったわけじゃない。
    でも、「行きたい」と言う勇気がなかった。

    反対されるのも怖い。

    賛成されるのも怖い。

    いつの頃からか、自分が何を望んでいるのかより、人にどう思われるかを優先して生きるようになっていた。


    二十七歳のとき、母が倒れた。

    「買い物に行くけど、一緒に行く?」

    部屋の外から聞こえた母の声に、顔も出さず「行かない」と返事をした。
    一週間前にケンカをしてから、口をきいていなかった。
    それが、母との最後の会話になってしまった。

    夕方になっても台所の灯りはついていなかった。部屋をのぞくと、母は高いびきをかいて横になっていた。

    くも膜下出血だった。

    救急車のサイレン。

    病院の白い廊下。

    駆けつけた姉がわたしに言った。
    「お前が家にいたのに、なんでこうなるのよ。」

    その言葉は、何年経っても胸の奥に残った。
    数時間後、母は意識が戻らないまま亡くなった。

    看護師さんが静かに言った。
    「お母さんがこうなったのは、あなたのせいじゃないわよ。」

    その一言だけが、あの日のわたしを支えてくれた。


    それでも、わたしは自分を責めた。
    もっと優しくできたんじゃないか。
    一緒に買い物へ行けばよかったんじゃないか。

    やり直せない時間だけが、静かに積み重なり、わたしは自分を責め続けた。


    三十代になり、職場の先輩に誘われて韓国を訪れた。

    初めて降り立った金浦空港。
    ガイドさんの車に乗ると、雨が降り出した。

    「ああ、やっぱりね。」

    わたしの「初めて」は、なぜかいつも雨だった。
    けれど、不思議なことに車を降りる頃には雨は止み、また乗ると降り出す。

    歓迎されているような気がして、少しだけうれしかった。

    江南の高いビル。
    南大門市場の活気。
    聞き慣れない韓国語。

    すべてが新鮮だった。
    でも、いちばん印象に残ったのは景色ではない。

    人だった。

    道を尋ねれば、一緒に歩いてくれる人。
    言葉が通じなくても、なんとか伝えようとしてくれる人。

    そのまっすぐな優しさが、少しずつ、閉じていたわたしの心をほどいていった。

    帰国してからも、韓国のことばかり考えていた。
    本屋へ行けば韓国の本を探し、次はいつ行こうか、そればかり考えていた。

    生まれて初めてだった。
    こんなにも、一つの場所に惹かれたのは。

    恋だった。
    人ではなく、国に恋をした。

    恋をすると、人は会いに行きたくなる。
    わたしもそうだった。


    三度目の韓国旅行からは、ひとりで地方を旅するようになった。

    誰かと予定を合わせなくてもいい。
    朝起きて、「今日はどこへ行こう」と考える時間が好きだった。

    右へ行く?
    それとも左?
    このバスで合ってる?
    あのお店、入ってみようか!

