
花言葉エッセイ:ごめんなさい、少子化を進めたのは私の母かもしれない(カーネーション)
赤いカーネーションの花言葉:「母への愛」「熱烈な愛」「愛を信じる」
私の母は保育士であり、仕事をしながら3姉妹を育て上げたスーパーウーマンである。
まだ、女性が外で働くことは「贅沢」で「我儘」な時代に、祖母の手を借りながらも、家事と育児を一人で担いながらも働き続けた。本当にすごい人だと思う。私には出来ない。
でも、その母の言葉が、母になった今の私を苦しめる。
「私はやってたけどね」という呪縛
働きながら子供を育てるのは、簡単ではない。くしゃみでもすれば吹き飛んでしまうような緊張感で、薄い紙同士を天秤にかけてバランスをとるような、そういう日々が私の愛すべき日常である。
私の中では「週末に離乳食を作りだめておくこと」も、「娘を保育園に長時間預けること」も、「組み合わせを考えなくて良いように、娘の服を制服化して同じ服を着せ続けること」も、今を生きるために必要な術である。
それは「上手くやる」ためのライフハックではない。私にとっては、今を生き抜くための切実な術である。
でも私の母には、それが不思議でたまらない。
ご飯は仕事が終わってから急いで作って、毎日出来立てを食べさせてあげたら良いのに。
仕事は時短にして保育園に預ける時間を減らせば良いのに。
せっかく今の時期にしか着せられない服があるから、可愛い服を選んであげたら良いのに。
そう。私はそうやって愛情を受けて育ってきたのだ。私の母にとって、それらは「愛情」なのだ。
でも、私にはできない。今この働き盛りのタイミングで仕事を取り上げられたら、きっと娘を恨んでしまう。ただでさえ産休育休で周回遅れに入っている私が、これ以上スピードを落とすわけにはいかない。
睡眠不足になってフラフラになって不機嫌になるなら、平日はルーティーン化して少しでも余裕のある状態で過ごしたい。そのために判断の回数を減らしたい。そうでなくても、育児はイレギュラーなのだから。
わかっている、母は子供が好きなのだ。
母は子供が大好きだ。子供を一番にしない親が、きっと悲しくて仕方ないのだ。
保育士の母が家で語る保護者への愚痴は、今でも私に刺さって抜けない棘である。母から見たら、私も「子供というアイテムが好きなだけで子供自体を愛せていない」「子供より仕事の方が大事な」「まだ親になる資格のな未熟な」親なのだろうか。
そう思っている母が、悪気なくいう一言に、今までどれほどの保護者が傷ついてきたのだろうかと思うと、ゾッとする。
子供が好きで、子供を愛するあまり、親の人生を都合よく考えている。それは、自分の人生の裏返しでもある。子供を優先にして、自分の人生なんて後回しにしてきた人は、自分もそれを周りに強要する。
第一子を望むかと、第二子を望むかには、大きな溝があると思う。
その溝を、せっせと深くして少子化を進めたのは、もしかして私の母なのかもしれない。
そんな母に対して、かけてあげられる言葉を、母になったはずの私は、まだ持たない。
だから、母よ長生きしてほしい。私は必ず、あなたにかける言葉を見つけるから。そんな、母の日は、ありだろうか。