    誰かの「おすすめ」じゃなく、自分がどうしたいかで決める。
    そんな当たり前のことを、わたしは三十代になって初めて練習していた。

    ある日、清州へ行くつもりが、聞き間違えて全州行きのバスに乗ってしまった。

    知らない土地。
    知っている人は誰もいない。
    韓国語もまだ思うように話せなかった。

    以前のわたしなら、きっと頭の中が真っ白になっていたと思う。
    でも、不思議と絶望はしなかった。

    駅の窓口の青年に事情を話すと、観光公社へ電話をしてくれた。
    そして、全州までたどり着けるようにと、行き先を書いたメモを作ってくれた。

    文字が、とてもきれいだった。
    急いで書いたはずなのに、一文字一文字に誠実さがにじんでいた。

    青年が改札で見送ってくれた。
    日本なら、「しっしっ」の手振りだけど、韓国はちがう。

    「気をつけて行ってね。」
    「大丈夫だからね。」

    そんな言葉まで一緒に届く気がするしぐさだ。


    韓国では、どういうわけか、そんな人にばかり出会った。

    どうしてなのかは、今でもわからない。
    ただ、それが、わたしにとっての韓国だった。


    もっと、韓国の人と意思疎通してみたい。
    勉強が苦手だったわたしが、前のめりで韓国語学習をはじめた。

    学生の頃のわたしが知ったら、それはそれは驚くだろう。
    もう、夢中になって勉強した。

    好きという気持ちは、ときどき努力を飛び越える。
    気づけば、勉強嫌いだったわたしが、毎日ハングルを書いていた。


    旅を続けるうちに、変わったのは韓国語だけじゃなかった。
    わたし自身も、少しずつ変わっていった。

    ある日、あまり気の進まない誘いを受けた。
    以前のわたしなら、「せっかくだから」と無理をして行っていただろう。

    断って嫌われるくらいなら、自分が我慢したほうがいい。
    ずっと、そう思って生きてきた。

    でも、そのときは違った。
    一度持ち帰って考え、「ごめんなさい」と伝えた。

    それだけだった。
    地球は逆回転しなかった。
    人間関係も壊れなかった。

    心の中では、「わたし、断れた!」と飛び跳ねるくらいうれしかった。

    ほんの小さな出来事だった。
    でも、わたしにとっては革命だった。

    韓国を旅しながら覚えたのは、韓国語だけじゃない。

    「自分で決めてもいい。」

    そんな当たり前のことだった。

    ずっと、誰かの期待に応えながら生きてきた。
    だから、自分が何をしたいのかより、「どう思われるか」を先に考えてしまう。

    韓国には、そんなわたしを知っている人が、一人もいなかった。

    「手のかからない子」なのも

    「ちゃんとしている人」なのも

    「断れない人」なのも

    そこにはただ、「わたし」という一人の人間がいただけだった。


    誰も、昔のわたしを知らない。
    だから、昔のわたしを演じなくてもよかった。
    それは、思っていた以上に自由だった。


    あの日、東日本大震災が発生した。

    テレビから流れ続ける映像を、信じられない思いで見つめていた。
    津波が町をのみ込み、人が探し続ける人の名前を呼ぶ。

    涙が止まらなかった。

    二十七歳で母を亡くしたときも、命は突然終わるものなのだと思った。
    でも、震災は、その現実をもう一度わたしに突きつけた。

    何度か被災地へボランティアに通った。

    その日は、泥に埋もれた家の中から運び出されたアルバムの写真を、一枚ずつ選り分ける作業だった。

    「全部捨ててください。」

    ご家族はそう言った。
    その言葉を聞いた瞬間、手が止まった。

    写真には、笑っている家族がいた。
    ご家族の歴史が、そこにはあった。
    誰かが確かに生きてきた時間が残っていた。

    それを「全部捨ててください」と言わせてしまう災害の大きさに、胸が締めつけられた。

    人は、いつ死ぬかわからない。

    いつか、時間ができたら。
    もう少し落ち着いたら。
    お金が貯まったら。

    そんな「いつか」は、本当はどこにもないのかもしれない。
    すると、「死ぬとき後悔したくない」そんな言葉が聞こえてきた。

    韓国で暮らしてみたい。
    旅行じゃなくて。
    住んでみたい。

    それを「いつか」にしてしまったら、わたしは後悔するだろう。
    え?と思う間もなく、具体的に韓国で暮らす気持ちが固まっていた。

    東日本大震災から半年、もうすぐ三十八歳のとき。

    よし、仕事を辞めて韓国へ行こう。

    そう決めたら、不思議なくらい心が軽くなった。


    「その歳で韓国?」

    「帰ってきたらどうするの?」

    「もったいない。」

    そんな声も聞こえた。

    以前のわたしなら、そのひと言ひと言に揺れていたと思う。
    でも、もう違っていた。

    韓国を旅するたびに、自分で決める練習をしてきた。

    右へ行くか。
    左へ行くか。

    小さな選択を繰り返すたびに、わたしは少しずつ、自分の選択を信じられるようになっていた。

    迷いはなかった。

    この人生は、わたしのもの。


    行ってみたい!

    その気持ちだけで十分だった。


    仕事を辞め、翌年、韓国へ渡った。

    大学の手続きも、送金も、ビザの申請も、全部ひとりでやった。
    自分でやってみよう!より、自分でやってみたい!と思った。

    手続きが終わるたび思った。

    「ほら、できたじゃん。」

    自分をどんどん信じられるようになっていた。


    語学堂はいろいろ考えて、一学期で辞めた。

    迷いがなかったわけじゃないけど、もっと韓国の人たちの中で暮らしたい。そう思った。

    梨大近くの下宿へ移り住み、ポジャギの工房へ通い始めた。

    望んでいたものの、想像以上に韓国語だけの世界だった。
    聞こえなくても話せなくても、会話はどんどん進んでいく。
    辞書で調べるからなんて、待っててもらえない日常。

    だけど、聞こえたときの喜び、通じたときの感動はたまらなく幸せだった。
    発音や文法ができなくても、韓国語が好きで韓国語でコミュニケーションを取りたいわたしに、韓国の人たちは寛容だった。

    下宿では、食事の準備を手伝わせてもらうようになった。
    毎朝、支度をしながら、通じては笑い、通じなくては笑った。

    そんな中で、わたしは、人に頼ってもいいことを知った。
    オモニは、何かとわたしを頼ってくれたから。
    下宿生活のおかげで、人との距離感のたいせつさを教えてもらった。

    本音と建て前ではない、「お互いさま」を体感した。
    日本的な「させていただく」文化もうつくしいけど、「してあげられることしかしてあげられない」ストレートな感覚。

    「してあげられるからしてあげる」とも言えるかもしれないし、もしかしたら、語弊があるかもしれないけど、わたしはそう受け取って生活していた。
    なにより、その感覚に安堵した。

    以前のわたしなら、「申し訳ない」が先に立っていたし、申し訳ないって言ってたけど、韓国ではそれは「水くさい」になることがある。

    それを知ってからわたしは、盛大に「ありがとう」という気持ちだけで受け取れるようになった。

    人に迷惑をかけないことばかり考えていたわたしは、人の親切まで遠ざけていたのかもしれない。


    誰もわたしを知らない場所で暮らした。
    それが、わたしには必要だった。

    親の顔色なんて関係ない。
    職場での役割も関係ない。

    「ちゃんとしなきゃ」という目なんていらない。

    そこでは、昨日までのわたしでいる必要がなかった。
    だから初めて、自分が笑いたいときに笑い、困ったら困ったと言えた。

    少しずつ、本来のわたしが戻ってきた。
    韓国がわたしを変えたわけじゃない。
    でも、韓国に来なかったら、たぶん、あのままのわたしだった。


    韓国がわたしを変えたわけじゃない。
    でも、韓国じゃなければ、この一歩は踏み出せなかったと思う。

    誰もわたしを知らない場所で暮らしたから、わたしは本来のわたしで笑うことができた。
    いろんな役割の自分を少しずつ脱いで、「わたしはどうしたい?」と、自分に問いかけられるようになっていた。

    遠回りだった。

    ずいぶん時間もかかった。

    それでも、ようやくここまで歩いてきた。


    あの頃のわたしに伝えたい。

    大丈夫。
    あなたが好きになったその国は、いつかあなたの居場所になるよ、と。

    この先も、韓国との縁は思いもよらない形で続いていく。
    何度も訪れ、何度も別れ、笑って、泣いて、ときには傷つくこともある。

    韓国を案内する仕事をすることになるなんて。
    人生を揺るがす出会いや別れが待っているなんて。
    車で韓国中を旅する日が来るなんて。

    このときのわたしは、まだ何ひとつ知らない。
    でも、それでよかった。

    人生は、先が見えないからおもしろい。
    あの日、「안녕하세요」と彫った中学生のわたしも、 三十九歳でソウルの空を見上げていたわたしも、 きっと同じものを信じていた。

    意味なんて、あとからついてくる。
    だから今日も、自分で決めて歩いていこう。

    わたしの人生の旅は、まだ途中なのだから。




    #創作大賞2026
    #エッセイ部門

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